03/Sub:"シャワールーム"
コンコンと部屋のドアが鳴った。アンジェリカがベッドに横になったまま返事をすると、部屋のドアを開けて入ってきたのはアリアンナだった。
「アンジー姉さん、シャワー貸してぇ」
「他の部屋が開いてますわよ」
「いやぁ。ボクも人恋しい時だってあるのだよ」
わざとらしく言うアリアンナにため息をつくアンジェリカ。こうは言っているものの、それは別に嘘ではないのだろうということが、何よりも厄介だ。
「はぁ、構いませんけれど。今はユーリが使っていますわ。しばらく待っていなさい」
「ユーリにぃが?」
その言葉を聞いたアリアンナの眼がきらりと光る。その返事にしまった、とアンジェリカが反応してベッドから飛び降りると、アリアンナが洗面所に入ろうとドアノブを掴んでいる瞬間だった。
「待ちなさい!」
アリアンナに駆け寄って羽交い絞めにすると、ぐぐ、とアリアンナはそれを振りほどこうとする。
「なんだよもぉ。姉さんだってユーリにぃと一緒にシャワー入ってイチャイチャしてるくせに」
「そういう問題ではありませんわ! 第一あなたが入ってもシャワー浴びるだけでは済まないでしょうに!」
「あ、やっぱりバレたかぁ」
そう悪びれもせずに言うアリアンナに、アンジェリカは頭が痛くなりそうだった。
アンジェリカとアリアンナの力の差はほぼ互角。近郊は続くが、ほんの小さな要素でそれはじわりじわりと傾いていく。アリアンナは、アンジェリカに比べて背が高い。それがこの場の勝負の決定的な差となり得た。アンジェリカの抵抗むなしく、アリアンナはじりじりとひねったドアノブを押していく。ドアが開き、ドアの隙間から洗面所の灯りが漏れ出て、ユーリの心地よさそうな鼻歌が流れてくる。
だが。
「くっ……早く入らないとユーリにぃがシャワーを終えてしまうっ……!」
「気づきましたわねアンナ! わたくしは別にあなたがシャワールームに押し入るのを完全に妨害しなくてもよいのですわ!」
ユーリのシャワーは早い方だ。すぐに汗を流して身体を軽く温めたら出てくるだろう。そうしたらアリアンナがシャワールームに押し入ったとしても、間違いが起きることはなくなる。アンジェリカはただ時間を稼げばよかった。
「だけど、ボクはそれでも……!」
アリアンナが力を込めると、じりじりとシャワールームのドアが開いていく。扉の向こうからはまだユーリの鼻歌とシャワーの音が聞こえてくる。いつまで入ってるんですの、とアンジェリカが心の中で苦言を呈するが、実のところシャワールームに入ってから三分も経っていない。
ぎりぎりと力の均衡が崩れていく中、アンジェリカは最早ユーリがシャワーを終えていることを祈るしかなかった。扉が開かれていく中、アリアンナの力がじわじわと強まっていくのを感じた。どこからこんな力が、と思ってアリアンナの顔を見やると、斜め後ろからでもうすぼんやりと分かるほど、目が赤く輝いていた。ええい、そこまでかとアンジェリカがあきらめかけたその時、無慈悲にも洗面所の扉は大きく開かれた。
「はぁいユーリにぃ! ボクと一緒に上も下も洗いっこしない?」
「きゃああああああああ!?」
まぶしい笑顔でドアを開け放ってそう言ったアリアンナに、思わず胸と股を手で隠して叫ぶユーリ。その悲惨な光景に、思わずアンジェリカはごめんなさいユーリと小さくつぶやいた。
「あ、なーんだユーリにぃ。シャワー出ちゃったんだ」
「あ、あ、あ、アンナ!? どうしてここに!?」
「どうしてって」
アリアンナは全裸のユーリをつま先から頭の上まで、嘗め回すように見る。ぞくりと彼は身を震わせた。
「ユーリにぃと一緒にシャワー浴びるためだけど」
「話が飛ぶなぁ」
ふと視線に気づく。見ると、アリアンナの背後のアンジェリカが、どこか申し訳なさそうにユーリを見てきた。なるほど止められなかったのか、とユーリは一瞬で状況を把握する。
「で、さ」アリアンナはこの場の混乱も知ったことか、と言わんばかりの様子で話を切り出した。「一緒にシャワー浴びよう、ユーリにぃ」
「今出たばっかなんだけど」
重要な箇所を見せないようにしながら、彼はそっと自分の身体にタオルを巻いた。
「うん、だからもっかい入ろ?」
「……のぼせちゃう、かな」
