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青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
01/Chapter:"インターシスター"
53/216

27/Sub:"オペレーション・オーシャンイクリプス"

 ユーリは上昇しながら加速を続ける。そのすぐ左後ろに加速して追いついてきたユーリの母親が並ぶ。編隊飛行。目の前に雲。雲の中に飛び込むと、一気に視界が真っ白になるがユーリの視界には水平指示器と高度計の表示が出ている。ユーリは上昇を維持。緩やかに右に旋回しながらウェイポイント『ピザ』に向けて旋回。真っ白な雲の中、白く飛行術式で輝く翼が濁った雲の中を照らす。

 唐突に雲を抜けた。塔の様に並び立っている積雲の群れの中を飛びぬけ、高気圧に覆われて透き通った空へ向けて上昇を続けていく。高度8,000フィート。空の色は、スカイブルーでまだ遠く、地平線の向こうまで続いてはいるが、その奥に隠れたダークブルーがすでに顔をのぞかせ始めていた。高度10,000フィート。緩やかにピッチダウンし、水平飛行へ。ウェイポイント『ピザ』を通過。ウェイポイント『ローズ』に向けて右旋回。高度を維持。


『アンジー。高度10,000フィートに到達。東京コントロールにコンタクト、お願い』

「了解しましたわ」


 アンジェリカは端末を操作。東京コントロールとコンタクトを取った。


「東京コントロール。こちらEI72A。高度10,000に到達。水平飛行中。高度120,000への上昇をリクエストします」

『こちら東京コントロール。EI72Aへ。上昇を許可。ウェイポイント『ローズ』を通過後、高度120,000まで上昇。ウェイポイント『オクトパス』、『ピーチ』を通過後、超音速巡航を許可します』


 アンジェリカがネットワークへ向けて呼びかけると、通信機から返ってきたのはAIが答えたのだろう、人工音声だった。


「こちらEI72A。ウェイポイント『ローズ』を通過後、高度120,000まで上昇。『オクトパス』『ローズ』を通過後、超音速まで加速、巡航します」

『復唱を確認。内容に齟齬なし。リンク8、スカーレットを維持』

「リンク8、スカーレットを維持。EI72A、交信終了」


 緩やかに旋回を終え、ユーリはウェイポイント『ローズ』を目指す。二匹の竜が青空の中、雲が群れなす高度のやや上を、翼の端から雲の糸を引きながら滑るように飛行していく。雲の隙間から山に囲まれた平野が見えた。平野を囲む南アルプスの山並みは標高で言うと3,000メートル近く――9,000フィート近くの高さがある。そう鑑みると、今飛んでいるこの航空路は山と山の間を通る細い回廊の様なものだ。その見えない回廊を、二匹の竜が飛んでいく。


『ダークスカイ2からダークスカイ1へ。調子は大丈夫です?』


 ユーリの母親からの通信が入った。離陸前にお互い決めたコールサインで呼んでくる。ユーリの母親はユーリの左後方八時の方向三〇〇メートルほどに、ユーリと速度と方位をぴったりと並んで飛行している。竜の瞳でそちらの方をちらりと見てみると、サドルユニットの一番後ろに跨ったアリシアが小さくこちらに手を振っていた。


『ダークスカイ1からダークスカイ2へ。そうだね、少し気分が躍っているや』

『ペースを乱さないように。距離が長いですから。不時着水だけはしないように』

『季節外れの海水浴には早いですわ!』


 ユーリと母親の通信に、アンジェリカが割り込んでくる。ユーリは小さく笑った。

 巡航速度二五〇ノットで飛行するユーリ達は、一キロを五秒もかからずにとびぬける。あっという間にウェイポイント『ローズ』を通過。雲の列の向こうに、小さく太平洋の水平線が見え始めた。


