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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
02/Chapter:"母性の人"
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12/Sub:"失速"

 そうやってユーリの手を掴んで、彼女は彼の手がひんやりと冷たいことに気付く。まるで成層圏に上がってきて、その後すぐ降りてきたかのような。空の冷たさ。それに思わずアンジェリカはユーリの横顔を見た。


「……」


 知らない人が見たら、ぞっとするような表情だった。一切の表情が抜け落ち、しかしそこに隠しても隠し切れない恐怖が薄皮一枚下に渦巻いていることのわかる表情。この表情を浮かべるユーリを見るのは、アンジェリカは久々だった。最近、大きく心を乱すようなことなんて、なかったのに。

 アンジェリカはとぼとぼと、どこか重い足取りで歩くユーリの手を繋いで歩く。昇降口を出て、校門を出て、屋敷までの道を二人で歩く。その間、ずっと彼女は彼の手を握っていた。彼の手は、ずっと冷たいままだった。


「何か、ありましたの?」


 アンジェリカがユーリに尋ねる。声をかけられたユーリは小さくビクリ、と肩を震えさせると、口をゆっくりと開く。しかし言葉は紡がれず、何かを言おうとしてやめる、を数度繰り返す。その様子を見かねたアンジェリカが、心配したようにユーリに語り掛ける。


「言いづらいのであれば、今度で構いませんわ?」

「……うん」


 僕は、大丈夫。そう返すユーリの表情は、間違いなく『大丈夫』と言う単語とは程遠い表情をしている。そのことが、ますます彼女を不安にさせる。

 思えば、生徒会選挙の話をした時から何か様子はおかしかった。アンジェリカは何か原因を探ってみるが、思い当たるフシはない。

 もやもやとした何かを抱えつつ、二人は屋敷にまで戻ってくる。のろのろと玄関を開けて中に入ると、誰もいない屋敷の中がただ広がっている。二人は屋敷に入ると、自分たちの部屋に向かう。部屋に入ると、静かな二人の部屋が広がっていた。アンジェリカは部屋に入って、シャワールームの扉を開けながら、普段通りにしようと気を張ってユーリに言う。


「ユーリ、わたくしはシャワーを浴びてきますわ」

「うん。わかった。僕は……ちょっと空を飛んでくる」

「……気を付けて、行ってらっしゃいませ」


 気丈に笑顔を浮かべようとしたのだろう、ユーリの口元は不格好に歪んでいた。アンジェリカはそれを見てさらに不安になるが、何とか彼を送り出す。シャワーに入ろうとしていた手が止まり、彼女はタンスの前にのろのろと歩いていくユーリの背中を見つめていた。

 身体にしみついているのか、てきぱきとフライトスーツに着替えるユーリ。だがどこか精彩さに欠けるような印象を受ける。フライトスーツに着替えた彼は、電子航空免許端末をどこか力なく腕に巻くと、アンジェリカの前を通って廊下に出ていった。ドアが静かに閉まり、小さな音を立てた。

 アンジェリカはゆっくりシャワー室のドアを閉める。一歩一歩を確かめるように窓際まで歩いてくると、カーテンを開く。窓を静かに開けると、外の空気が部屋の中にそよ風と共に吹き込んできた。ゆっくり視線を落とすと、そこには竜人形態へ変化したユーリの姿。

 彼がクラウチングスタートの姿勢を取る。飛行術式が起動し、翼が白い光に覆われ、高音が周囲に響き渡る。翼の後ろから噴射光がダイヤモンドコーンを描いて噴き出、彼の身体がぐぐ、と前に押し出される。


「ユーリ――」


 小さく言おうとして、言葉が思わず詰まる。そうこうしているうちに彼は一気に走り出し、急激に加速。翼が白い減圧雲を纏って地面から足が離れた。重力の鎖を断ち切って、ほぼ垂直に上昇。両翼端から白い糸の飛行機雲をたなびかせ、真っすぐ空に墜ちて行くように上昇していく。普段よりもずっと速い、ハイレートクライム。まるで地上から一刻も離れたいかの様に空へ立ち上っていくユーリを、ただアンジェリカは見つめる。

