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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
02/Chapter:"母性の人"
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13/Sub:"空の下"

 ユーリの様子がおかしい。

 そのことにアリシアが気づいたのは、昼休みにいつものように全員で昼食をとっていた時のことだった。

 金色の瞳が濁っている。どこか心ここにあらず、と言った感じで、下手すれば昼食の味もよく分かっていなかったのではないだろうか。よく見ると彼の瞳の下に、うっすらと隈の様なものも見える。よく眠れていなかったのだろうか。

 アリシアは目を細める。昼食を食べ終わったユーリは、目元を抑えてどこか眠そうにもしていた。彼のいつもは座っているときでも、まるで空中で姿勢を維持しているかのように真っすぐな体幹は、どこか曲がっている。

 何があったのだろうか。アリシアは小さくため息をついた。

 思えば、ユーリだけではなくアンジェリカもどこかおかしいように感じる。最近急いでいるようにも感じていたのは、きっとアリアンナもそうだろう。生徒会長の立候補だってあまりに急な話だ。様々な予定を前倒しにしたりして、何とか持たせているようなものだ。

 アリシアには、何となくその原因が、ユーリのアルバイト、そして学校での人間関係の変化だというのにも気づいていた。

 結局のところ、アンジェリカはユーリに前に進んでほしいが、変わって欲しくもないのだろう。今の状態から変わることが怖くて、どこか尻込みしている。それはユーリもアンジェリカも似た者同士だろう。

 まったく、お似合いなんだから。

 少し嫉妬をアンジェリカに感じつつも、アリシアはテーブルの上から食後のコーヒーの入ったカップを取る。彼女専用のコップ。ステンレス製の、アウトドア用のコップ。注がれている黒い液体からは、心が落ちつく香ばしい香りが沸き上がってくる。口元に運んで、やけどしないように軽く啜ると、心地よい苦みが口の中にひろがった。

 さて、どうしたものかしら……。

 どこか余裕のない様子のアンジェリカと、見るからに調子の悪そうなユーリ。二人を交互にゆっくり眺めて、小さく息をつく。この関係性の中心とも言ってもいい二人がこの様子では、自分たちまで雰囲気が悪くなってくる。なんというか、その――。


「――気まずい、よねぇ」


 昼食を終えて四人別れた後に、いつの間にかついてきたアリアンナがアリシアに言った。アリシアはため息をつきながら首を横に振る。


「こういうことっていのは、基本的に自分たちで解決する、ってのが基本なんだろうけど」


 問題と言うのは、常に当事者だけで解決できるものとは限らない。時には、外部からの干渉が必要な時だって、ありうるのだ。


「その時が今回だって、姉さんは思うわけ?」

「そりゃそうでしょ、どう見たってあの二人、今袋小路に入ってるようなものじゃない」


 この問題の一番厄介なところは、今回別にあの二人はいさかいを起こしたというわけではないことだった。結局は、ただのすれ違い。それをお互いが勝手に解釈して、勝手に自己嫌悪に似た罪悪感を覚えているだけの状況。端的に換言するとすれば、ただの思い過ごし、と言うやつだった。

 単純な思い過ごしと言えばそれまでだが、思い過ごし程本人で解決しづらいものはない。他者の三人称視点で見て、指摘されてそこで初めて、思い過ごしが思い過ごしと気付くわけゆえ、思い過ごしは『思い』『過ごし』なのだ。


「で、姉さん的にはどうやって二人を仲直りさせたいのさ」

「そこが問題なのよねー……」


 二人は別に仲互いをしているわけではない。仲介してはいこうこうこうでした、と横からネタ晴らしをしても、結局は前に戻るだけだ。同じことをいずれ繰り返すだろう。

 かといって、時間は待ってはくれない。アンジェリカの生徒会選挙はもうすぐであるし、それに対する準備を日々着々と行っている状況だ。下手に今このタイミングでアンジェリカに余計な心配をかければ、選挙にも影響が出るかもしれない。招いてしまった事態や、早まった予定はともあれ、生徒会の選挙に出るということはアンジェリカが自らの将来のことを真剣に考えた結果起こした行動だ。姉として、妹の背中を押してあげたい、と言う気持ちも十分あった。


「ままらない物ね、姉って立場は」


 アリシアは頭の後ろで腕を組む。自分より頭一つ分以上背の高い末妹が、彼女のことをどこか嬉しそうな目で見下ろしている。


「ちょっと、妙な顔で見ないでよ」

「いや、アリシア姉さんがそうやってボクたちのこと真剣に思ってくれてるってのは、やっぱりうれしいなあ、って」


 そう言ってアリアンナはアリシアの後ろにぬるりと移動すると、彼女を後ろから抱きしめた。アリシアの首の後ろに、アリアンナの豊かな胸部が押し付けられる。丁度長距離バスや航空機の旅で、肩が凝らないようにつける空気で膨らませるクッションの様な塩梅だった。