「ユーリ、ウェイポイント『ローズ』を通過。高度120,000まで上昇しますわよ」

『了解。『こちら機長です。当機はこれより、対流圏を超えて成層圏まで上昇いたします。皆さま、背もたれやテーブル、足置きなどをもとの位置までお戻しください』ってね』

「あら、飲み物のサービスもまだ受けてないのに」

『ソーダは2ドルだよー』


 アリアンナからからかうような口調の通信が割り込んできて、アンジェリカは苦笑いを浮かべた。

 ユーリの翼が煌めいた。翼の後端からダイヤモンドコーンを数珠つなぎにして噴き出る霊力の噴射光が膨れ上がると、ずん、とアンジェリカの身体がサドルに押し付けられた。まるで空母から射出される戦闘機のように、ユーリが加速を開始する。それと同時に、ユーリはピッチアップ。速度と高度が同時に上がっていく。三〇〇ノット、三五〇ノット、四〇〇ノット。15,000フィート、20,000フィート、25,000フィート。スカイブルーから濁りと白が抜けて、どこまでも透き通ったダークブルーがスカイブルーを頭上から飲み込んで広がってきた。高度30,000フィートを超えた。もう世界で最も高い地面よりも高い場所だ。水蒸気と熱が吹き荒れる対流圏を超えて、成層圏へとユーリ達は飛び込んでいく。ウェイポイント『オクトパス』を通過。ユーリは推力を絞り、対気速度を五〇〇ノットで固定しつつ、高度を上げていく。40,000フィートを追加。


『アンジー。生命維持は働いてる? 調子はどう?』

「術式駆動に問題なし。そうですわね、少し気分が躍りますわ!」


 どこか興奮した様子で鞍上のアンジェリカが返してきた。フライヤーズ・ハイになっているようだ。そんな中でもしっかりとユーリの質問にも確実に返事を返していた。心配は無用のようだ。

 上昇を続ける。ダークブルーはどんどんその透明度を増していき、地平線がわずかに丸みを帯びてくる。対流圏の熱く、厚い大気は白いブランケットの様に目下に広がっていた。翼が受け止める大気が薄くなってくる。ユーリは境界層を制御。薄い大気に合わせて自分の飛行特性(フライトエンベロープ)を柔軟に変化させていく。高度70,000フィートを通過。

 ユーリは頭上を見る。どこまでも透き通り、暗く横たわるダークブルーの成層圏の空の真ん中に、ギラギラと輝く太陽。その形は欠けている様子などはなく、特に陰った様子などない。まだ日食の半影にも入っていない。当たり前だが、これからこの太陽が真っ暗になっていくというのはやはり妙に感じた。

 地上の景色はすでに陸上から海上へと移っていた。地上の景色は白い大気のマットレスの向こうで、どこか濁って見えた。ウェイポイント『オクトパス』を通過。次のウェイポイント『ピーチ』の方位と距離が視界に投影され、ユーリは上昇しながら右にロール。緩やかな右旋回を始める。視界の水平指示計が傾き、方位指示計が左に流れていく。かかるGが増えていった。2G、2.5G。あまり増えないようにしながらユーリは旋回率を調整。大きな円を描きながら空へと駆け上っていく。群青の空に、輝く光が二つ。曲線を描いて昇っていく。


『アンジー、Gは平気?』


 ユーリがアンジェリカに問いかけると、彼女は気丈に返してきた。


「ええ、おかげさまで。飛び方まで紳士とは、さすがわたくしの見込んだ方ですわ」

『それはどうも、お嬢様』


 そんな軽口をたたきながら上昇を続ける。高度100,000フィートを超えた。緩やかに上昇率を下げながら、旋回を終えた。ウェイポイント『ピーチ』を通過。次のウェイポイント通過は帰るときの『オサケ』、『サザナミ』『エコー』だ。以降は指定されたウェイポイントではなく、フライトプランで指定した公海上のポイントを通っていく。次のウェイポイントは『アルファ1』だった。

 もう少し気の利いた名前にすればよかったかな、とユーリは思ったが、変な名前を付けてフライトプランの申請に落ちたら元も子もない。素直にアルファ1、2、3にしておいてよかっただろう。