 言えなかった。


「……離陸を(クリアフォー)許可する(テイクオフ)


 ユーリに掛けられなかった言葉をアンジェリカはそっとつぶやく。小さく大気に吐き出した言葉は、誰も聞くもののいない大空へと吸い込まれていく。

 思えば、すべては焦りだった。

 ユーリがアルバイトを始め、アンジェリカの知らぬところで空に上がる。それが、まるでユーリが手の届かないところへ、飛んで行ってしまうようで。

 今回生徒会の選挙に出ようとしたのも、その焦りが原因だった。もちろん高校在籍中に出る気ではいたのだが、予定は一年前倒しだ。たとえそれが将来につながるかどうかもわからないとしても、とにかく実績が彼女には欲しかった。

 自分は、ここまでやれると。

 自分は、まだやれると。

 自分は、ユーリという翼で、群青の空に立ち入る資格のある存在なのだと。

 窓枠に置いた手がぎりり、と握られる。彼女の手はまるで凍傷にでもなったかのように冷たく、熱を奪われていた。手に残るユーリの霊力の残滓。

 何がユーリにあったのか、それはわからない。ただ少なくとも今のユーリを見ていてはっきり言えることは一つだった。


「……どうして」


 ユーリの心が、空に惹かれている。群青に染まりかけている。あの、底なしのダークブルーに。風に乗ってきた冷気がアンジェリカの頬を撫でる。ユーリのドラゴンブレスの残滓が混ざる空気は、ぞっとするほど冷たい。

 アンジェリカが空を見上げる。赤い瞳が空の青色を映し、白い輝きが大空で弧を描いていた。白い輝きは綺麗な半円を描いた後、再び墜ちて行くように上昇していく。白い光は青空に溶け込むように消えていき、やがて見えなくなった。




 ――吐しゃ物の様なモザイクが、眼下に広がった。

 胃の中の物を吐き出して、境界層の外側の気流に巻き込まれて粉々になりながら地上に落ちて行く。酸っぱい臭いが地面からせり上がってくるようで、背中にぞわぞわとただ不快な感触が鳥肌と共に駆け抜けた。

 息が、できない。

 空気の、ある所へ。

 逃げなくては。必死に推力を増す。精度も練度もガタガタで、飛行ベクトルも境界層や空力の制御も安定しない。ほぼ推力だけで飛んでいるような状態で、ひたすら上昇を試みる。強引に流し込んだ霊力に飛行術式の術式回路(セオルスフィア)は機械的に反応し、推力が跳ね上がる。強引に空を向いて、翼から気流が剥がれて失速。失われた揚力の代わりに絡みついてきた重力の鎖を、推力で強引に振りほどく。真っすぐ空に向かって上昇し、一気に音速を超えた。マッハ2、マッハ3。瞬く間に対気速度が跳ね上がっていく。

 着ていた服や、背負っていた学校鞄が不十分な境界層制御のせいで受けた空力のせいで千切れとんだ。極超音速域の空気に投げ出されたそれらは、ソニックブームと空力加熱を受けてバラバラに引き裂かれ、紅い炎をたなびかせて空へと散っていく。いくつもの破片に引きちぎられた鞄の中から、悪意に塗りつぶされた教科書やノートが大空に投げ出されて炎に包まれて消えていく。そうやって、ユーリは地上から一つずつ解き放たれていく。

 空の青色がどんどん深化していく。スカイブルーは、底なしのダークブルーへとその姿を変えていった。

 息ができる。吸いこんだ希薄な大気が肺を満たし、まるで溺れる直前に水面に顔を出したかの様に息を何度も荒く吸い込む。心臓と肺は酸素を求めて激しく動き、そのたびにユーリは成層圏の薄い大気を吸った。

