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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
02/Chapter:"母性の人"
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01/Sub:"オブザベーション・フライト"

 銀翼が空を切り裂く。

 高度42,000フィートを、五六〇ノットでユーリが飛びぬけた。翼が成層圏の薄い大気を切り裂き、稀薄な大気を掴んで翼に揚力を与えている。眼下に広がるのはまるで海原の様にうねり、そしてどこまでも続く雲海。空の色はスカイブルーのフィルターの向こうがわにダークブルーが顔をのぞかせている。

 対流圏界面の少し上。成層圏の入り口をユーリは飛翔する。眼下に広がっている雲海は、高度3,000フィート付近からこの高度まで立ち上っている、巨大な積乱雲だった。

『よし、画像は見えている。感度良好』

 首に巻いた通信機器から、声が聞こえてくる。電波で地上から飛んできた音声が通信機器内部の術式回路に伝達され、流れているユーリの霊力を使って短距離霊力念話通信としてユーリの脳内に直接声が響いてくる。

 ユーリはいつもの暗灰色のフライトスーツの上に、まるでタクティカルジャケットのような大型のハーネスを身に着けていた。そのハーネスの腹部側には、いくつものカメラやフェーズドアレイレーダーの様なプレートが並んで取り付けられており、それが雲海を睨んでいる。ハーネスに取り付けられたカメラやセンサー群は、可視光線、紫外線、赤外線、マイクロ波でもってかなとこ型まで発達した積乱雲の内部を観測する。積乱雲からはるか二五〇キロ先の山の上に取り付けられた気象レーダーが強力な電波のビームを走査するように積乱雲内に発射、ビームの散乱をユーリが積乱雲の周囲を飛び回りながら観測することで、積乱雲内部の氷晶の立体的な対流活動の構を解析する。それがユーリに与えられたミッションだった。

 ミッションとは言っているが、先日申し込んだアルバイトである。申請や必要機器の用意やレンタルなどは研究室側が行ってくれた。ユーリはフライトプランを考えて飛ぶだけでいい。アンジェリカの行っていた通り、確かに天職だったかもしれない。

 ユーリはロール、すぐに緩やかにピッチアップ。レンタル品のHMDに表示されたウェイポイントを目指し、空をまるで滑らかなバターをスプーンで切り裂いていくように旋回していく。積乱雲の上部を、翼の先端から雲の糸をたなびかせながら飛行する。ウェイポイントを通過。あとは帰投を残すのみだ。


「ウェイポイントを通過。データはどうですか?」

『良好だよ。必要なものは十分に得られた。もう大丈夫だ、帰投してくれ』

「了解。無事に済んでよかったですよ」

『そうだね。僕たちも想像以上のデータに驚いてるよ。これからデータの解析が大変だ』

「うれしい悲鳴、ってやつですかね?」

『そうとも言うね。そうだ、君にお客さんが来てるよ。地上で待ってる』

「了解。こちらユーリ、RTB」


 通信が切れる。ユーリは方位を確認したのち、飛行術式に流し込む霊力を増した。翼の後端からダイヤモンドコーンを描いて噴き出る噴射光が小さく膨れ上がり、緩やかに加速。希薄な大気では音速は1気圧下のそれよりも小さい。すぐに音速に達し、音を置き去りにして大空を駆け抜ける。スーパーソニック。希薄な大気の積乱雲の荒れ狂う雲海を、ソニックブームが揺らす。

 積乱雲の上部のかなとこ状の巻雲は大きな島の様に広がる。対流圏界面にぴったりと張り付くように続くその雲の絨毯の上、ダークブルーの空とコントラストをなすその高度を、ユーリは南に向かって300キロほど飛行する。ウェイポイントはそこだった。

 超音速の気流の中、ユーリは物思いにふける。考えるのは彼女のことだった。

 ――そういえば、誕生日プレゼント、何にしようかな。

 アンジェリカの誕生日はおおよそ一ヶ月後だった。彼女には言っていないが、アルバイトをしようと思った理由の一つが彼女への誕生日プレゼント、というのもある。しかしどんなものを買えばいいか、と思うとアイデアが浮かぶことはなく、結局思考はドツボに嵌った。

『プレゼントは僕』なんて、なんともぞっとしない考えが浮かぶが、そんなことをした日にはどんな目にあうのかわからないと小さくかぶりを振った。こないだの夜から、ユーリはそこをどうも意識してしまうことが多く、同じように接しているはずだったが、妙なぎこちなさを――ユーリが一方的に思っているだけかもしれないが――感じていた。

 小さくため息をつく。こういう時にしっかりしなくてはいけないのは男とか女とか以前にパートナーとしての義務だ。何を迷う必要がある、彼女にすべて捧げればいいではないかと魂は叫ぶが……。

 ユーリは180度エルロンロール。空を向く。超音速で背面飛行。視線を進行方向から目の前、ダークブルーの空に向ける。その向こうにあるストラトポーズは、見えなくてもそこに確かに横たわっている。

 ――彼女にふさわしいと思っているのか? あの見えない、触れられない、実質存在しないような、人が勝手に決めた境界線一つ越えられない自分が?

