16/Sub:"フライトエンベロープ"
ぼふり、とユーリの目の前に柔らかく、温かく、甘い感触。視界が闇に覆われる。口がふさがれて息ができない。思わずもがくと、きゃっ、と咲江の甘い声が上がった。思わず顔を上げると、少し頬を染めた咲江がこちらを優しく見下ろしていた。背中に彼女の腕の感触。どうやら正面から抱きすくめられ、胸に顔をうずめていたらしい。ユーリの顔にさぁっ、と熱が満ちる。
慌てて離れると、そこはもう大空ではなかった。先程の空軍基地とも違う、妙な空間だった。白い部屋。天井は、3メートルほどはあろうか、手を伸ばしただけでは届きそうにはない。四辺は学校の教室ほどだ。緩やかな段々になっていて、奥に行くにしたがって床が低くなって天井までが高くなっている。大学の小規模な講義室のようだが、机がなく椅子しか並んでいないのも違和感がある。何より、その場に存在するすべての物体が、質感のない白一色に染められているのが、不気味さすら感じていた。部屋に照明はなく、部屋全体が光って室内を照らしている。
二人はその講堂と思われる部屋の、一番後ろ、段の一番上に立っていた。
なんだろう、と周囲を見回していると、何となくこの部屋の本来の使用用途に気づいてくる。
「ブリーフィングルーム……?」
「あら、よくわかったわね」
咲江は知っていたようだ。ユーリは再び周囲を見渡す。となると、これは咲江が過去に使用したブリーフィングルームの再現ということか。
「よくわかったわ、あなたの事」
咲江がユーリの方を見ながら言う。その表情は優し気で、どこか寂し気であった。ユーリは小さく首をかしげて彼女の方を見返す。
「わかるものなんですか?」
「空を飛ぶもの同士、理解し合うには飛ぶのが一番手っ取り早いのよ」
本当かなぁ。半信半疑といった表情を彼は浮かべた。そんな彼に向かって咲江はどこか得意げな笑みで返した。それは空での先輩としてのものなのだろうか。ユーリの胸に、先程堕とされたことが重くのしかかる。
「気にすることはないわ。誰だって、成長過程だもの」
「僕は成長過程ですか? 貴方からしてみれば」
むっとした表情でユーリが返すと、咲江は彼の頭を優しく撫でる。ふわりと甘い匂いが漂った。
「大丈夫よ。焦ることはないわ、貴方の目標がずっと上にあったとしても、失速したら意味がないもの」
「それって」
そうユーリが言った次の瞬間、周囲の質感が一気になくなる。ユーリが以前触れて、結局やらなくなったVRゲームの様に解像度が一気に失せていき、だんだんと世界のテクスチャが消えていく。唯一はっきりと見えているのは目の前の咲江だけだ。崩れていく世界の中で、彼女の手の感触とぬくもり、甘い香りだけがはっきりとユーリに伝わってきて――。
「……?」
目の前の白だと思っていた物は黒で、明るいと思っていたのは真っ暗だった。ユーリの背中が柔らかい感触に包まれている。
寝ている、と気付いてゆっくりと瞳を開けると、白い天井とその真ん中に刺さった、点灯していないLEDライト。周囲は白いカーテンに囲まれていて、外から中が見えないようになっている。
保健室だ。そう気づいて身体を起こすと、薬品の臭いが鼻を突いた。消毒液の臭い。運動部だろうか? 保険医に手当を受けているだろう生徒の声が聞こえる。ユーリはそっと、ふたたび横になると深く息を吸う。肺に入ってくるのは1気圧の、濃く、重い大気。消毒液や薬品の臭いが混ざって、深く吸うと思わずむせてしまいそうだ。
天井の向こうの空が遠い。浅く、緩やかな息をする。
カーテンの向こうの喧騒が遠ざかっていく。どうやら治療が終わったらしく、保健室のドアが開く音。ドアが閉まって、再び保健室は静かになる。
