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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
02/Chapter:"母性の人"
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02/Sub:"陸地"

「アンジー、どうしてここに?」


 ユーリとアンジェリカは歩き出しながら話す。草地の端にはテントが立てられていて、青いビニールシートで壁が作られている。ロゴは、有名なアウトドアグッズのメーカーの物だった。二人はその中に入る。


「別に。ただあなたが働いている所を見てみたかった、というだけでは駄目?」

「いいや、そんなことないさ」


 ユーリはフライトスーツの機関部を外していく。ハーネスを緩めてフライトスーツを脱ぐと、インナー部からすっぽりと機関部が外れた。


「……出ていかないの?」

「その必要が?」


 ユーリが念のためにアンジェリカに聞いたが、帰ってきたのは拒否の返答。彼はため息をつきつつインナーを脱いでいく。インナーを脱ぐと、ふわりとオゾンのような臭いが立ち上ってテントの中に充満した。アンジェリカは鼻を小さくひくつかせた。

 スポーツバックの中に畳んでおいた着替えをユーリは取り出す。襟のついた長袖の水色のシャツに、黒いスラックス。インナーを脱いでパンツ一枚の状態から着替えると、服が肌の湿り気を吸って熱を奪う。すぐに背中がひんやりし始めた。

 帰ったらシャワーを浴びよう、とユーリはぼんやりと思った。


「で、今日のフライトの率直な感想は?」

「堂々と成層圏を飛べるのは、正直すごく気持ちがいい」


 ユーリがそう言いきるとアンジェリカは苦笑いを浮かべた。バッグにフライトスーツを押し込むと、二人はテントの外に出る。


「いっつも自由に飛び回れるのは10,000フィートまでだから、ああやって40,000フィート近くをまぁ、自由にとは言えないけど飛び回れるのは、やっぱりありがたいや」

「フライトプランは向こう持ち、でしたね」

「うん」


 二人は研究室のメンバーの所に向けて歩いていく。研究生と教授がノートPCの前に張り付いていた。どこか剣呑な雰囲気で画面にかじりつく彼らの間で、何やら専門的な用語が飛び交うのが漏れ出て聞こえてきたが、ユーリにはまだその意味は部分的にしかわからなかった。


「データ、大丈夫そうですか?」


 ユーリが恐る恐る、と言った雰囲気で後ろから尋ねると、教授が振り向いた。その表情は真剣そのものだった。ユーリとアンジェリカは、思わず小さく肩をすくめる。


「これ以上ないくらいだよ! 必要以上のものが手に入った! そうだ、賃金を渡さないとね」


 興奮した様子で話す教授がカバンから封筒を取り出す。そこで教授はふと手を止めると、再び鞄の中に手を突っ込んだ。封筒と一緒に取り出されたのは、黒い財布。彼はその中から千円札を三枚取り出すと、封筒を開けてその中にねじ込んだ。


「はい、報酬だ。追加報酬も弾んでおいたよ」


 困惑しつつ受け取って中を恐る恐る覗くと、決して少なくはない金額が入っていた。


「え、こんなに!?」

「言っただろう? 追加報酬だって。当初の予想より遥かに多くのデータが得られた。解析するのはまだまだ先になりそうだが、すぐに見て取れるデータだけであれだけだ。実直な仕事には、ふさわしい報酬を。ってね」


 初老の教授がウィンクをするのを、ユーリは苦笑いで返すことしかできなかった。


「何はともあれ助かった。今後ともよろしくね」

「こちらこそありがとうございます。では」


 ユーリが頭を下げると、教授も頭を下げて返す。その様子をアンジェリカが横で苦笑いを浮かべながら見ていた。


「じゃあ、次の依頼は学校経由で連絡させてもらうね」

「わかりました。それでは」


 手を振りつつ、教授と研究生達と別れる。去り際に研究生の一人が、『これで卒論に取り掛かれる!』と叫んでいるのが聞こえて、アンジェリカと顔を見合わせると、お互いに肩をすくめた。


「随分報酬を弾んでもらったのかしら」

「ちょっと贅沢できる程度、には」


 ユーリは封筒をスポーツバックに放り込むと、ファスナーを閉めた。

 二人は家までの道を歩く。アンジェリカに尋ねると、彼女も家からここまで歩いてきたらしい。なんでも、『天気が良いので散歩日和だと思った』だそうだ。吸血鬼としてどうなんだそれは、と思ったが、今更だと思って黙っていた。


「そういえば」アンジェリカがユーリに尋ねる。「よくこんなあなたにぴったりのアルバイト、見つけられましたね」


 ユーリはあー、と頬をかく。実のところ、これを見つけられたのはほぼ幸運に近い。たまたま、こういうアルバイトがあって、それが偶然残っていて、そしてたまたま採用されたようなものだ。そういうことを彼がアンジェリカに言うと、彼女は、違いますわ、と声を遮った。


「わたくしが言いたいのは、よくそんな、『空を飛ぶことが生きがい』みたいな人向けの求人を学校の職業経験募集板に貼った方がいましたのね、と言うことですわ」

「あー、なるほど」


 ユーリはあの時手に取ったバイトの広告を思い出す。光で焼けて色褪せた募集用紙。あれはだいぶ長いことあそこに貼られていたのだろうか。誰があそこにあの紙を貼ったのだろうか。張ったなら先生の一人のはず。