 理性が(うそぶ)く。ズキリと心の古傷が痛んで、ユーリは目を細めた。

 何とかしないと、駄目だ。彼女にパイロットになって欲しいとまで告白したのだ。飛べない飾り物の翼なら、折った方がマシだ。

 ウェイポイントに到達したことを告げる電子音。ユーリはダークブルーの空を睨む。その向こうにあるのは、無限に続く星の海原。どこまでも続く、無限の虚空。底の抜けた群青が、ただ漠然と広がっていた。

 ユーリはピッチアップ。超音速で飛行していたのが急激な旋回で速度が落ち、遷音速に落ちていく。翼が減圧雲を纏い、翼端から鋭く弧を描く雲の糸を引いた。ダークブルーが遠ざかり、巻雲にユーリが飛びこむと、白に覆われてダークブルーの空は一瞬で掻き消えた。ユーリはそのままピッチアップを続ける。進路ベクトルが垂直に真下を向き、さらにピッチアップを続けていくと姿勢が水平に戻ってくる。スプリットS。大気が一気に濃くなり、空力抵抗が増す。薄い巻雲を抜けて眼下に広がっているのは、薄いカーテンを通した日差しの様な、巻雲越しに照らされた地上。

 ユーリは推力を落としていく。自然と対気速度が低下していき、進路ベクトルが地面を向き始めた。それに合わせてわずかな仰角を取りながら機首を下に向けていく。降下率と速度のバランスが取れたところで、ユーリは右にロール。斜めになった翼は、上向きの揚力のベクトルを生み出している中、地面に真っすぐ重力に引かれたせいで斜めに滑り落ちるようにして地面を向く。緩やかにピッチアップすると、大きな螺旋を描くようにして高度を落とすマニューバが出来上がる。どんどん濃く、暑く、湿る大気にユーリはわずかに顔をしかめながらも着陸地点を目指した。

 降下していると横殴りの気流を受ける。垂直ウィンドシアの情報は事前に入っていたので、すぐに体制と進路を立て直して降下速度をコントロール。

 積乱雲は内部で激しい対流を起こし、氷晶を発達させる。氷晶は融解と再氷結を繰り返し、やがてどんどん大きくなっていき、やがて氷晶を支えていた気流が重力に逆らいきれなくなり、落下。空中で再び融けて激しい雨となる。氷晶が溶ける際、周囲の熱を奪うために巨大な冷たい空気の塊が形成される。いわばこれは、巨大な冷気の爆弾だ。これが地上に落下すると、積乱雲を中心として放射状に風を発生させる。この放射状の風と積乱雲の周囲にもともと吹いていた風がぶつかると、急激に風の変化する境界線ができる。これがガストフロントだ。こいつは急激な垂直、水平ウィンドシアを生み、時には空に飛んでいるものを叩き落す。

 熱心に、そう大気物理学研の教授から教えられた内容だ。ユーリが少し興味を示すと、内容こそ高校生にわかるようにだが、詳しく教えてくれた。

 空のことは自分で触れて知っていたつもりだったが、知らないことも多い。それを、今回のことで思い知った。つくづく自分のこういうところが嫌になる。ユーリは降下を維持。

 翼が受け止める空気がだんだん重くなってくる。抵抗が大きくなるにつれ、揚力を維持するのに必要な速度も小さくなってくる。進路はクリア。高度4,000フィートを切った。着陸地点を目視で確認。ユーリは最終アプローチに入った。

 緩やかにピッチアップし、進路ベクトルを水平に。滑らかに降下しながら、飛行場として使った草地に向かって降下していく。目を凝らせば着陸場所で待っている人物の姿も見えそうだ。ほぼ点の様に見える人物の群れの中に、ユーリは際立った色を見つけ、着陸を急いた。

 100、50、40、30、20、フレア。

 高めの降下率と速い速度を早めの機首上げで打ち消す。降下率が一気に落ち、速度が急に殺される。目の前には地面。飛行術式を纏った翼を大きく広げ、垂直速度を抑えながら伸ばした片足で触れるようにタッチダウン。つづけてもう片足を地面に触れさせ、折り曲げて静かに着陸。翼を畳むと、飛行術式の光が薄れていった。


「アンジー」


 ユーリが着陸した後に顔を上げると、そこにはアンジェリカが日傘をさしてたたずんでいた。深紅のベレー帽に、パフスリーブ付きの白いシャツに、ゆったりとしたスカート。肩からメッセンジャーバックを下げて、降りてきたユーリをほほえまし気に眺めている。


「お帰りユーリ君。お疲れ様」教授がユーリに駆け寄ってくる。「彼女がさっき言ってた、君を待ってた人だよ」


 君の知り合いかい? そう教授から聞かれてはい、と答える。


「アンジェリカ・マルグレーテ・イグナツ・ツァハ・ゲルラホフスカですわ。どうぞよしなに」


 スカートこそつまんでいないが、片手で恭しくカーテシーをしつつ、アンジェリカがそう挨拶すると、おぉ、と研究生と教授から声が上がった。

 研究生達が近づいてきて、ユーリのフライトスーツから観測機器を一つずつ外していく。ユーリはHMDグラスを外して、そのうちの一人に手渡した。


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