24/Sub:"教官"
紅茶の熱がゆっくりと空気に奪い取られていく過程を味わいながらタルトをつまむ。栗の香ばしい味がゆっくり口の中に広がって、優しい甘みが紅茶の苦味と調和を取った。
お互いに無言で、二人の雰囲気を楽しむ。どれだけそうしていただろうか。皿の上に乗ったものが無くなり、カップの水深が浅くなったころに咲江が口を開いた。
「さて、じゃあそろそろ始めましょうか」
片付けてくるわね。そう言って彼女はユーリの前に置かれていた空の皿とカップを取って重ね、台所に向かった。
「手伝います」
ユーリはそう言って台所についていく。あっ、と咲江の声が上がったのに一瞬で反応して足を止めた。
「あのー……そのね、ユーリ君。あんまり台所には入って欲しくないかなー……って」
咲江が台所の入り口で複雑そうな表情を浮かべながら、台所の、おそらくはシンクの方をチラチラと見ながら言った。彼女の大柄な身体に阻まれて、台所に入ることはできない。もとより、強引に入る気もなかったが。
一人暮らし、台所。これだけでユーリは何となく答えを導き出す。ここで取る選択肢は台所に力づくで入って片づけをする、と引き下がる、があるだろう。しかし人には触れられたくない物というのは大いにあるもので、わかっていてそれに触れるというのは野暮というか、紳士的ではないだろう。
「……わかりました。リビングで大人しくしています。咲江教官」
「うん、うん。そうね、ユーリ君、待っててね」
大人しくリビングの、先程まで座っていた椅子に戻る。まだ分子が自分のそれと同じ速度で運動している椅子は、まだ座ると温かった。
台所から流れてくるガシャガシャとした音と、時折響く咲江の小さな悲鳴に耳を傾けながら椅子を温めていると、ふとそう言った音が止む。おや、と思っていると台所から咲江が出てきた。
「ごめん、おまたせ」
「いえ、そこまででしたよ」
嘘だった。本当はそこそこ待ったし、いつ台所から破砕音や悲鳴が響くのか、若干冷や冷やしてはいた。そうしてそう言うアクシデントが一切なく『片付け』が終わったのはある意味幸運でもあっただろう。何かあればさすがに台所の禁止区域に立ち入らざるをえなかっただろうし、そうすれば彼女が隠したかったプライベートに触れてしまうことにもなるだろう。そういう危険性を回避できたのは本当に幸運だった。
「さて、じゃあやりましょうか」
頬に小さく汗の浮かんだ咲江が、目を薄く細めながらほほ笑みを浮かべながら言う。彼女はリビングの真ん中に正座すると、太ももを急かすようにポンポンと叩く。有無を言わせない謎の圧を感じながらも、ユーリは咲江の膝枕に頭を預ける。後頭部が柔らかくも、しっかりとした感覚に支えられ、甘い匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。そういう種族だからなのだろうか、この甘い匂いを嗅いでいるとどんどん意識がふわふわしてくる。なんというか、身を投げ出したくなるような、そんな感覚にすら陥らせられる。彼女の甘い匂いに混ざって香ってくる、空の匂い。それが余計彼のコントロールを不安定にさせていく。
「アイハブ?」
そんなユーリの様子に気付いた咲江が、悪戯っぽい表情を浮かべながら彼を見下ろしてくる。彼女の豊かな胸部に隠れて顔の全体が見えないが、顔の上半分と目だけが胸部の輪郭から覗いている様子は、なんだかおもしろかった。
「ユーハブコントロール……」
眠くなってきた。ぼんやりと濁る思考の中でそう返すと、彼女の『アイハブ』という返事が聞こえたような、聞こえないような。そんな気がして、彼の精神はあっという間に夢の中の空に飛び立っていった。
――どこか遠くで、ジェットエンジンの音が響いている気がする。
気が付くとユーリは航空基地の、滑走路の端に立っていた。白い縞模様が縦に並ぶこれは滑走路端の標識だな、と周囲を見渡していると遠雷の音が響いてくるのに気づいた。低バイパス比ターボファンエンジンの音だ、と気付き、そちらを振り向いたときにはその姿が滑走の向こうに見えていた。
F/A―M28、ブラックオウル。滑走路の反対側にいるそれが、遠雷の様なジェットエンジンの轟音を響かせながらこちらを真っすぐ向いていた。スリット状のセンサーがちりばめられたキャノピーがまるで目の様にこちらを睨んでいた。3,000メートルはあろうという距離にあるブラックオウルだが、ユーリの竜の瞳はその輪郭をはっきりと捉えられていた。ブラックオウルの前脚がぐぐ、と沈みこんだ。
見えない手が手放したかのように、急にブラックオウルが駆けだした。ぐんぐんとその姿が大きくなっていき、やがて遅れてきて響いていた遠雷の様なジェットエンジンの音が大きく、甲高くなっていく。ぐんぐんと大きくなっていくブラックオウルの機首が、くい、と持ち上がった。翼の上に減圧雲の白いドレスが瞬き、ふわりと全長二〇メートル、人工筋肉製の翼を銘一杯左右に広げた、場所によっては鋼鉄よりも硬い炭素複合材性の鳥が空に舞い上がる。出ていた足がすぅ、と滑らかに折りたたまれて胴体に収納され、ぐんぐんと加速を続ける。エンジンから吹き出す青い炎が機体の後方に見え始めた。