 もっと、もっと高く。あの空の向こうへ。一糸まとわぬ姿のユーリは空へと駆け上っていく。高度130,000フィート、140,000フィート――150,000フィート、ストラトポーズ。

 それは、唐突に訪れた。

 稀薄な大気が一気に翼から離れた。一切の空力が消えうせ、ユーリの姿勢を支えていた物の一切が取り払われた。不安定な推力バランスが一気に彼の姿勢を崩し、目まぐるしく地上と空が入れ替わる。

 懸命に姿勢を回復しようとするも、一度崩れた姿勢はもとには戻らない。いつしか視界に浮かんだ水平指示計の定規の様な表示が、まるでムカデが視界内を這いずり回るかのように上に、下に、右に、左に、目まぐるしく動く。その間からも空の色はどんどん抜け落ちていき、ダークブルーの空はいつしか完全な黒へと姿を変えていた。

 たすけて。ユーリは叫が、しかし声が出ない。声が出ないのではない、声がない。中間圏の希薄な大気は、音を伝播させることを完全に放棄している。必死に助けを求める彼の声は、稀薄な大気を震わせることなく消えていく。

 不規則に回転を続けるユーリの視界が、ふと赤く染まり出した。オレンジ色に近いそれは、濁るように一定方向だけを覆い隠しはじめた。いつしか上昇が止まって、ユーリは大気圏に再突入し始めた。身体に空気がぶつかって、空力加熱が起きて電離した空気がユーリを覆う。様々な方向から叩きつけられる気流に、彼の四肢が、尾が、翼がもまれた。いつしか着ていたフライトスーツが、炎を纏って燃え落ちて行く。腕に巻いた電子航空免許は赤黒い、ノイズの混じった表示を壊れたように表示し続ける。『落下している(Sink Rate)引き起こせ(Pull Up)引き起こせ(Pull Up)引き起こせ(Pull Up)

 ごきり、と鈍い音。痛みはなく、ただ途方もない喪失感だけがユーリの胸の奥を満たした。視界の隅に、支えるもののなくなった翼がだらりと垂れ、気流に流されてバタバタと変な方向に折れ曲がっているのがただ映った。

 四肢の端が燃え始める。空力加熱が限界に達し、ユーリの身体が端から、砂の城が波にさらわれて崩れていくかのようにボロボロと燃え落ちて行く。いつしか折れた翼が燃え落ち、折れてなかった方の翼もすぐに後に続いた。四肢が落ち、ボンヤリとした意識の中、真っ暗な空だけがユーリを見下ろす様子が、網膜に焼き付いて――。


「――っ!」


 目が覚める。跳ねるようにして飛び起きると、そこはアンジェリカと自分の寝室。隣ではアンジェリカが小さく寝息を立てていた。まるで全力疾走した後の様に全身から滝の様に汗が流れ、心臓が跳ねるように鼓動している。

 久々に、昔の夢を見た。

 ゆっくり腕を持ち上げると、そこには燃え落ちてなどいない、綺麗な白い腕が目に入った。力なく開いた手を握りしめようとして、上手く握れない。自分の手が震えているのに気づいて、ようやくそれを理解した。

 身体に上手く力が入らないままユーリはベッドから降りると、ふらふらとシャワールームに向かう。汗で身体に張り付いた寝間着がただただ不快だった。どっちが下なのか、よくわからないままユーリはシャワールームに入ると、着ているものを足元に脱ぎ捨ててシャワールームに入る。蛇口をひねると、シャワーヘッドから冷たい水が迸り、すぐに湯気を帯びた温かい湯に変わった。だけど、ユーリの身体の震えは止まらない。

 壁に背中をつき、持たれるようにして床にへたり込む。頭から湯を浴びるが、それでも震えが止まらない。両腕で身体をかき抱き、両脚を曲げてぐっと縮こまる。


「――うっ、ぐっ――うっ――ひぐっ」


 シャワーの音に混じって、竜の小さな嗚咽の音が、ただシャワールームに響いた。


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