20/Sub:"プライベート"
「では、行ってきますわ」
「はいはい、いってらっしゃい」
青空の下、普段着のユーリが出かけていく、制服を着たアンジェリカ達に声をかける。屋敷の門の前には黒いSUVが停まっていて、開けた窓から見える運転席と助手席にはそれぞれユーリの母親と父親が座っていた。
アンジェリカ達が持っている霊的装備の数々を所持するための、免許の更新。それをこの連休にやってしまおう、と言うことで、ユニオン軍の駐屯地でやってしまおう、と言う計画らしい。連休は土日含めて六日間。そのうち四日間は講習と免許更新の検査だ。この時期は全国から同じような人が集まってごった返すので、待ち時間やなんやらで一日じゃ済まない、と言うこともざらにある。基地からそう遠くない場所にホテルを取ってあるので、そこでアンジェリカの両親と水入らず、らしい。
「大丈夫ユーリにぃ? 一人で寂しくない?」
「大丈夫だよアンナ、まぁ好きにやるよ」
「暇なら一緒にゲームする? オンラインなら一緒に遊べるわよ」
「アリシア姉さん、あんまゲーム漬けにならないようにね」
姉妹と挨拶を交わして荷物を持つ。アンジェリカの生活用品一式が入ったトランクケースを軽々と抱えると、ユーリはSUVに向けて歩き出す。そうして開けられたトランクに、静かにケースを押し込んだ。隣にはアリシアとアリアンナの、それぞれピギーバッグとスポーツバッグが置かれている。ユーリはその間にケースを押し込むと、トランクのドアを閉めた。振り向くと、ついてきたアンジェリカがありがとうございますわ、と言う。
「じゃあ、気を付けて」
「ユーリも、気を付けてくださいまし」
どこか含みのある言い方でアンジェリカが言う。小さく首をかしげている間に、アンジェリカはSUVに乗り込んだ。ユーリは歩道に上がる。
SUVのエンジンがかかる。静かな唸り声の様なエンジン音が立ち上がり、車のテールランプが赤に灯る。ユーリが静かに胸の前で手を振ると、窓が開いてアンジェリカがこちらを見てきた。
「ユーリ、お元気で」
「大袈裟だよ、高々四日じゃないか」
どこか不安そうにこちらを見てくるアンジェリカに、どこか気丈に返すユーリ。それを車内で見ていたアリシアとアリアンナは苦笑いを浮かべた。
車が動き出す。アンジェリカが窓から顔を出してこちらを見るのにユーリは手を振り続ける。やがて車が曲がり角を曲がるころ、その姿は見えなくなった。
一人屋敷の前に取り残されるユーリ。振っていた手が止まり、重力に従ってだらりと降ろされる。とたんに静かになった周囲。聞こえてくるのは休日の住宅街の、それも外れの方の、かすかな生活音が風に混じって響いてくるだけ。
さて、と。
ユーリは振り返って屋敷に向かって歩き出す。玄関を通って屋敷の中へ。扉を閉じると、きん、と静寂が彼を包み込む。人気のいなくなった屋敷。それがなんだか異様に広く感じる。彼は階段を上がって二階の、自分の部屋へ。静かになった屋敷の中に階段を踏みしめる音だけがギシギシと響いた。二階に上がって、自分の部屋の前に。ドアを開けるとよく整備された蝶番が音もなく開く。こういう時、自分が普段立てている何気ない生活音が、やけに大きく聞こえる。静寂に満たされたユーリと、アンジェリカの部屋。カーテンの開け放たれた窓から差し込む光が室内に太い柱のように差し込む中、ユーリはベッドに仰向けに身を投げ出した。
ぼふり、と埃が音を立てて舞う。細かい粒子が差し込む光に照らされて白く輝き、空中で不規則に動いて宙を舞う。ユーリが呼吸で吐いた吐息にかき乱されて、宙にくるくると見えない渦を描いた。
なに、しようかな。
生憎朝の日課のフライトはすでにして、思いっきり――もちろん航空法のギリギリ適用範囲内ではあったが――飛んだあとだった。これからもう一度飛ぶか? そうも考えたが、どうもそんな気が起きない。なんというか、地に足をつけておきたい。そんな気分だった。
ベッドの上であおむけに大の字に横たわるユーリ。いっそVR機器でもつけて仮想の空でも飛ぶかとも思ったが、やめた。姉妹が出て行ってすぐにゲームを起動するなんて、なんだか人としてやってはいけないような気がした。アリシア姉さんじゃあるまいし、と小さく苦笑いと共につぶやいて、自分で出した提案を自分で却下した。振り出しに戻る。
どれだけそうしていただろう。ベッドの天蓋の木目の皺を一本一本いつの間にか視線でなぞる作業に浸っていたら、ぐう、と空腹の虫が腹で鳴った。
お腹、空いたな。
何か作ろうかなと思って上半身を起こして、やめた。ふと妙案が紫電の様にユーリの脳内を貫いた。
そこからの彼は早かった。着ていた物を脱いで下着一枚になると、ぴっちり張り付くランニング用のインナーを着る。どこか肌触りがフライトスーツを思い出させるその上に、半袖の速乾性のブルーのシャツ、白いラインの入った、半ズボンの黒いスポーツズボンを履くと、フライトで使うリュックに、携帯端末とタオルと財布と鍵だけを放り込んで背負い、ハーネスを締める。クローゼットを開けた。端の戸棚には、アンジェリカの赤い靴や、ユーリが学校で使う革靴などが並べられた小さな棚。ユーリはその中から、何の変哲もない、白いランニングシューズを引っ張り出してクローゼットを開けたまま部屋を出た。