アリアンナの煌々と光る赤い瞳と、ユーリの鈍く輝く金色の瞳が交差する。二人の間に沈黙が流れ、シャワーヘッドからぽたりぽたりと水滴が垂れる音だけがシャワールームに響いた。
「……わかった。また今度でいいや」
アリアンナが降参、といった様子で両手を上げた。ユーリは身体にタオルを巻いたままそそくさと着替えを抱えてアリアンナの横を通り過ぎて出ていった。アンジェリカは、羽交い絞めにしていたアリアンナを離す。
「やりすぎですわよ、アンナ」
「そうかなぁ。ユーリにぃにはこのくらいした方がいいと思ったんだけど」
アリアンナはそう言いながら服を脱ぎだした。彼女のスラっと引き締まった身体と、豊かな胸部が露わになる。均整がとれつつも、しっかりと女性らしさを強調した彼女の身体は、アンジェリカという同性から見ても美しかった。
「過ぎたるは及ばざるがごとし、と言う言葉をご存じ?」
「急いてはことを仕損じる、とも言うねえ」
アリアンナが三つ編みを解きながらアンジェリカに向き直る。バサリと長い髪が舞って、直前まで三つ編みにされていたとは思えないように、さらさらと背中に流れた。
「それはお互い様、じゃない?」
「……失礼しますわ」
アリアンナから背を向けてアンジェリカは洗面所を出た。洗面所のドアが閉まると、残されたアリアンナは小さく肩をすくめた。アリアンナは下着を脱ぐと、一糸まとわぬ姿になってシャワールームに入る。先程まで使っていたユーリの熱が残っていて、まだ湿り、温かい室内。ほ、と息をついて蛇口を回すと、湯がシャワーヘッドから迸った。長い髪が濡れ、ズシリと重くなって彼女の輪郭を覆っていく。手ですくうと、ばさりと背中に持っていった。小さな水滴が宙を舞って、壁やガラスでできた窓に飛び散る。
ふと、アリアンナはシャワー横の蛇口横の小さな、手のひらサイズの、横倒しになった長方形をしたディスプレイ横のスイッチを押した。システムが立ち上がり、画面が白く光る。いくつかのスイッチを押していき、『決定』のスイッチを押した。
一メートル強四方のシャワールームを囲む透明なガラス板。それが一斉に黒く染まる。天井の灯りだけがシャワールーム内を照らした。黒くなったガラス板は、表面の質感だけ見るとまるで石細工か何かの様に見える。
彼女はいったんシャワーを止め、スイッチを操作する。洗濯されているアイコンが次々に移動し、ディスプレイの表示が流れる。『プライバシー』から『山岳』、『摩天楼』、『南国の海』、『森』。アリアンナはどれにするかしばし迷うと、『空』に選択を合わせて決定ボタンを押した。
周囲のガラスが一斉に表示を変える。一面の雲の海、そして青い空。それ以外に表示されているものはなく、まるで自身が雲の上に立っているかのような光景。
――シャワールームを少しでも快適に、ってことで有機ELを組み込んだガラスでできたシャワースペースって言っても、これほんとに売れると思ったのかなぁ。
どこかのベンチャー企業に姉妹の実家が投資した結果、産まれた商品。狭いシャワースペースに驚きの解放感を! との売りだったのらしいが、どうもこれを開発した面子の中に、これがどれだけ必要とされているかを考えることができる人はいなかったらしい。結局反省を生かしたのか、次に売り出されたのはバスルームだった。そちらは売れているらしい。
そうして、いつものように試作品を受け取り、扱いに困った結果、こうしてこの屋敷に設置と言う流れになった。
設置作業自体はこの屋敷に引っ越してきた際に行われたが、先程アリアンナがユーリのシャワー中に乱入した時も、ユーリは結局使っていなかった。アリアンナが上を見上げてみると、そこには変わらずシャワールームの白い天井とLEDライトがあるのみ。ディスプレイは四方だけだった。空好きのユーリなら使ってもおかしくないかな、とも思ったが肝心の方向がこれでは、使いもしないだろう。
「やっぱり、これいらないよね……」
そう呟きつつも、折角あるなら使ってやろう、ともアリアンナは考える。ディスプレイを『空』から『摩天楼』に変えると、周囲の表示が一変する。夜の摩天楼。きらびやかな宝石箱の様な夜景を、どこかのビルの屋上から眺めているような光景。四方に表示された夜景は、これはロサンゼルスだろうか?
