22/Sub:"帰る場所"
「それで」ユーリは咲江に尋ねる。「この後、早速しますか?」
そう言うと咲江は小さく目を見開いて、蕎麦を啜ってから言う。
「いいえ、明日からにしましょう? こちらもいろいろあるし」
「いろいろって?」
ユーリは純粋な疑問で尋ねるが、そう言うと咲江はどこか焦ったように目をそらした。どこかしどろもどろ、と言った感じでユーリに返す。
「い、いえ。そのね、ちょっと人を呼ぶにはお掃除とかしたいなーって……」
訓練は咲江作り出した白昼夢とも呼べる、幻覚の中で行われる。それは屋外でやるには少々危険なところもある。これは例のVR機器を使用するときと同じで、周囲の安全を確保したうえでやるのが常識だ。だからこそ咲江はユーリを家に呼ぼうとしていたのだろう。
しかし。
「あれ? 僕の家でやるんじゃないですか?」
そう、ユーリはごくごく自然に返した。
「えっ」
「えっ」
咲江が思わず呆けたような声を出した。つられて同じように呆けた声をユーリが上げ、思わず二人で顔を見合わせる。
「だ、駄目よユーリ君、いきなりあなたの家だなんて、そんな」
「いえ、僕の住んでいる所広いですし、開いてる部屋も多いので使うのには最適かなと」
顔を少し赤らめ、どこか狼狽えた様子で言う咲江に対してユーリは平然と返した。それを聞いて一瞬で頭が冷えた咲江から、すっと表情が消えた。
「あ、そうよね。それはそうよね」
無表情のまま言う咲江の向かい側でユーリはどこ吹く風で蕎麦を啜っている。銀髪にどこか日本人離れした顔立ちの彼だが、おろし山葵を入れたそばつゆで蕎麦を啜る様はなかなか板についている。
しかし、いけない、これはいけないわ。
「フライト以外にも、教えなきゃいけない事がありそうね……」
「え? なんですか?」
「いいえ、何でもないわ」
小さく、口の中で押しとどめるようにつぶやいた咲江の言葉は、蕎麦の啜る音に響いて、掻き消えた。
あっという間にざるの上のそばの山はなくなり、後にテーブルの上に乗っているのは綺麗に食べつくされた皿だけだった。
「ふぅ、美味しかったわね」
「はい。紹介してくれてありがとうございます。今度また来ようと思います」
そうユーリが言うと、咲江は柔らかく微笑む。
「せっかくだから、貴方の言ってた子と一緒に来たらどう?」
ユーリは、小さく微笑んだ。
咲江が会計を頼むと、ユーリは鞄から財布を取り出そうとする。それを咲江は手で制した。
「いいわよ、折角だからご馳走させて頂戴」
「でも」
「いいのよ。どうせ使い道もないし、だからね」
「……そう言うことなら、お言葉に甘えて」
そう言う咲江の表情は、どこか寂しげだった。その表情をユーリはただじっと見つめる。クレジットカードで支払いを終えると、二人は店内から出た。
春の日差しが二人を照らす。咲江の車に乗ると、彼女は車を出した。カーオーディオを弄ると、軽快なポップが流れ出す。
「先生、ごちそうさまでした」
「ふふ、貴方も彼女が出来たら、ご馳走してあげるのよ?」
車の中で咲江が冗談めかして言うと、ユーリはうーん、と小さく首をひねる。その様子を横目で咲江が見て不思議に思っていると、ユーリが口を開いた。
「婚約者がいるので、彼女にご馳走してあげようと思います」
「えっ」
ポップの歌がサビに達し、甘酸っぱい恋心を歌い上げている中、車内の空気が凍った。ハンドルを握る咲江の手が小刻みに震えるが、車のハンドル機構はそんなドライバーの異常をノイズとして無視。結果として車は真っすぐ走り続ける。
「え、え、え、ユーリ君、婚約者って……」
「……さっき言った、背負って飛んでいきたい人です」
ユーリがどこか、嬉しそうな、それでいてどこか恥ずかしそうな表情で述べた。ラジオから流れる曲は二番に入っていた。桜色の歌詞が、咲江の左耳から入って右耳に通り過ぎていく。
「ず、ずいぶんと進んでるのね……」
「まぁ、親同士が決めたようなものですけれど」
「仲は、いいのかしら?」
「……正直、僕が足を引っ張ってばかりで」
そう言ったユーリの表情は、どこか重い物を抱えたような表情を浮かべていた。
「僕にできるのは、彼女を背負って飛んでいくことくらいですよ」
そう言ったユーリの横顔を見て、咲江は小さく息をつく。
「……なんだ、あるじゃない」
思わず漏れ出るように、そっとつぶやいた。
「なんです?」
「なんでもないわ」
車は街の中を走り抜けていく。街路樹が後ろに流れていき、ラジオでは次の曲が流れ始めた。
「あ、そうだユーリ君」咲江がハンドルを右に切り、交差点を右折しながら言った。「どこで降ろした方がいい?」
「あー、じゃあ、学校で」
「わかったわ」
咲江は車を左折させ、槍沢高校へと進路を向ける。休日の昼下がり、道路は混んでいた。前と後ろの車に挟まれて、二人を載せた車は住宅街を通る片側一車線の道路を、ゆったりと走り抜けていった。
