11/Sub:"決断"
「選挙に出ますわ!」
授業が終わり、放課後になってユーリが帰る支度をしていた時に、彼の席にアンジェリカがつかつかと歩いてきて、何やら計画していることがあるというのでひょこひょこついていった先で盛大に告げたのが、その一言だった。
「選挙? まだ立候補できる年齢じゃないよ」
「そっちじゃありませんわ! わたくしが立候補するのは生徒会長ですわ」
なるほど、とユーリは思う。確かに高校になって生徒会の選挙が再び行われる。その時に立候補して当選できれば、生徒会長になるのは何の問題もないだろう。
そう、当選できれば、だが。
「中学の生徒会長は皐月院さんだっけ」
「あら、知っていたとは。意外ですわ」
「本人から聞いたよ」
ユーリが肩を小さくすくめて言うと、アンジェリカは不敵に笑った。
その様子を横で見ていたアリシアとアリアンナは苦笑いを浮かべる。そして、でも、とアリシアが口を開いた。
「でも生徒会長って言っても漫画やアニメみたく、学校の実権を握ってるなんて物語の上だけよ? 実際は部活と教諭の間の意見を取り持つ雑用みたいな事ばっかだし」
「確かにそうかもしれませんわね。ですが」
アンジェリカが三人を見据えながら言う。その表情は真剣そのもので、思わずユーリも口を閉じる。
「わたくしは将来、人を導く立場にありたいと志す者。ならば、たとえ中間であろうと、人の上に立つという経験は決して、無駄にはならないはずですわ」
「学校と社会じゃ、わけが違いそうだけど?」
アリアンナが言うと、アンジェリカは小さくかぶりを振る。
「いいえ。確かに完全に一緒ではないですけれど、共通する項も決して少なくないですわ。特に選挙制なんて、まさにそれではなくて?」
「なるほどねぇ」
納得したように言うアリアンナに、どこか諦めたような雰囲気のアリシア。対して、ユーリの表情はどこか不満げであった。
「納得していない、と言った表情ですわね?」
「……そんな顔、してた?」
不思議そうな表情をころりと浮かべるユーリ。どうやら本当に無意識に表情に出ていたらしい。
「してたよユーリにぃ。いかにも『僕には気に入らないことがあります』って、顔に書いてあった」
「そこまでかぁ……むぅ」
ユーリは思い当たるフシを探ろうとしてみるが、人間、自分が無意識に嫌だと思っている事にはなかなかたどり着けず、結局答えが出てこない。
「まぁいいや。こういうのはやってから考えるよ」
どうせ思いつきもしなかったことだ。きっと些細なことだろう。そう思って彼はその思考を頭の片隅に追いやった。するとアンジェリカがそれは違いますわ、と告げる。
「ユーリ、そういう些細なことでも、後々大きな禍根になったりもしますわ。こういうのは早めに解決しておくのが吉、ですわ。『幸運の女神には――』」
「『――前髪しかない』、でしょ? 知ってるよ」
チャンスは一度しかつかめない。過ぎ去ったものは戻ってこない。決心するのが遅れて過ぎてしまったら、二度とつかみ取ることはできない。フライトだって同じだ。例えば離陸決心速度である150ノット付近では、一秒間で進む距離は70メートルもある。巡航速度になればもっと増える。音速で飛んでいたら一秒間で進む距離は340メートルだ。一キロを飛ぶのに三秒とかからない速度。空を飛ぶには一瞬一瞬で決断が迫られ、その一つ一つが生死に直結する。
だからこそアンジェリカの意見は、ユーリの脳に深くしみ込んだ。彼女がこのチャンスしかないというのなら、するべきなのだろう。
だからこそ、ユーリには自分の不満の理由がよくわからなかった。
「とりあえずは行動ですわ! 早速演説をしますわよ! ユーリ、原稿の作成を手伝ってくださいまし!」
「わかった。でもこういうのアリシア姉さんの方が得意じゃない?」
「私も手伝うわよ。当たり前じゃない」
「ボクは……ポスターでも作るかなぁ」
姉妹各々がアンジェリカの選挙への助力の方針を決めていく。そうしてその場は解散となり、ユーリはその場から離れた。
放課後の校舎を一人で歩く。教室に荷物を取りに戻る。夕飯の買い物に行こう。ユーリが教室に向かっていると、曲がり角で見覚えのある人影に出くわした。
「咲江先生」
「あら、穂高君じゃない」
曲がり角から出てきたのは、桃色の髪をなびかせた咲江だった。彼女はユーリを見ると、少しうれしそうな表情を浮かべる。
「どう? 最近もよく飛んでるの?」
「ええ。日課――呼吸みたいなものですから」