「ユーリ、心当たりはありますの?」

「心当たりねえ……」


 彼は先生の顔を一つ一つ思い出していき、一人一人に違うと頭の中でバツを付けていく。そうして知っている教諭にあらかたバツを付け終わったところで、一人だけ残る。


「吾妻先生、かぁ……」

「理事長補佐代理、ですの?」

「よく覚えてるね」


 彼女だけがユーリの中で妙な違和感を放っていた。ただ、その違和感そのものが、あの募集を用意したのは彼女という謎の確信を放っていた。


「いつもの違和感ですの?」

「どっちかと言うと違和()かなぁ」


 二人は交差点の信号で立ち止まった。信号の赤いLEDランプが、通り過ぎる車の向こうで煌々とついていた。車の流れが止まり、信号が青に変わる。黒いアスファルトに敷かれた等間隔の白い線の上を、線を無視してずんずんと歩いていった。


「で、具体的にはどのような?」

「うー……ん。なんて言えばいいんだろう、なんというか――」


 何かを言おうとするのが、それが上手く口の中で形を成してくれない感覚。ごもごもと言うべき言葉に困っていると、ふわりと風が吹いた。


「……」


 二人の会話が途切れて、その春の強い風に躰をさらす。ふわりと温かく、だけどどこか冬の残滓を含む春を告げる風。どこから含んできたのだろうか、甘い香りが鼻腔をくすぐった、気がした。

 そんな風が彼に答えを教えてくれたかのように、彼の口の中で言葉が急に形を成してくる。突拍子もないし、そもそも違和感も多いが、それでも謎の確信を彼は持っていた。


「――あの人、こっち側の人かもしれない」

「それって。つまり」


 空に関わった人。空に触れた存在。ユーリと同じ側の人間。群青を見たヒト。それを思った瞬間、アンジェリカの心にドロドロと醜い感情が顔をのぞかせたのを彼女は自覚した。

 ――嫉妬だなんて、私らしくもない。

 小さくため息をつくと、その生暖かい吐息すら春の風が持ち去っていく。

 二人の間の言葉もなくなり、黙って帰り道を歩く。春の風が時折吹いては、二人の身体から熱を奪っていった。空は青く、白い積雲が散らばっている向こうに、薄くヴェールの様な巻雲が広がって、透き通った青い空をところどころで隠している。積乱雲から流れてきたのだろうか。


「で、貴方はどうするのです?」

「どうするって?」


 アンジェリカが唐突に口を開いて聞いてくるのに、ユーリは疑問符を浮かべた。


「どうも――いや、訂正。少し、話をしてみたいかな」

「……まぁ、言わずとも答えはわかりますけれど、何を話すのです?」

「いや、ただ。どんな空を飛んだのかな、って」

「そう、ですの」


 そう言うユーリの瞳が、どこか遠くを見ているようで、それを横から見ていたアンジェリカはその瞳を見て何も言えなくなる。静かにユーリの隣を歩くが、彼の瞳の先が、水平よりやや上を向いているのに、すぐに気づいた。

 それがなんだか腹立たしくて、アンジェリカはユーリの手を引いて歩む速度を上げる。


「あ、アンジー?」

「ユーリ、汗臭いですわ! 早くシャワー浴びるべきですわ!」


 手を引かれてずんずんと歩いていく彼女に、ユーリは戸惑いながらも手を引かれて歩いていく。

 早歩きで歩くと、家である元幽霊屋敷にはあっという間に到着した。飛行場とした草地は、家からも学校からもそう遠くない場所だったのが幸いし、あまり出るときにも早い時間にしなくてよかったのは、ありがたかった。

 家の門を開けて敷地に入ると、アンジェリカは玄関の鍵を取り出す。扉の鍵穴に突っ込んでひねると、油のよく差してある錠前は静かに開いた。玄関はシンと静まり返っていて、春の日差しが間接的に入っているものの、どこか薄暗い。アンジェリカが屋敷の中につかつかと入っていく後ろで、ユーリはとびらを閉めて鍵をかける。カチリと小さい音がして鍵が閉められる。アンジェリカの後をついて行って二階に昇って、部屋に入る。すると、部屋に入った所でアンジェリカからタオルと着替えを押し付けられた。


「ほら、早くシャワー浴びてくださいまし!」

「わかったよ、入るって」


 ユーリをシャワールームに押し込むと、中から布切れの音が聞こえる。アンジェリカはつかつかと部屋に戻ると、ベレー帽を脱いで放り投げた。空中でくるくると回って、帽子掛けにぽすりと引っかかった。そして、そのまま天蓋付きのベッドに身を投げ出した。


「……」


 ベッドに顔をうずめてしばらくパタパタと足を動かしていたが、そのうちその動きも止まった。静かにベッドに顔をうずめたまま息を吸うと、ユーリの匂いがほのかにベッドから漂ってくる。その香りを肺の中に流し込んで、長く、深く息を吐いた。ベッドの口元が吐息で熱く、湿った。


「……なに、やってるのかしら」


 自問自答するが、答えは返ってこない。ただシャワールームから心地よさそうな声と、時折鼻歌が聞こえてくるだけだった。


「……馬鹿」


 小さくつぶやくと、アンジェリカは寝返りをうつ。窓の外には、青い空がただただ広がっていた。

 シャワー、わたくしも浴びましょうか。

 とにかく外の臭いを消したかった。シャワーの音が静かに室内に響く。


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