鼻歌を歌いながら、アリアンナはシャワーヘッドをひねった。
「行ってきます」
ユーリがそう誰もいない屋敷の奥に向かって声を投げかける。振り向いている彼の背中側には三姉妹が制服を着て彼を待っていた。返事が返ってこないことを理解しつつ、ユーリはドアを閉めて鍵をかける。
「殊勝ですこと」
アンジェリカがユーリにそう声をかけると、彼はそうだねと小さく苦笑いを浮かべながら三人のもとに歩いてくる。
「でもわかりますわ。誰かに送り出してもらう、と言うのはどこか心が温かいですもの」
「あー、何となくわかるかも。ちょっと大げさだけどさ、『ここに帰ってくるんだ』って、なるわね」
門の外へ出ながらアンジェリカが言うと、アリシアが返した。
「滑走路みたいなもんか」
ユーリが言うと、三人は苦笑いを浮かべる。
「でもまぁ、確かに誰かに『ただいま』って言ったら『おかえり』って言って欲しい気分はあるかもねぇ」
アリアンナが帽子を指先でくるくる回し、ぽすりと自分の頭に被せながら言う。つばの広い、黒い帽子。彼女のお気に入りで、彼女の『霊服』の一部でもあり、展開元でもある。
「まぁ、今のところあの屋敷には今のところわたくし達しか住んでいませんから、『おかえり』と返ってきたらそれは――」
アンジェリカは、少し意地悪そうな表情を浮かべてユーリの方を向いた。ユーリの肩が小さくびくりと跳ねる。
「――こないだの、『残り』か、新しく来たモノでしょうね」
やめてくれ、とユーリは複雑な表情を浮かべる。
「やめてよ、あの事件いまだにちょっとトラウマなんだからね」
「大丈夫ですわ。定期的なお義父様の検査でも、異常性は確認されていませんですし、何より吸血鬼とドラゴンがいる屋敷にちょっかいをかけようなんて、普通はおもいませんわ」
「魔王城か何かかな?」
アリアンナがケラケラと笑う。確かに、田舎のあの屋敷にそれだけそろっているのは、いささか過剰戦力でもありそうだ。
三人は学校への道を歩く。春はすでに夏への準備を始めているように、温かい空気には暑さの気配が混じり始めていた。すでに桜は散って、青い葉が生き生きと生い茂っている。空の雲も、冬の残滓と夏の到来がぶつかり合う前哨なのか、高く立つ対流雲が目立つようになってきた。
これから飛ぶのは面倒な季節になるなぁ、とユーリは少しげんなりした。
「だけど、『検査』のためまた定期的にユーリのお父さんがウチに来るわけ?」
アリシアが言うと、そうですわね、とアンジェリカが返した。
「なんだか申し訳ないし、もどかしいわね」
アリシアが言うのに、小さくアンジェリカは頷いた。




