18/Sub:"Information Sky"
アリアンナは、苦笑いを浮かべながら『はい』に触れた。
視界が変わる。ロビーの真っ白な部屋が折りたたまれるように消えていき、別の景色が塗り替わるように広がっていく。
周囲の景色を見ていたアンジェリカがアリシアに尋ねた。
「『バトルグラウンド・オンライン』でしたっけ?」
「そそ。いつになったらベータ版終わるのかしら、これ」
そう言うアリシアの横顔は苦笑いを浮かべていた。アリアンナは腰に手を当てて、どこか楽し気に変わっていく周囲の風景を眺めている。
「わかんないよ? 下手にリリースしたらベータ版みたいな出来だった、ってオチになってたかもよ?」
「『有料ベータ版』ってこと? 笑えないわね」
景色がどんどん変化していき、やがて周囲が青空と一面の草原になったところで、目の前に大きく浮かび上がるようにして『BATTLEGROUND ONLINE』のロゴが表示される。
「ゲームのタイトルの出し方にしては、安っぽすぎませんこと?」
アンジェリカが眉を顰めながら言った。まぁ確かに、とアリシアが言うと、アンジェリカはため息をついた。
「でも、結構手探りの状態で作られたゲームにしてはまだしっかりしてる方なんじゃないの?」
このゲームは大手ゲーム企業が制作しているとはいえ、シリーズの続編ではなく完全に新規IPだ。同時に、同社が出すフルダイブ式VRゲームでは最初の作品になる。老舗のゲーム会社ではあったが、その点では同業他社に一歩遅れを取った形になったその企業にとって、これは起死回生の一手でもあった。
アリシアが目の前に浮かんだ『ベータ版を開始する』のアイコンに触れて、データがロードされるのを待ちながら言う。
「まぁ、ベータ版が終わったら、きっと改修が終わっていろいろ良くはなるわよ。きっと」
「どうかしら。VR部分にかまけて、肝心のゲームバランスがおざなり、なんて珍しくもないのではなくて?」
「あー……」
アリシアの言葉が詰まった。
「それに」アンジェリカは周囲を見渡す。彼女らの他には誰も姿は見えない。「仮にも『オンライン』を称するゲームの試作版の試験を、マルチプレイなしでやるのはどうかと思いましてよ」
降参、とでも言わんばかりにアリシアが両手を力なく上げる。
「サーバー負荷テストとか、いつになるのやら」
どこか疲れたように言うアリシアの背中は、いつもより小さく見えた。
ゲームデータのロードが終わると、目の前にでかでかと浮かんでいたロゴが消え、それまで立体映像の様にただ目の前に表示されていただけの景色が、急に質感を帯びてくる。頬を撫でる風や、空気の臭いといった感触が情報として感じられ、実感となって浮かび上がってくる。
目の前の景色が急に歪んだ。重力レンズの様に景色を歪めて目の前に現れたのは、地面に対して垂直に立った、青く光り輝くリング。リングの中央は白く輝いていて、その先をうかがうことはできない。
「これがファストトラベル機能みたいね」
アリシアがウィンドウを閉じると言った。どうやら現在ユーリがプレイ中のエリアにファストトラベルできる機能を使ったらしい。アリアンナはゲートの周りを歩き回りながら、しげしげとゲートを見ていた。ゲートのシンプルなデザインに、思わずアンジェリカが眉をひそめる。
「せっかくのフルダイブ式なのに、これでは少し味気ないですわ」
「そうねぇ。実際、ベータ版遊んでる人からも、3Dモデル作成ソフトのフリー素材みたいだ、って言われてるみたいだし」
ま、とっとと行きましょ。そう言ってアリシアがリングの中心の白く輝く部分に触れると、するすると光の中に消えていった。小さくため息をつくと、アンジェリカもそれに続き、最後に一足遅れてアリアンナが光の中に消える。光の中に入ったアンジェリカを迎えたのは、再び真っ白な光景だった。
なるほど、これが読み込み中の画面、と言うことですのね。
テクスチャのない、一番処理の軽い描画としてこれを表示しているのだろう。アンジェリカは白い空間に一人、ぽつんと漂っている。重力があり、踏みしめている面はあるが、それ以外の感触が再びぼんやりとしたものに変わる。
彼女の目の前に再びリングが広がった。先程とは違うのは、青く輝くリングの内側に景色が映っているということだった。彼女はつかつかと歩き、リングに触れる。
ずるり、と何かを突き抜けたような感触。感覚としては、デパートで内部の空気を逃がさないようにするための、エアカーテンを強くした後、あらゆる方向から吹かせている中を潜り抜けたような、そんな感触。
アンジェリカが出てきたところは広い草原だった。若草色の平原が緩やかな丘陵を描いて地平線まで広がっている。先程と違うところを強いて述べるとするならば、険しい、白く雪化粧をかぶった山脈が目の前に延々と連なっているところ、だろうか。険しいその山稜は彼女に、食器を洗い終わった後食器乾燥棚に立てかけて並べられる何枚もの皿を連想させた。
「ユーリがいないわね」
声のした方向を向くと、アリシアが立っていた。太陽がまぶしいのか、腕で目の所に影を作って空を眺めている。
アリアンナもファストトラベルしてきて周囲を見渡すものの、ユーリの姿は見えない。ここにいたから転送されたはずだが、どういうことか?