ユーリはゆっくり上体を起こすと、かかっていたシーツをどける。ベッド際に静かに降り立つと、ベッド脇に並べて置かれていた上履きを履く。カーテンを静かに開けると、保険医が机に向かって何かを書いていた。きっと報告書か何かだろう。興味もなかった。ユーリは小さく礼を言うと、保健室から出ていく。興味なさそうな保険医の返答を背中に受けながらユーリは廊下に出ると、彼は校門に向けて歩いてく。
さっきまでのは夢だったのだろうか? すべて幻覚か何かだったのだろうか? どこまでが夢でどこからが現実なのか曖昧な状態のまま、ふわふわとした足取りで学校を後にする。すでにやや傾いた日はうっすらと赤色を帯びていて、空のスカイブルーも夕暮れの色を移し始めていた。
一人でとぼとぼと家に向かう。まだ足取りは重いが、どこかスッキリとした気分で、落ち着いている。悪夢を見た後の様な不安定さはない。どちらかと言うと、全力で運動した後の様な精神的な疲労感が、静かに彼の心に横たわっていた。
気分転換、しようかな。
ユーリが屋敷に戻ってくると、屋敷の中は静かだった。まだ誰も帰ってきていないらしい。自分の部屋に真っすぐ向かうと、自分のフライトスーツを引っ張り出す。流れるように自分の制服を脱いでベッドの上に放り投げると、下着一枚のままフライトスーツを着て、ハーネスを締めてフィットさせる。電子航空免許をセットして、起動。水平指示器をゼロ点調整、完了。
屋敷の外に早歩きで歩いていく。途中で誰ともすれ違わずに屋敷のドアをくぐる。日はまだ傾き切っていない。夕暮れに入りかけた空の下、ユーリは竜人へとその姿を変化させた。
周囲に冷気が舞う。漏れ出たドラゴンブレスが足元を急冷し、ユーリの足から十センチほどが白く霜で覆われた。ユーリはタキシングする航空機の様に屋敷の門をくぐり、道路に出る。車はない。道路の中央を示す白い破線はまるで滑走路のようだった。彼はクラウチングスタートの姿勢を取る。
ユーリの翼が飛行術式の白い輝きで覆われ、翼の後ろから飛行術式の噴射光が伸びた。術式の高い駆動音。それが夢で見たブラックオウルの、ターボファンエンジンの轟音と重なった。
駆け出した。一気に膨れ上がる噴射光。一気に彼の対気速度が跳ね上がり、翼が大気を掴んで彼の身体を地上から空へと引き上げる。足が地面から離れ、空へ舞い上がった。ぐんぐんと高度を増していき、ユーリは空へ飛び込んだ。進路を変更。左に旋回し、南へ。湖へと進路を変えた。
夕暮れに差し掛かった住宅街の上を飛行する。他の飛行種族よりも一段高い、管制空域に触れるか触れないかのギリギリの高高度を亜音速で湖に向けて飛行する。視界に飛び込んでくる、無秩序に地上に敷き詰められた建物の中に、唐突に途切れた、ぽっかりと開いた穴の様な湖。高度を緩やかに落とし、湖の上で左に緩やかに旋回し、そのまま推力を落とす。すると高度を下げたことで上がった速度が落ちて行った。
湖の上1,000フィートを、緩やかに旋回しながら飛びぬける。翼の先端が白い、糸のような飛行機雲を空にたなびかせた。
ユーリは一気に推力を増す。同時に急激に左に旋回。翼が一気に白い、空に刻まれた傷跡の様な減圧雲を纏う。一八〇度ロールし、右に急旋回。一人でやる、相方のいないシザーズ機動。だが、ユーリの視界には、幻のそれが見えていた。
星空に羽ばたくフクロウのエンブレム、ブラックオウル。
「くっ!」
幻のそれとシザーズ機動を描いて飛ぶ。どちらかを前に押し出す戦闘機動。だが幻のブラックオウルは、咲江の操るブラックオウルはユーリに六時方向を差し出してはくれない。気を抜けばこちらの後方についてきそうな勢いだ。ユーリは急激にピッチアップ。ロールとピッチを組み合わせ、空中を、歪んだ螺旋を描いて飛ぶ。バレルロール。速度を維持したまま、自分の飛行距離を延ばすことで相手を前に押し出そうとするマニューバ。しかしそのころにブラックオウルは上昇。速度と高度を一瞬で入れ替え、ユーリに後ろを取らせない。ユーリがバレルロールから回復する頃には、頭上でこちらをさかさまに見下ろす、幻のブラックオウル。