廊下を歩く。たわいもない話で盛り上がり、空の話があふれる。
「そういえば、アンジェリカが生徒会長に立候補するって言ってました」
「ゲルラホフスカさんが? なるほど、彼女、頑張ってるのね」
アンジェリカの話を出すと咲江が頷く。そういう意図はなかったが、名前を出しておいて損はないかもしれない。こういう一つ一つの積み重ねが、彼女の手助けになるのかもしれない。ならばユーリもできることをするまでだった。
二人は並んで歩く。並んで歩く二人の体幹は、ピクリともぶれていなかった。
「ユーリ君はどれくらいまで高く飛べるの? 飛行術式の出力にもよると思うけど」
咲江が聞いてくる。フムン、とユーリは一旦言葉を区切って、言葉をよく口の中で練り合わせてから、答えた。
「大体、高度130,000フィート。ストラトポーズの手前まで、ですね」
すると、その一言を聞いた咲江の表情がギョッとした表情を浮かべ、一瞬固まったものの、すぐにどこか納得したような表情を浮かべた。
「なるほど、じゃああなたも、あのダークブルーを見たのね」
「も?」
「いいえ、こちらの話よ」
それにしても、と彼女は続ける。
「見込み通りね、貴方、いいアビエイターになるわ」
「買い被りすぎですよ。至らないことも多い」
「でも、自分の能力を熟知しているというのは大事なことよ」
そう言ってほほ笑む咲江の、その桃色の瞳の奥にユーリは、群青色を見た気がした。
だからこそ、彼は何の気もなしに、疑問に浮かんだことをそのまま口に出してしまった。その先に何があるかなんて、考えもせずに。
「先生は、今でも空を飛んでるんですか?」
ユーリが聞くと、咲江はどこか寂しそうな、だけどそれでいて満足そうな表情を浮かべる。その表情だけで、のちの答えがわかってしまう。ハッ、と。不味いことを聞いてしまった、と彼は後悔する。だからこそ、彼女の次の言葉を聞きたくはなかった。しかしそんな想いむなしく、彼女は現実的で、冷酷な一言を告げる。
「いいえ。もう私は、空から降りたの」
今度はユーリの言葉が詰まった。ユーリの翼が折れる時、その時を思わず幻視してしまい、脊椎に氷柱をねじ込まれたような気分になる。思わず立ち止まると、咲江も同じように立ち止まる。小さく、どこか懐かしむような微笑みを浮かべて上を見上げる。そこにあるのは廊下の天井。だが、彼女の瞳にはその先にある色をはっきりと映していた。
「その、先生は……」
ユーリの唇が、小さく震える。踏み込んでいけないような、そんな危険な領域に飛び込むかの様な、黒く渦巻く雷雲に飛び込むかの様な、感覚。
「……どうして、空から降りたんですか?」
「うー……ん」
そう言って懐かしむように、天井の向こう側の空を眺めながら咲江が言う。
「帰る場所が、わからなくなっちゃった、からかな」
「帰る場所……?」
意外な答え。帰る場所? 空? どうして、という感情が彼の中に渦巻く中、ユーリをそっと諭すように咲江は語る。
「いい、ユーリ君」
彼女がユーリの方に向く。彼女の瞳には、群青を覆いつくす桃色があった。
「飛行機はね、滑走路に必ず帰ってくるの。滑走路から離陸して、滑走路に着陸しなきゃいけないの」
「それは――」
「だから、帰ってくるところがない人は、空を飛んじゃいけないの」
少し、寂しそうな口調で告げられた一言。それは、まるで竜殺しの槍の様に、ユーリの胸に深く、深く突き刺さった。
「ユーリ君は、帰る場所はあるのかしら」
「僕は……」
アンジェリカの所。そう言いだそうとして、言えなかった。自分と彼女との関係の不安が、どうしようもなく首をもたげる。
そんなユーリの頭に、そっと咲江は掌を載せる。優しく撫でると、彼の頭からほんのりと、オゾンの香り、そして、薔薇の様な匂いが立った。
「あなたは、帰ってこれる場所がきっと見つかるはず。だから、空を飛びなさい。きっと、空はすべて受け入れてくれるから」
それは、とても残酷なことではないのか。ユーリは呆然とする頭の中、じゃあね、と小さく挨拶して歩いていく咲江の背中を、ただ立ち尽くして見送った。
どれだけそうしていただろうか。ユーリが廊下の真ん中で立ち尽くしていると、背中をポンポンと叩かれる。小さく肩を跳ねさせて振り向くと、そこにはアンジェリカが怪訝な表情を浮かべて立っていた。
「ユーリ、どうしましたのです? こんなところで突っ立って」
「……ううん。なんでもない」
帰ろう。そう言って歩き出すユーリの手を、アンジェリカがそっと掴んだ。