学校まではそう時間はかからなかった。学校の校門の前の路肩に車を寄せて停車させると、ユーリが車から降りる。
「じゃあ咲江教官、明日からよろしくお願いします」
「あなたも、集合は明日の朝九時、ここでいいかしら?」
咲江の言葉にユーリは頷いた。
「じゃあ、気を付けてね」
そう言って彼女は小さく手を振ると、ユーリも手を振って返した。車を発進させるが、バックミラーから彼の姿が見えている間、彼はずっと車に手を振り続けていた。
咲江は自分の家へと車を走らせる。学校から車を走らせること約一五分。先程までの交通量の多い道路の喧騒もすっかり消え去り、静かな住宅街の中、車を走らせる。道路の両脇に並ぶのは、同じような姿形の家の数々。玄関先に物を置いてあったり、外壁の色を塗り替えたりしているが、少し見ればどれも全く同じ形状をしているのがわかる。統一規格で作られ、設計を同じにし、まるでコピー&ペーストで並べられたかのような新興住宅地。その一角。埋もれるように存在している一軒家へと咲江は車を走らせた。同じように並ぶ住宅の数々。
車を脇に寄せ、駐車場に車を尻から押し込む。ほぼ正方形の土地の隅がこのように駐車場になっていて、角が欠けた正方形の様な残りの土地を住宅が埋めている。住宅と住宅の間は無機質な黒いフェンスで区切られていた。
車をギリギリ停められる狭い駐車場で、ドアの隙間からようやく這い出すと車に鍵をかけ、玄関の鍵を開けて家に入った。
「ただいまー……」
ふざけて言ってみるが、当然返ってくる返事はない。玄関の正面に寝室と、書斎が無造作に横に並んでいた。
玄関脇の階段を登って二階へ。誰もいないリビングはカーテンの閉め切った窓のせいで薄暗く、低いテーブルの上には片付けられてない食器が放置されていた。床にはうっすらと埃が多い、台所には捨て損ねた缶と瓶のゴミが袋に入れられて転がされていた。
咲江は小さくため息をつくと、リビングの床に腰を下ろしてテーブルの前に座り込む。壁に掛けられたテレビは黒い画面を映し続けているが、よく見ると表面にうっすらと埃が張り付いていた。
ぼんやりと、リビングの端に置いてあるガラス棚に視線を向ける。そこに並んでいるのはいくつもの勲章の数々と、戦闘機や基地、そのほか様々な場所の前で取った写真の数々。一人で映っているものもあれば、複数人――航空部隊のメンバーだ――で取ったものもあった。パイロットスーツの物もあれば、士官制服の物もある。そのうちいくつかは色褪せていて、その年月を物語っていた。
「いいなぁ……」
ごろり、と床に寝転びながら咲江はつぶやく。その言葉は部屋の空気をわずかに震わせるだけで、すぐに掻き消える。
「いーいなぁー!」
ゴロゴロと寝返りを打ちながら、行き場のない感情を床にぶつける。どしどしと音が響くが、それに対して反感も心配も向けてくるものはいない。ただ静寂のみが返ってくる。
「うぅ……」咲江はうつ伏せになったまま漏らす。彼女の豊満な胸部がまるでクッションの様につぶれた。「私も旦那さんが欲しいよぉ。お帰りって言って欲しいよぉ。趣味があって仕事に理解があってイケメンの守ってあげたい系の旦那様が欲しいよぉ……」
生々しい欲望をつぶやくが、その言葉に返事をするものは、ない。
彼女は自然発生型の霊的存在だ。彼女の記憶や経験に関係なく、彼女は『夫がいたが、初夜の時に夫と喧嘩になり、そのまま別れた』という『設定』で『出現』してしまった存在だ。それは経験無き知識のみの記憶として彼女の精神に刻まれており、それと現実のギャップに苦しんだ。
だからこそ、彼女は空にあこがれた。ルールはシンプル。より高く、より速く、より鋭く飛ぶ者だけが飛び続けられる。生命を許さぬ領域。ダークブルー。曲線を描いた地平線。星の海の波打ち際。ストラトポーズ。
飛んでいる間は幸せだった。初めて咲江は、自分を得ることができた。そんな気もした。
だが、ある日地上に降りた時に、その足元の余りのおぼつかなさに気付いた。まるで空に吸い込まれるような錯覚すら覚えた。そうこうしているうちに大きな戦争が起きて、やがて空でいろんなものを見た。
空を諦めた。そのつもりだった。
あの、空を目指す少年を見るまでは。
「うぅ……」
もう一度、空に触れてみたくなった。空に上がってみたくなった。ユーリがいれば、空でも迷わずに済むような、そんな気がして。
ふと、想像してしまった。それは悪魔のささやきにも似て、彼女の心に深く、鋭い一撃を差し込んだ。思わず咲江の顔が赤くなる。彼女が悪魔そのものと言うことを、彼女自身が忘れるほどに。思わずそばにあったクッションに顔を押し付けてもだえる。
「……いや、ダメだって! それはさすがに駄目よ! サロメ・アルベール!」
捨てたはずの本名を叫んで、顔を真っ赤にして咲江は取り乱す。だって、言えるわけがなかった。
『お帰りなさい』と、家で待ってるユーリを想像してしまったなんて、言えるわけがなかった。




