21/Sub:"ポジティヴ・クライム"
びくっ、と小さく肩を縮こませて背後を見ると、そこには咲江が立っていた。ミントグリーンのカーディガンを羽織って、白いシャツに白いタイトパンツ、白いスニーカーで温かみのある恰好をしている。ねじ曲がりながら伸びて天を向いている悪魔の角と、尻尾は相変わらずだった。
「吾妻先生」
「偶然ね、ユーリ君はランニング?」
「はい。風の行くままに走ってたら、いつの間にかここに」
「ふふ、風の行くまま、にね」
楽しそうな表情を浮かべて咲江がユーリの隣に座る。ふわりと甘い匂いが漂って、ユーリの鼻をくすぐった。
「ここ、空がよく見えるのよ」
「……そうですね」
彼等の目の前に広がる景色。小高い丘の上から見る景色は、自分が空に少し近づいているということを実感させられる。吹き抜ける風には春の空気の中に、夏の気配を纏いだしていた。ふぅ、と一息入れると、温かい風の中に彼の吐息が混ざって、溶けていった。
しばし、二人無言で空を眺めつづける。公園の喧騒が遠くのものに聞こえ、ただただ目の前の空を見つめ続けた。
そうしてどれだけ時間が経ったろうか。ユーリが掻いた汗も乾いたころ、ぐぅ、と再びユーリの腹の虫が鳴り、二人の間に静かに横たわっていた静寂を拭き散らかす。思わず咲江の方を見ると、ユーリの方を微笑ましい表情で見つめていた。思わず赤面する。
「せっかくだから、どこか食べに行きましょうか」
そう言って咲江が立ち上がる。ユーリははい、と小さく肯定して後に続いた。
公園の端の方に行くと、駐車場があった。二〇台ほどが止められるだろうか、そこまで大きくもない駐車場。その端の方に停められていた白い車に、咲江は歩いていく。なんてことはない、国産の大衆車。軽自動車に分類されるほどではないが、小さいほうではある。
「乗って。ちょっと狭いだろうけど、シートは好きに下げていいわ」
「わかりました」
そう言って助手席に乗り込むユーリ。シートに座ってみると、一番前に固定されていた。流石に狭く、後ろに下げる。運転席に咲江が乗り込んで、エンジンのスイッチを押し込むと静かに唸り声の様なエンジン音が小さく響く。
「水素燃料ですか」
「そうね。こっちの方が何だかんだ言ってタフだし」
準安定金属水素燃料を使ったタービンエンジン。広く普及しているが、電気自動車の需要もないわけではない。バッテリー性能の向上で、今では半々、と言ったところだった。それより、金属水素は航空機にも使われている燃料だ。妙な親近感か、それか納得感を覚える。
「いい蕎麦屋を知っているの。そこでいい?」
蕎麦。食べるのは久々になるな、とユーリは呑気に思った。
「いいですよ」
「よし、決まりね」
そう言って咲江は車を出す。滑らかに走り出した車は駐車場を出、滑るように丘の道路を下っていく。窓の外の景色が流れていった。
彼女の言う蕎麦屋は丘を下り、市街地に入ってすぐのところにあった。駐車場に車が滑り込み、車から降りる。新しい店舗のように外壁や外から見える店内の様子は清潔感があるが、どこか歴史を感じるたたずまい。彼女の後に続いて店内に入ると、外と同じような雰囲気が漂っている。悪くはない。店員に案内されて奥の席に座ると、向かいで咲江がメニューを取ってテーブルの上に広げていた。
「ユーリ君は何を頼む?」
「おすすめはありますか?」
「うー……ん、ならば天ざるかしら」
「ではそれで」
こういう時は招待してくれた人のおすすめを選んでおくのが無難だ。咲江は店員を呼び止めると、天ざる二つ、と注文した。
「で、調子はどう?」
お茶が運ばれてきたころ、咲江がユーリに尋ねてきた。唐突な話題だが、何となく彼は咲江が何を聞きたいのか、と言うのはわかっていた。
「まだまだですよ。戦闘機動ってのは、学ぶことだらけです」
「ふぅん……」
推力バランスを意図的に崩して横に『スライド』する、あのテクニックを練習しているというのは黙っていた。そんなユーリのことをふぅん、とどこか興味ありげに咲江は見つめる。彼女の桃色の瞳が真っすぐユーリの金色の瞳を見据える。単なる優し気な瞳ではない。大空においても標的を見逃さない猛禽の眼だ。
「ユーリ君、貴方は、貴方のフライトエンベロープを完全に把握できてるのかしら」
「それは」
いい? と咲江は続ける。
「例えばユーリ君、貴方は空を飛ぶとき、翼で飛んでいるでしょ?」
「まあ、はい」
「翼は別に固定ではなく、常に対気速度、迎角、空気密度など様々な条件において可変させているはずよ。そうなれば、そのたびにあなたのフライトエンベロープは滑らかに変化しているはず」
「フムン」
以前に夢の中で見た咲江。彼女が乗っていた『ブラックオウル』は、主翼が人工筋肉製の可変翼ステルス戦闘機だ。翼にびっしりと張り巡らされたセンサーが『神経』となり、翼表面の気流を常に監視している。そのデータは機体のフライトコンピューターに送られ、コンピューターは迎角センサー、推力、対気速度計などの様々な情報をもとに主翼の最適な形状を計算、人工筋肉が稼働して翼を変形させることで圧倒的な機動性を発揮する。有機的な翼に近いそれは、確かにユーリの飛行に共通する点は多い。