轟音がユーリに叩きつけられた。暗灰色の機体がユーリの頭上を飛びぬけた。翼が起こした爆風の様な後方乱気流が、透明な津波のように押し寄せてユーリの身体を押し流そうとしてくる。反射的に腕で目を覆い、思わず一瞬バランスを崩しかけるがすぐに足を動かして持ち直した。
咲江教官か。
振り向くと、轟音を立てながらブラックオウルがほぼ垂直に空に向かって登っていく。金属水素燃料を低バイパス比デトネーション器ターボファンエンジンで燃やし、スクラムバーナーも兼ねるオーグメンターに燃料を流し込んで、薄く青いダイヤモンドコーンを描く炎を吹き出すエンジン二基を輝かせて空に突き進んでいく様は放たれた一本の矢か、はたまた槍か。推力重量比が2を超えるブラックオウルの上昇はまるでロケットのようだ。
垂直に登っていったブラックオウルはゆっくりとピッチアップし、翼端から糸のような飛行機雲をたなびかせながら蒼穹の空の真ん中で一八〇度ロールし、インメルマンターン。そのまま緩やかに旋回し、飛行機雲をたなびかせながら蒼い空に白い弧を描いた。
鼓動が高まっているのをユーリは意識した。まるでアンジェリカといるみたいにドキドキと心臓が脈打っている。これも夢の中の感覚なのだろうか、それとも実際の肉体がそう反応しているのがフィードバックされているのか。ユーリはその興奮に突き動かされるように、頬を緩ませながらクラウチングスタートの姿勢を取った。彼の四肢が光に覆われ、人の姿から竜人の姿へと変化したユーリ。着ているのはいつぞやの白いテスト用フライトスーツ。視界に直接様々な飛行情報が投影され、まるで自分の周囲を光の輪と線が囲んでいるような形で、視界に直接水平指示器が表示された。飛行術式を起動。翼が白い光に覆われ、飛行術式の低音がどんどん高音へと変化していき、翼の後端から青いダイヤモンドコーンを描いて噴射光が伸びる。ぐぐ、と推力が増し、ユーリの身体が前方へと押し出され始める。彼の頭上に細く、淡い、ホロウ・ニンバスが浮かび上がって、すぐに消えた。
クリアフォーテイクオフ。
誰かにそう言われた気がして、ユーリは弾かれたように駆け出した。地面を蹴り、推力に背中と翼を押されて速度が増していき、翼が大気を掴んで揚力と言う魔法が翼に宿り始める。ユーリを地上に縛り付けていた重力と言う鎖がじわじわと解かれていく。地面を蹴る足が空を舞う様になる。
見えない鎖を振りほどくかのように、光を纏った翼を大きくはためかせた。境界層を制御し、増した揚力がユーリと地上から空へと飛び立つ。重力の鎖から解き放たれ、彼は夢の空へと飛びこんでいった。
ぐんぐんと高度を増す。六〇度近いハイレートクライムで一気にブラックオウルの、咲江の飛んでいる高度を目指す。雲一つない空は、空間処理の問題だろうか。ともあれ、何も遮るもののない夢の空は、とても心地が良かった。
周囲を注意深く見渡しながらブラックオウルの姿を探す。白い飛行機雲を空にたなびかせながら飛ぶブラックオウルは、すぐに見つかった。ほぼ高度を変えずにこちらに向けて旋回中。ブラックオウルの居る高度を飛び越していた。ユーリは一八〇度ロールし、空中で上下がひっくり返る。頭上に地面、下に空。ユーリはピッチアップし、水平から降下へと移る。高度が下がるにつれて速度が増して行く。
咲江はコクピットの中で小さく笑みを浮かべた。純粋なスペックではほぼイーブン。最高速度はこちらに分があるが、瞬間的な加速は向こうが上、機動性は互角だろう。そうして出てくるのがお互いの純粋な技量だ。その点で言えば、ユーリは十分及第点と言えた。
咲江はフライトスティックを握りしめ、ぐ、と左に力を加えた。ブラックオウルのフライトスティックはほぼ動かない固定式で、込められた力を検知することによるフライ・バイ・ライト方式だ。機体が咲江の『記憶の中のブラックオウル』そのままに反応し、左にロール。地面に対して垂直に達する前でロールを止め、機体は斜め左に傾く。咲江はそのままピッチアップ。二枚の水平尾翼と、二基のエンジンの推力偏向ノズルが動き、機体が上昇していく。オーグメンターを切り、エンジンの出力を絞った状態での上昇は高度と入れ替えに速度を奪った。上昇してきたユーリと、高高度でスタンバイしていたブラックオウル。ユーリは降下しながら加速し、ブラックオウルは上昇しながら減速。二つの進路がそれぞれ上下から重なり、やがて空の真ん中で綺麗に二つに並んだ。
空中で編隊飛行を行う、一機の戦闘機と一人の竜。大と小、黒と白、無機物に有機物。物理エネルギーと霊的エネルギー。全く反対の二つが一糸乱れぬ編隊を組んで空を飛ぶ。
ユーリの頭の中に響く音。フライトスーツの通信だ、と思っていたら咲江の声が直接飛んできた。
『さて、さっそくエクササイズ開始、と行きましょうかしら?』