駄妹(いもうと)よ、今すぐその無駄な脂肪を押し付ける遊びをやめなさい。お姉ちゃん、現実に耐え切れなさそうにないから」

「えぇ、いいじゃないか。アリシア姉さんは丁度抱きしめるのにちょうどいいサイズ感なんだ」


 そうやってまるで大きなぬいぐるみを抱きしめるかの様に後ろから抱き着いてくるアリアンナと、彼女の胸部の感触を首の後ろに感じながらアリシアはため息をついた。

 身体がデカくても、何だかんだまだまだ子供ね。

 アリシアは今後のことを考えつつ、アリアンナと共に教室を目指して歩き出した。

 午後の授業はあっという間に終わり、南の空から傾いた太陽が校舎を照らす。

 風の吹き抜ける屋上。その片隅で、壁にもたれるようにして微睡に落ちるユーリ。授業が終わってからとにかく空に近づこうとして、気が付いたら屋上に来ていた。倒れるように壁にもたれかかり、そのまま床にへたり込んで霞んだ視界で空を眺める。悪夢のせいで上手く寝られていなかった。意識を失うようにして、午後の日を浴びて眠りに落ちる。

 そうして見るのは、また過去の悪夢。

 ストラトポーズを超えてバランスを崩す。まるで呪いの様に重力の鎖が彼にまとわりついてきて、空から引きずり落そうとしてくる。どっちが地上でどっちが空なのか。コントロールを失って、彼は空から投げ出される。

 助けを求める声が希薄な大気に消えていく。空を切る手に空気の感触はなく、何もつかめずに宙を舞う。

 唐突に、がしりとその身を抱きしめられた。極寒の中間圏にはそぐわない、熱。パニックになっていたユーリをしっかりと抱き締め、ようやく上下が戻ってくる。温かい、心地よい匂い。


『ユーリイ、もう大丈夫、大丈夫ですよ――』


 そう、何度も語り掛けてくる言葉。日本語ではなく、ブルガリア語の一言一言が、ユーリの心にしみ込んできて、ゆっくり彼を取り戻させてくる。


『大丈夫、大丈夫ですから。帰りましょう、ユーリイ――』


 無条件で、どこか安心する匂い。何の匂いかどうか思い出せそうな、思い出させなさそうで、意識がどんどん暗闇から浮き上がっていって――。

 目が、覚めた。

 ゆっくりと目を開く。網膜をまぶしい日の光が貫いて、思わず開きかけた目を閉じる。恐る恐る瞼を開こうとして、後頭部が温かく、柔らかい感触に支えられているのに気づいた。同時に甘い香りが鼻をくすぐる。何の匂いかな? 光に慣れてきた目をゆっくり開くと、青空の半分が黒いシルエットに滑らかに切り取られているのに気づく。


「あら? 目が覚めた?」


 かけられた言葉と共に、黒いシルエットが動く。シルエットの向こうからこちらを見下ろす咲江の顔が見えて、そこでようやくユーリは、自分が膝枕されているということに気付いた。そこで急に記憶と感覚がつながる。


「吾妻先生……」

「ごめんね。だいぶ苦しそうにしてたから、少し場所を変えさせてもらったわ」


 ゆっくり首を動かすと、なるほど、最初に壁にもたれかかった場所は日陰になっているが、今は日向に移っていた。おかげかユーリの身体を日光が照らし、温かい。

 ユーリは夢の内容を思い出す。そうだ、昔あの時、父親がユーリの位置を補足し、文字通り飛んで駆け付けた母親によって助けられたのだ。失速し、コントロール不能になったユーリを空中で救出した母親。そのことを、久々に思い出した。

 ユーリがゆっくり上体を起こそうとすると、咲江が額に触れてきてそっと押しとどめられる。そのことを疑問に思っていると、彼女が言った。


「嫌な夢、見てたんでしょ? 少し休みなさい」

「どうして、そのことを」


 そうユーリが聞くと、咲江は少し悪戯っぽく微笑む。彼女の側頭部から上に向かって鋭く伸びる悪魔の角が、いやに目についた。


「そういうのが得意な種族なの。だからわかったのよ、屋上で、すごく悪い夢を見ている子がいるって。不思議に思って来てみたらユーリ君なんだもの。びっくりしたわ」


 そう言って咲江はユーリの額をゆっくりと撫でた。柔らかく滑らかな感触がユーリの髪を撫で、日のぬくもりと、彼女の甘い香りが香ってきて、荒れていた心が徐々に落ち着いてくる。

 咲江が空を見上げた。ユーリの視線も自然と彼女の方から彼女の視線の先の方に移る。そこに広がるのは、一面のスカイブルーの空。その真ん中からやや傾いたところに、やや黄色がかった白い太陽が輝いて二人を照らしている。


「いい天気ね」咲江が言う。「大気も安定しているし、フライト日和だわ」


 ユーリはその顔を下から見上げながら、小さな声でつぶやいた。


「先生は、空に戻りたいと思わないんですか?」


 すると、少し驚いたような顔をして咲江がユーリの方を向いた。そうして少し迷ったのち、少し困ったようにして言った。


「そうね、戻れるなら戻りたい、ってそう思うわ」だって、と咲江は続ける。「心の奥に焼き付いた群青は、決して消えてはくれないのだもの」


 咲江は言う。だけどその表情は、どこか満足げな表情でもあった。


「でも、地上に降りて分かることもあった。地上は、思っている以上に広大で、混沌としてて、それでいて、楽しいの」

「……」

「先生、って職に就いたのは半分流れみたいなものもあったわ。空を降りて、さあ仕事どうしよう、ってなってあてもなく過ごしていたら、教職が足りないってお知らせが来て、仕方なく就いてみたら、これが意外と楽しかったのよ。若い人に物を教える、ってことは」

「それは……」


 ユーリが思わず声を漏らすが、でも、と咲江は続ける。


「気が付いたら、こんな地位にまで来ちゃった。本当は現場に戻りたい、ってのもあるんだけどね」


 そう言う咲江の表情は、どこか寂し気だった。


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