ユーリは、左翼の飛行術式に流す霊力を切った。
途端に右に弾かれる視界。ぐん、とユーリの身体が横を向き、急激に迎角が変化する。空中でドリフトでもしているかのように右にスライドして飛ぶユーリ。急激なユーリの機動に思わず幻の中のブラックオウルが後方をさらけ出し、ユーリは左翼の飛行術式の推力を再び増そうとして――。
「えっ」
ヨー方向の回転が収まらない。飛行術式の推力を曲げて必死に機動を制御しようとするが、回転は収まらずにいつしかピッチ方向の回転も加わって、完全なきりもみ状態の回転に陥った。その視界の中で、幻のブラックオウルは、オーグメンターの青い炎を輝かせて空へと飛び去っていく。
マズい。
咄嗟にユーリは人間形態に変化した。同時に、足を両腕で抱え、身体をできるだけ、丸く、小さくして全身に力を込め、目を強く閉じた。閉じられる前の視界に一瞬映った、群青色の水面。
衝撃は斜め前、やや下の方からだった。地面に落っこちたのかと錯覚するかの様な衝撃と、直後に全身を包む冷たい水。水中で瞳を開けると、上から降り注ぐ光がユーリの起こした波紋で煌めく。丸まっていた体勢から体を広げると、ユーリは水面に向かって泳ぎ出した。
水上に勢いよく顔を出すと、飛沫が周囲に舞った。落ち着いて大きく息を吸った後、ゆっくり身体から力を抜くと、水面に仰向けになって浮かび始める。目の前に広がるのは、空。
しくじった。
ユーリは深呼吸を繰り返し、体勢を起こして周囲を見渡した。あまり離れていない方向に湖岸が見える。ざっと七〇〇メートルほどに見えるそちらに向かって、ユーリはクロールで泳ぎ出した。あまり湖岸から離れていなくてよかった。真ん中の方に墜ちていたら遠泳になっていただろう。
一〇分ほど泳いだだろうか、足が砂地を捉えた。身体を起こして砂地を歩いていくと、湖岸の灰色の砂浜にざぶざぶと上陸した。濡れたフライトスーツの水が足を伝って、足跡にしみ込んで形を刻んだ。
ユーリは砂浜に力なく腰を落とした。さざ波が打ち寄せる湖岸には、ちらほらと人がいて、異様な格好で湖から上がってきたユーリのことを好奇の視線で見ていたが、すぐにいなくなった。
上手く、できなかった。
はっきりとした空の記憶が、あの夢で咲江と飛んだことが妄想でもなく現実なのだと突きつけてくる。翼が、あの梟の飛び方を覚えている。
だがあのマニューバ。ヨー方向の安定をわざと崩すマニューバ、あれができなった。結果コントロールを失って季節外れの水泳だった。
わかっていたことだった。ユーリの様な飛行種族にはヨー方向の安定性を図る垂直尾翼はない。推力コントロールと翼の角度で安定を図るしかない。それがユーリのフライトエンベロープであったが、それを外れるマニューバ。咲江にはできて、自分にはできなかった。
胸の奥に、つかえるような謎の感情。今まで感じたことのない、未知の感情。
濡れた前髪からぽたぽたと水滴が落ちて砂浜に黒い染みを作った。
しかし、そのひらめきは唐突に、まるで天啓の様に舞い降りてきた。
「……ああ、そうか」
悔しいのか、僕は。
これが『悔しい』なのか。
酸っぱく、それでいてどこかすがすがしい感情。それがユーリの心から沸き上がり、脳にしみわたっていく。
「……悔しい。うん。これが、悔しい」
初めて味わったその感情を、かみしめるようにしてユーリは空を仰いだ。空は青く、どこまでも広がっている。白い雲がまばらに散らばり、夕日の赤がもうすでに空の半分ほどにまで押し寄せてきている。じきに暗くなるだろう。
ユーリは濡れ鼠のまま、竜人形態へと変身する。翼が白い飛行術式を纏い、高音を響かせる。クラウチングスタートから駆け出し、湖岸から飛び出て水面を蹴って加速。翼が再び揚力を拾い、湖面を盛大に白くかき乱しながらユーリは空へと駆け上っていく。
早く帰ろう。
今日は、いい夢が見れそうだ。