玄関に向けてずんずんと歩く。階段のきしむ音も、心なしか大きい。玄関でランニングシューズを履いて、しっかり紐を締めた。玄関のドアを開くと、外の風が屋敷の中に吹き込んできた。五月の、春を抜け出た季節の風。深く空気を肺に吸いこみながら、玄関のドアに鍵をかけてリュック内のポケットにしまい込んだ。
道を通って門をでて、歩道に出る。誰も歩くものの姿のない、メタセコイアの並木の続く歩道。手足の腱をゆっくり伸ばすストレッチを行うと、全身が温まってくるような感触。
クラウチングスタートの姿勢を取った。飛行術式の高音が、どこか幻の様に脳裏に響く。
駆け出した。ぐんぐんと加速するが、離陸を目的としたそれとは違ってある程度の速度――それにしたってかなり早い方ではあって、車道を緩やかに走っていた自転車を平気で追い越した――を維持しながら走り続ける。一歩一歩大地を蹴り、風を全身に受けながらユーリは街中を疾走し続ける。ほっ、ほっ、と規則正しい呼吸が繰り返され、彼の全身に酸素を供給していく。成層圏の希薄な、澄んだ大気とは違う、対流圏の重く、濃い大気。それが肺に吸いこまれ、酸素と二酸化炭素を交換して大気に吐き出されて宙に溶けていく。
ユーリは街中を疾走する。どこへ、というのはなかった。ただ、それこそ風の赴くままに。ユーリは一陣の銀色の風となって街中を駆け抜ける。ランニングと言うには一般のそれよりは明らかに速い速度で走り抜けるユーリに通行人が一瞬物珍しいような視線を向けるが、それも少しの間だけのことだった。
街中をかけ、大きな公園の脇を通り、いつの間にか町の外れにまでたどりつくが、ユーリの駆ける足は止まらない。平野はいつの間にか緩やかな坂になり、緩やかな坂にはワイン葡萄の畑が広がっていた。そのど真ん中を貫く道を、ユーリは走り抜けた。土の匂い。風に混じって鼻をくすぐる。
真っすぐだった道はグネグネと曲がり始める。町の外れの小山だな、とユーリは頭の中で、フライトで見かける上空からの景色と、自分が走っている地形を、一瞬で照らし合わせて自分の居場所を瞬時に割り出した。確か、小山を登る登山車道の先に、公園があったはず。底をひとまずゴールにしよう、とユーリは地を蹴る足に力を込めた。傾斜がユーリを重力に従って後ろに引きずる。それに真っ向から抗いながらユーリは地面を蹴って上り坂を駆け、着実に高度を重ねていく。山側に車道があり、谷側に歩道があるこの登山車道を走っていると、木々の間から時折町の景色が見えた。
ユーリの喉元を汗が伝う。心拍数は平地を走っていた時のそれとは違って、どっどっどっと激しく鼓動をうつ。そんな体内から響くビートをBGM代わりに、ユーリは道を走り抜けた。
「ついたぁ」
思わず少し力のぬけた声が出てしまった。道が真っすぐになり、木々が途切れた先。そこは小山の上に広がる公園だった。ユーリは走る速度を緩め、歩き出す。急に止まらず、ゆっくりと心拍数を落として身体をクールダウンしていく。
公園には家族連れが多く、休日の行楽日和を楽しんでいた。だいぶ心拍数の落ちてきたユーリが歩いていくと、公園の広場の周囲をぐるっと回る歩道に置かれたベンチと、ごみ箱と、自販機が目に入った。横に立っている電燈が、いかにも『まとめて作りました』と言わんばかりの味わいを漂わせている。ユーリはそこへ向けて公園の中を歩いていく。若い緑色の芝のふかふかとした感触を味わいながら広場の真ん中を突っ切って、自販機の前に。並んでいるのは多種多様な清涼飲料水。ユーリは背負っていたリュックのハーネスを外して降ろすと、中から財布を取り出して硬貨を一枚取り出して自販機の投入口に押し込んだ。ボタンが赤く光り、その中でユーリは迷わずに水を押した。ガコン、という音とともに自販機の商品口に無造作に水のボトルが吐き出された。それを取って、ユーリはキャップを開けて喉に流し込んだ。乾いた身体に水分が流れ込んでいく感触。火照った身体が冷えていき、妙な満足感の様な、達成感の様な感覚が彼を満たした。すぐに開いてしまったボトルを傍らのゴミ箱に投げ入れ、ユーリはベンチに腰を下ろした。
ベンチからの景色は絶景とまではいかないものの、なかなか良い景色だった。小さな山だと思っていたが、こうしてみると小高い丘と言う表現の方が適切だったかもしれない。斜面には先程の葡萄畑の他にも果樹園が並び、平地になった所に街が広がっている。それが広大な長野盆地に続く光景。上空から見下ろすものではないが、悪くなかった。
高度さえあればいいのか、僕は。
そう思って苦笑いを浮かべながらもその光景を楽しむ。谷から駆け上がってきた風が、汗で湿ったユーリの身体を撫でて熱を奪い去っていった。
ぐう、と空腹の虫が鳴った。そこでユーリは、自分が昼ご飯を探すついでに走り始めたということをやっと思い出した。いや、半分は『思い出した』だったが、半分は『気づいた』だった。なんというか、ほぼ考えなしに走り出したに近かった。
「お昼どうしよっかなぁ」
思わず口から出た言葉が空に吸い込まれていく。そこそこ大きな公園だから、なにか食べるものくらいあるかもしれない。そんな思案にふけっていると、ユーリの後ろから聞きなれた声がかけられた。
「あら、ユーリ君?」




