05/Sub:"青色"
Tips:用語
〇ノット・フィート
それぞれ速さ、長さの単位。1ノットは1時間に1海里進む速度で、1海里は緯度1分に相当する。海図を見て航海する場合においては、この方がわかりやすいために航空機や船舶においてはノットが用いられる。
1ノットは秒速0.544m/s、時速1.852km/hである。
わかりやすく言うと、ノットを2で割ると秒速メートル、2倍すると時速キロメートルである。
1フィートは、0.3メートルである。
クラウチングスタートの姿勢から四肢に力を籠める。同時に翼に通す霊力を増していく。高音が高くなり、その姿はまるで空母のカタパルトで射出される瞬間を待つ戦闘機のようだった。
張り詰めた弦が放たれるかの如く、その瞬間は唐突に訪れた。
静止状態から駆け出すユーリ。翼は推力を生み出して一瞬で彼を重力の楔から解き放つ。翼を覆う減圧雲。急上昇。翼端が糸を引いた。
バックブラストと翼が大きくかき乱した大気で、庭に粉雪の様な霊力が吹きすさぶ。残響のように上昇を続けるユーリの、空気をたたき切る翼の音と、霊力による飛行術式のくぐもった高音がゲルラホフスカ邸の庭に響いていた。
「うわぁ相変わらずすっごいね」
窓から身を乗り出して見ていたアリアンナが吹きすさぶ風に髪を抑えていた。彼女の視線の先ではユーリが加速しながら上昇を続けていく。霊力によって輝き、白い雲の尾を引いて空に昇っていく様はさながら流星か、それとも彗星か。
「というか姉さん、さっきはよくユーリにぃがフライトスーツ探してるってわかったね」
するとアンジェリカは得意げに、しかしどこか呆れたように胸を張って言う。
「当たり前ですわ。何年ユーリの悪癖に付き合ったと思っていて?」
「悪癖って――まぁそれもそうか」
アンナの見つめる先。ユーリはすでに、吸血鬼の彼女の視力でも視認しづらくなるほどの速度と高度に達している。
「ユーリにぃ、空飛ぶことに関しては目がないもんね」
「ほんとうですわ」
アンジェリカは呆れたように言った。
「レディーを放り出しておいて一人でダンスなんて、紳士の風上にも置けませんわ!」
そう小さく怒り出すアンジェリカをアリアンナは苦笑いしながら見ていた。部屋のドアが開くと、アリシアがゲーム機を抱えながらすごい音がしたけどなにがあったのと少し慌てて聞いてきた。アンジェリカがユーリですわと答える。
「相変わらずすごい音ねー……」
やれやれといった様子でアリシアが乱雑にアンジェリカのベッドに座り込むと、彼女はゲームを起動した。
「お姉さま、あまり皺にはしないでくださいませ」
「わかってるわよ、お、ついたついた」
そんな姉の様子を見届けるとアンジェリカは再び窓の外に目をやり、飛んでいくユーリを見つめる。小さな、だけど強く輝く光はぐんぐんと上昇し、雲を超え、今や蒼穹の彼方へと達しようとしている。そこは星海の入り口、この世とあの世の境界、世界の法則の向こう側。
ユーリ、あなたは、わたくしを置いていきませんわよね?
アンジェリカは、流れてきた雲に隠されそうなほど小さくなった彼の輝きを、少し不安の籠った瞳で見つめた。
ユーリはほぼ垂直に上昇する。接近警報に気を付けつつ、増速。音はとっくに後ろに置き去りにした。境界層を制御し、空気抵抗を最適化し、重くて分厚い大気を一本の剣となって切り裂いていく。
対流圏の安定層はまるで重い壁のようにユーリに空気抵抗となって押し寄せる。ペース配分が重要だ。彼は推力と速度、気圧のバランスを意識しながら上昇。マックスQを超えた。
頭上に見えていた雲の群れはすでに眼下に広がっている。中層や上層の雲はない。ジェット気流も今日は凪いでいる。いい天気だ。上昇するにつれて周囲の空気はどんどん冷えていく。すでにここは生命の存在を許さない領域。極低温、強烈な紫外線や電離放射線が降り注ぎ、ごくごく一部のわずかな微生物を除いて生存すら許されない領域へと、音の速さを超えてユーリは突き進んでいく。
高度三万フィート。対流圏界面を突き抜けると、今まで身を切るような冷たい、肌を撫でる気流が次第に温かくなっていくのを感じた。もうこの付近はオゾン層だ。混沌としていた対流圏を過ぎて、ここから先は成層圏だ。
空の色はスカイブルーから色を変えていた。水蒸気やエアロゾル、分厚い窒素酸素混合大気のレイリー・ミー散乱やスペクトル吸収で色褪せていない、大気の窓の外を覗いて初めて瞳に映る、本当の空の色。
気圧はすでに数十ヘクトパスカルまで落ちている。ユーリは翼を包む気流の力が弱くなるのを意識し、翼をゆっくり広げながら速度を増す。極超音速域に到達。断熱圧縮された空気が一気に数百度まで熱せられ、彼の身体に炎のローブとなって纏わりつくが、彼のドラゴンの身体はその程度の熱にはびくともしない。炎の流星となった彼がオゾンの過熱でまるでミルフィーユのように成層を成していた成層圏を貫いていく。
空の色は深く、深く、溶け込むような暗い色へと変化していく。ギラギラと地上のそれよりも輝きを増した、太陽の光すら飲み込んでしまいそうな、虚無の青色。
高度十二万フィート。もはや大気は地上の数百分の一しかない。大気を切る翼の感触ももうほぼなくなった。ユーリはゆっくり翼へ流し込む霊力を落としていく。推力ゼロ。滑空。
数ヘクトパスカルの大気が頬を撫でる。彼はゆっくりロール。彼は瞳を閉じて物思いにふけった。
アンジェリカとの婚約、同じように慕ってくれている姉妹。そして同棲生活。希望に満ちた彼女らとは違い、どこか怖気づくように尻込みし続けている自分。
僕って、いったい何がしたいんだろうな。
漠然とした不安が胸の内に淀む。思わず深呼吸して成層圏の澄んだ希薄な空気を吸った。オゾンの匂いが混じる大気。肺の中がまるで透き通るような感触。だけど胸の内の淀みは消えてくれない。
アンジェリカはきっと進み続けるだろう。僕はどうだ? きっと彼女に置いて行かれるんじゃないか?