「だからまずは、貴方の翼の変形でどうエンベロープが変化するのか、それを把握した方がいいんじゃないかしら」
だって、と咲江はユーリの方を真っすぐ見据えて言う。
「今、貴方ほぼ自主的に学習したことだけで飛んでいる状態よ」
「あー……教わる機会、ありませんでしたから」
ユーリは苦笑いを浮かべながら頬をかく。目の前の咲江も、まぁ、貴方に教えられそうな人はなかなかいなさそうね、と苦笑いを浮かべた。
「見たところ貴方、基礎体力はしっかりできてそうだから、飛行訓練を続けてても問題はなさそうね」
「言ってくれたように、教えてくれる人がいないんじゃ」
「あー……心当たりは?」
咲江が困ったように言う。するとユーリは咲江を真っすぐ見つめた。彼の金色の瞳が咲江の桃色の瞳を真っすぐ見据える。単なる少年の眼ではない。群青の空を舞う竜の瞳。
「……私?」
咲江が困惑した風に言うと、ユーリは深く頷いた。
「私、だって今空は飛べないわ。いくらファイターパイロットだったって言っても、今は予備役で――」
「こないだの夢の空間、あそこで教えてください」
実の所、とユーリは続ける。
「こないだ夢の空で先生と飛んだ時、あの時の先生のマニューバが焼き付いて離れない。一人で飛んだり、VRで練習してみたりしても、幻の先生を一度もキルできない。はっきり言いますと、先生は僕よりも速く、高く、鋭く飛べる」
「……」
「だからこそ、僕は貴方に教えて欲しいんです。空の飛び方を」
咲江は黙ってユーリを見る。可能性に満ち、迷い、夢に燃える若者の瞳。しかしその中に、畏れを知り、自分が立ち向かうものの強大さと、自分にできることを知っている、どこか悟りを得た熟練の老兵の様な落ち着きを宿した不思議な瞳だった。
ならば、と咲江はユーリに敢えて問いかける。
「ユーリ君、貴方はなぜ空を飛ぶの」
真っすぐ、飛行士の根幹を問いかける質問。それはどこか咲江自身にも向けられているようで、それでいて真っすぐユーリの心を貫いた。
沈黙。ユーリの金色の瞳の輝きが、小さく揺れ動く。
「……僕は」
彼が口を開く。左右へ小さく揺れていた金色の瞳が、真っすぐ咲江へと向けられた。
「背負って、飛んでいきたい人がいるんです」
「……へぇ」
「僕は、その人に『僕のパイロット』になってください、ってお願いしたんです。だから、僕は彼女を背負って、彼女の行きたい場所へ飛んで行かなきゃいけない。だから、僕はあの群青の空の向こうへ飛んでいけるようになりたい、飛んで行かなきゃいけないんです。そこが彼女の、目指す場所だから」
ユーリは『その人』を『彼女』と言ってしまっているのにも気づかずに、自分の心の内を吐き出していく。
咲江が空を降りた理由を聞いたときには惑いもあった。しかし、咲江に『負けて』、自分の至らなさを思い知らされた時、同時にも思った。
自分は、もっと速く飛べる。
自分は、もっと高く飛べる。
自分は、もっと鋭く飛べる。
今まで何の目標もなく飛んでいた空に、初めて自分よりも前を飛んでいる者に気付いた。そうして気づかされた。結局、あの灰色の、空だけが深く青く透き通っていた世界で、唯一輝いていた赤色に救われたあの時、それから何も変わっていなかったユーリという一人の竜の存在。
結局、ユーリはアンジェリカと一緒にいたいのだ。共に空を飛んでいきたいのだ、という純粋な欲求に気付かされた。ならばやるべきことは、至ってシンプルだ。
高みに、手を伸ばせ。
「……」
咲江は目を閉じて、小さく息をつく。二人の間を再び沈黙が満たす。その上に店内の喧騒が覆いかぶさってきて、さざ波の様に空気を震わせた。
「お待たせしました」
そう言って店員が蕎麦を持ってくるが、剣呑な空気の座席にぎょっとし、そそくさとテーブルに蕎麦を置いて去っていく。
はぁ、と咲江がため息をついた。ユーリの眼がわずかに細まった。
「わかったわ。教えるわ」咲江が割り箸を割りながら言う。「貴方に、空の飛び方を」
パキリと子気味の良い音が響き、彼女の割り箸が真ん中から綺麗に割れる。
「蕎麦も伸びちゃうものね」
「それもそうですね」
少し困った様に微笑む咲江に対し、ユーリはニッと笑って返した。すると彼女が少しきょとんとした表情を浮かべる。
「あら、そんな顔もできるのね?」
「はい?」
「いいえ、ずっと表情が乏しいな、って思ってたから」
教え甲斐がありそうだわ、悔しいことにね。そう言って咲江は蕎麦を啜り出す。ユーリは頭に疑問符を浮かべながらも蕎麦を啜る。香ばしい蕎麦の実の香り。なるほど、これはおいしい。
「どうかしら?」
「美味しいです」
天ぷらをほおばる。ゼンマイの天ぷらはサクサクと、口の中で春の香りを運んできて弾ける。薄い衣は身の邪魔をせずに、それでいてしっかりと存在感を発揮していた。
「ところで」ユーリがワサビをめんつゆに溶かしながら言う。「教官、って呼んだ方がいいですか?」
咲江が目を丸くする。しばし、困ったように視線を右、左、と揺れ動かした後ユーリを見据えた。
「いいわ。吾妻――いいえ、咲江教官、って訓練の時は呼びなさい」
「イエス、マム」
二人が蕎麦を啜る音が、二人の間で奇妙な共鳴を起こした。




