09/Sub:"夢/前"
人間形態に戻りつつ、ユーリが屋敷の中に入ると、暗い玄関が目に入る。後ろ手にドアを閉めると静かなホールに入って階段を登って二階へ上がっていく。アンジェリカとユーリ二人の部屋に入ると、フライトスーツを脱いで畳み、シャワールームに入る。
シャワーの蛇口をひねると、温かい湯がユーリの頭からかぶり、彼の引き締まった細身の筋肉質な体を、這うように温水が流れ落ちていく。汗や汚れと一緒に、肌にしみ込んでいた『空気』が融け出て、流れ落ちていくような感覚。空の残滓が流れ落ちていく。シャンプーを手に取って頭を洗うと、よく泡立った。
シャワーを止め、シャワールームの中に一人、たたずむ。温かく湿った空気にユーリがドラゴンブレスを混ぜると、一気に凝集を起こしてシャワールームの中が湯気で真っ白に染まった。まるで雲の中に突っ込んだかのような感覚。違いと言えば、空気が動いていないことか。
壁に手をついて、うなだれる。真っ白になった視界は一寸先も見えないが、うっすらと透明なシャワールームの壁の外から差し込む洗面所のLEDライトの光が床を照らしているのがわかる。息を深く吸うと、肺の中に湿った空気が入り込んで、小さくむせた。
真っ白な、上下すらもわからなくなりそうな空間の中、ユーリは静かにたたずむ。
「ユーリ?」
シャワールームの外から声がかかって、ユーリはようやく顔を上げた。声がして、おそらくそちらにいるであろう方向を向くが、真っ白で何も見えない。
「って。真っ白にして。どうしましたの?」
「いや、ちょっと疲れただけ」
壁から手を放して、うなだれていたユーリは上を向く。白く濁った視界の中、太陽の様にシャワールームの天井のLEDライトが輝いている。白煙の中遠近感のつかめなくなったそれは、手を伸ばせば届かずに、ずっと遠くにあるような錯覚を覚えるが、実際に手を伸ばしてみるとあっという間に天井に手がついた。そこには何の感慨もない、当たり前の結果。
ユーリは小さくため息をついた。
「アンジー、タオル取っていい?」
「少し待ってくださいまし。今ユーリが出てこられたら鏡が曇ってしまいますわ」
「おっと」
手を伸ばしていたシャワールームのドアノブから手を放す。濁った視界の向こうで、アンジェリカが顔でも洗っているのだろうか、パシャパシャとした水音が聞こえる。タオルの布切れの音が聞こえた後、アンジェリカがいいですわ、と言った。
「はーい……って何してるの」
「強いて言うと、ユーリ鑑賞、ですわ」
シャワールームのドアを開けると、目の前で制服のブレザーを脱いで、ネクタイや長手袋、タイツを外したシャツとスカートだけのアンジェリカが、仁王立ちしていた。気体となったミルクの様に、シャワールームからあふれる煙をバックに出てきたユーリを真正面から嘗め回すように見ている。その手にはバスタオルが握られていて、それをユーリに差し出してきた。
彼は状況が一瞬つかめなかったが、アンジェリカの視線が上から動いて顔、首、胸、みぞおち、腹、下腹部と動いたところで咄嗟に手で股間を隠した。すると彼女はどこか呆れたような表情でタオルを押し付けてきた。
「あんなことした仲なのですから、今更恥ずかしがるものでもないでしょうに」
「それとこれとは別でしょ……」
しぶしぶ、といった表情でタオルを受け取って身体を拭く。せめてもの抵抗としてアンジェリカに背を向けて身体を拭く。身体の上からタオルで拭いて水気をぬぐっていく。足まで拭いたところで、ぴたり、と冷たい手が背中に触れた。
「ひゅっ……! あ、アンジー?」
「あら、ユーリの身体温かいですわ――ではなく、そのままじっとしていてくださいまし」
そう言ってアンジェリカは背中を舐めるように掌でなぞり、時々形を確かめるかのように押したり、掌ではなく細い指で触れたりしてきた。そうして背中、腰、尻、太もも、ふくらはぎと上から下に触っていったあと、最後に尻を撫でてアンジェリカが言う。