いつまでたって子供ではいられない。いつかは自分の道を、人生を、運命を、自分で決めなきゃいけない時が来る。なにも考えずにいたかった。ただ何も考えず、この虚無の青色に包まれていたかった。
頬を撫でる気流が弱まっていく。ゆっくり目を開けると、丸みを帯び、最早直線ではなくなった地平線が目に映った。速度がさらに落ちていく。一〇〇ノット、九〇ノット、八〇ノット。翼が空気を抱えきれずに気流が翼から離れていく。そうして彼は揚力を失った。推力を切った今、彼は重力に支配された。
高度十三万九千フィート。成層圏の、上の上。ここから先は中間圏。大気はさらに薄くなる。宇宙という広大な、無限の海へ続く波打ち際。その前にぼんやりと存在する境界、成層圏界面。
上昇が止まる。ユーリはかすかな大気を翼で受け止め、ピッチアップ。まるで地球を背に仰向けで寝るような姿勢に。無重量。
ゆっくりと手を虚無に伸ばす。青みがかった虚ろな透明はどこまでも深く、深く続いているようで、手が吸い込まれていくような錯覚に陥るほどだった。
ユーリの心は今や透き通っていた。その底に、淀みを残したまま。
背中から墜落のような落下が始まった。ハンマーヘッドターン。伸ばした手から虚無が遠ざかっていく。ユーリは地上に視線を向ける。日本列島はまだ冬の残滓を残し、白を纏っていた。大気が渦を巻きながら、雲を伴って北から南まで、巨大な擾乱を描きながら、冬の間温かい南洋に留まっていた春を運んでくる。虚無へと続くダークブルーとは違う、営みにあふれるモザイクの様な大地。目の前一杯にひろがる大地の輝きに、思わずユーリは目を細めた。
ユーリはすっと翼をすぼめた。自由落下は薄い大気の中ろくな抵抗も受けずに延々と加速していく。翼が再び大気を掴み、彼に揚力の加護を与えた。
とうとう音速を超える。希薄なソニックブームが成層圏を揺らした。まるで壁に突っ込むかのように大気がどんどん濃くなっていく。抵抗は自由落下を遮り、彼の速度はどんどん目の前まで迫ってきた終端速度の壁に押されて落ちていく。追い抜いた音に追い越される。オゾンを含んで生暖かった風は今や身を切るように冷たい。
オゾンの匂いが薄れていく。それと同時に、吸い込む空気が湿り気を帯びる。戻ってきた。対流圏の空気。エアロゾルでも含んでいたのか、成層圏の空気に慣れていると変な臭いが混ざっているようだった。煙臭いような、どうも嫌な臭い。高度はどんどん落ちていく。三万、二万、一万フィート。
高度五〇〇〇フィート。翼をゆっくり広げて気流を受け止める。抵抗と同時に揚力が増し、彼はピッチアップ。翼が揚力を生みだし、ベールの様な減圧雲が翼を覆う。左に軽くロールすると、反時計回りにらせんを描きながら降下していく。翼端から細く、翼端飛行機雲を引いた。進路上に雲。
高度的にあれは水滴の雲だろう、突っ込んだら雨になっているかもしれない。濡れるのは嫌だなと何となく思い、進路を変える。旋回を緩め、視線を動かして雲と雲の隙間を確認する。牧草地にまばらに群れる羊の様な雲の、十分大きな隙間を、上から下に向かって突き抜けた。雲の層があった高度を突き抜ける際、一瞬湿った、露点温度に達して湿り切った空気を吸い込んで思わずユーリはむせそうになった。
はじめは『細かい模様』だった景色が『町並み』に変化していく。ゲルラホフスカ邸の位置を町並みと見比べていて、彼はふと空を見上げる。広がるのは、スカイブルー。透き通るようなダークブルーは十数万フィートの厚さのある、空気と水蒸気のコンクリートの先に覆われて、もう見えない。
どこか逡巡するように目をそらして、彼はゲルラホフスカ邸へと進路を変えた。
自らの内なる厨二を再燃させて書きました