姉妹が疑問に思っていると、ふわり、と風がアンジェリカの頬を撫でた。その風の感触に、ゲームとは違う何か異質な存在の感覚。本能的、と言えるほどごく自然に、アンジェリカはその方向を向いた。
――轟音が、辺りに響き渡った。
「っ!」
まるで空が砕けたかと思えるほどの、鋭く、全身を震わせる、重い轟音。揃って思わず反射的に耳を抑える姉妹。あくまで幻術が見せているVRのはずなのに、鼓膜の痛みすら錯覚する。
「い、今のは」
アリシアが周囲をきょろきょろと見る中、アンジェリカだけはその方向をじっと見つめていた。
空を、一人の竜が飛びぬける。高G旋回を苦ともせずに繰り返しながら、何度も翼に減圧雲を纏い、翼端から細い、糸のような飛行機雲を空にたなびかせ、竜の鋭い翼が空を切り裂いていく。
ユーリだ。
VRの、幻想の空。空域と言う見えない空の境界から解き放たれた彼が、彼本来の性能をもって空を舞っていた。彼が音の壁を突き抜けた音、それが先程の轟音だった。
三人は空を飛ぶユーリの姿をただ見上げる。ユーリが彼女たちの上空を通過するたび、遠くから聞いた打ち上げ花火のような、鈍い轟音が草原に響き渡る。ソニックブーム。
そうして彼のことを眺めているうちに、アリアンナが違和感に気付く。
「あれ? ユーリにぃの他に、誰か飛んでるの?」
「えっ……いや、誰もログインしてないわよ」
「……ユーリに、わたくし達以外のフレンドがいるとは聞いてませんわ」
おっかしいなぁ、とアリアンナが呟く。彼女はかぶっていたつば広の帽子を脱ぐと、目元を手で覆い隠して空を見上げる。彼女の紅い瞳が、青空の中、白く輝いて空を舞うユーリを追いかける。
「……ユーリにぃ、誰かを相手してるみたいだ」
「……どういうことですの?」
アンジェリカが少し顔をしかめてアリアンナに尋ねる。アリアンナは、腰のベルトに差さっていることもある、『深緋』と『銀朱』の感覚を思い出すように、自らの腰に手を当てた。
「いや、ボクがお義母さんに稽古をつけてもらってない一人の時にやるんだけど、心の中に、自分の脳裏に焼き付いている相手を思い浮かべるんだ。それで、その相手をする」
「シャドーボクシングみたいなものね」
アリシアが答えると、アリアンナはそれそれ、と納得したように返した。
「でも」
アンジェリカが見上げた先。ユーリがアンジェリカと飛ぶときには見せたことのない、鋭く、滑らかなマニューバ。彼に届こうとしている彼女だからわかる、あれは空戦機動だ。それを繰り返す彼は、とてもじゃないが優位位置に立っているとは思えなかった。むしろ――。
「ユーリより、上手に飛べる『誰か』……?」
ユーリの脳裏に焼き付き、心中にて彼の優位位置を占有し続ける『誰か』。
その『誰か』は、きっと今の自分より彼に近いのだろうか?
その『誰か』は、彼の隣に翼を並べて飛べるのではないか?
ぐるぐると、耳鳴りの様なものが頭の中に響く。そんな彼女を打ちのめすように、再びアンジェリカをソニックブームが叩いた。よく聞くと、小さく重なるように二回響いている。
「最近様子が変、って言うのも、その誰かさんに負けたからなのかしら」
アリシアが腕を組みながら空を見上げて言う。彼女の表情は、苦笑いの様な、どこか安堵したような、複雑な表情だった。
ユーリが急上昇。翼に減圧雲の白煙を纏って空を駆け上がる。それを追う『誰か』。一八〇度ロールし、下降に移ろうとするユーリ、しかしそのまま滑らかにバレルロールに移行し、フェイントをかけて『誰か』との位置を入れ替えようとするが、『誰か』は上昇を続行。速度と高度を入れ替えてハイ・ヨー・ヨーのマニューバで距離を稼ぐ。常に『誰か』はユーリの後方に陣取り続けている。
アンジェリカと飛ぶときには、することのない、激しく、鋭く、速く、滑らかな機動の数々。一つ一つが磨かれていて、ユーリが全力を出しているのが地上で見ている彼女にも伝わってくる。だが、それでも『誰か』には届かない。アンジェリカしかいなかったはずのユーリの心中に居座った『誰か』を、墜とせない。
「いいこと、なのかもね」
アリシアが言う。ゆっくりとアンジェリカが彼女の方を向くと、どこか寂し気な表情を浮かべたアリシアが相変わらず腕を組みながら空を見上げていた。
「ユーリはこれからいろんな人と関わって、アイツの世界を広げていく。いろんな出会いがあって、いろんな経験を積む。だから自分を超える『誰か』に出会ったってのも、ユーリが一歩踏み出せた、ってことじゃないかしら」
アンジェリカが黙っていると、アリシアはまるでに自分に言い聞かせるように続ける。
「まぁ、悔しいって気持ちはわかるわ。自分色に染め上げたい、自分だけを見ててほしい、ってのは、私にもあるし」
惚れた弱み、って辛いわね。そう自嘲気味に笑うアリシア。アンジェリカは、黙って空を飛ぶユーリを見つめ続けた。