「ユーリ、少し瘦せましたわね?」
「え。ほんと?」
「ええ。前よりも少し細くなってますわ」
そう言ってユーリは思わず自分で自分の腰や腕に触れて撫でる。アンジェリカに言われてみると、確かに前より少し細くなっているような気もする。
「痩せたのかな」
「これ以上痩せると、ユーリの場合問題になりますわ」
貴方、体脂肪率いくつか覚えていて? アンジェリカに言われて最後に測ったときの記録を思い出すと、あー、とユーリはつぶやく。
「飛びすぎかなぁ」
「にしては、筋肉量はあまり変わらなさそうですけれど」
尻を撫でていた手を放して、ぺたぺたと背中を触る。そうしてしばし触っていると、するりと後ろからユーリに手を回して抱き着いてくる。彼の背中に柔らかい二つの感触が押し付けられて、ドキリとユーリの心臓が跳ねる。
「あ、アンジー?」
「……少し、抱きしめ心地が悪いですわ」
具合を確かめるように、後ろからユーリの胸板や割れた腹筋を撫でるアンジェリカ。一通り撫でた後、満足したのかしゅるりと離れた。
「しっかり栄養を取った方がいいですわ。飛ぶのだって体力はいるでしょう?」
「あー、うん。そうだね。あれかな、安いからって、最近鶏肉か魚ばっかだったからかな」
「で、今日の夕飯は?」
「……鶏肉」
そう言うと、アンジェリカは目をつぶって小さくため息をついた。
「家計の問題もありますから、素直に『じゃあ明日から牛や豚を食べましょう』とは言えないのが難点ですわね……」
「でもバイト代も入ってるし、少しは鶏肉や魚以外を買っても大丈夫だと思うよ」
「ですわね……」
眉間に手を当てて悩むアンジェリカ。いっその事山に入ってイノシシでも獲ってこようか、ユーリの義母の山に入ることだってできるし、地元の猟友会と農家に話を通せば問題はないだろう。得物は『ブラッドボーン』を使えばいいし、狩るのも捌くのも慣れている。
「まぁ、急な問題じゃないから、いいよ。とりあえず食べる量を増やすよ」
「お願いしますわ。体調を崩されると、心配ですわ」
血を吸うのもできるだけ控えよう。そう心の中で、アンジェリカは小さく思った。
「では、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ベッドの上で、アンジェリカとユーリが寄り添って横に並ぶ。アンジェリカが言うのにユーリが返すと、彼女はベッドの横の灯りを消した。ユーリの視界一杯に広がるのは、瞳を閉じたアンジェリカが小さく寝息を立てる光景。吐息に紛れて、彼女のシャンプーの薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
そっと、ユーリは瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、今日飛んだ成層圏の空の、底の抜けたような空の群青の色。脳裏に消えない群青が広がって、なかなか眠りに落ちさせてくれない。思わず寝返りを打って天井を向いて目を薄く開くと、そこに広がるのは空ではなく、木目のついた天蓋。じっと目を凝らしていると、脳裏に焼き付いた群青がその向こうに見えるような、そんな気分になってくる。
そうしてしばらく天蓋を睨みつけていると、緩やかに眠気が沸き上がってくる。背中の方から浸水してくるように湧き上がってくる睡魔に、呑まれるようにしてどんどんと眠りに墜ちて行く。地面のない墜落。自然と、アンジェリカの手を握っていた。
どんどんと、深い、深い眠りに墜ちていく。群青に鮮やかな赤と、どこからか飛んできた桃色が閃光のように横切って――。
「……?」
――どこか、遠くて近い、誰かの夢を見たような気がした。