 高度が110,000フィートを超えた。空気は地上のそれに比べてはるかに薄く、遷音速域でも抵抗は対流圏内のそれに比べてはるかに小さい。同じ上昇レートで上昇を続けつつ、緩やかに超音速の世界へ飛び込む準備に入る。飛行術式を再チェック。霊力の流れに異常はない。術式も正常に駆動している。霊力をパルス状にして小さく術式に流し込んで、正常にレスポンスする事を確認。異常なし。

 高度120,000フィートに到達。上昇を停止。水平飛行に移る。薄い空気での水平飛行は大気の濃い高度での飛行とはまた違う。翼に受ける稀薄な空気を、速度と空力でもって揚力の足しにしながら飛行を続ける。ユーリの視界の前方に広がるのは、ダークブルーの空と、白く濁った対流圏、そして地上のツートンのコントラスト。あと30,000フィートほど上昇すれば、そこがストラトポーズ。

 ふと、ユーリの心に謎の感覚が走る。このまま上昇を続ければ、ストラトポーズを超えられる。そんな、理由も、正体も不明の衝動。だがそれは確信となって心だけではなく、頭にしみわたっていく。なぜだろう? ふとユーリは自分の首のサドルに跨るアンジェリカを意識した。

 ――いけない。今日はアンジェリカと日食を見に行くんだ。それは()()()()にしよう。

 ユーリは逸れかけた思考を元の方向に修正しつつ、飛行に集中した。緩やかに弧を描く水平線の向こうに、三八万キロ離れた軌道をめぐる月が大地に落とした影が広がっている。そこを目指して、これから超音速で飛んでいくのだ。不思議な高揚感を彼は覚えつつも、冷静に超音速へ飛び込む準備を始める。


『ダークスカイ1からダークスカイ2へ。これよりハイパークルーズに移行する。準備は大丈夫?』

『ダークスカイ2からダークスカイ1へ。ハイパークルーズへの移行、了解しました。編隊飛行の間隔を開けます』


 ユーリの母親が無線で返答しつつ、編隊飛行の距離を離す。八〇〇メートルほどまで離れて、そこで八時の方位を保つ。


『ダークスカイ2からダークスカイ1へ。いつでもどうぞ』

『了解』


 ユーリは鞍上のアンジェリカに語り掛ける。


『アンジー。超音速へ加速するよ。準備は?』

「方位、速度、高度、チェック。速度計表示モードをノットからノット・マッハモードへ切り替え。オールグリーン。準備万端、ですわ!」


 元気よくアンジェリカが返してくる。ユーリには角度的に見えないだろうが、彼女は左腕を軽く上げ、左手の人差し指と中指だけを立てて銃のような形にしつつ、二回前後に振るう。アンジェリカは通信をユーリだけではなくダークスカイ2にも聞こえるように繋ぎつつ、はっきりと通る声で叫ぶ。


「加速コンタクト、オンマイマーク。3、2、1……ゴー、ユーリ!」


 その言葉を聞いた瞬間、ユーリは心の中で小さく笑う。霊力流入量を急激に増加させると、飛行術式が一瞬で応答する。高音の中に重低音を交えつつ、飛行術式の光の翼がまばゆいばかりに白く輝くと、ダイヤモンドコーンが数珠つなぎに伸びた噴射光が膨れあがった。ユーリの頭部の上に、淡く、青白く輝く、細いホロウ・ニンバスが浮かび上がる。

 弾かれるように速度が増加する。五〇〇ノットだった対気速度がみるみるうちに上昇していく。六〇〇ノットを超えた。音速に到達。マッハ1。ユーリの周囲に淡いベイパーコーンが現れ、点滅してすぐに消え、急にアンジェリカの周囲が静けさに包まれる。音の代わりに彼女の鼓膜を震えさせるのは、境界層を音速で流れる空気の振動のみ。速度がみるみる上昇していく。マッハ1.5、マッハ2。輝く二つの流星が、成層圏上部を超音速で駆け抜けていく。マッハ3に到達。


「ユーリ、まだまだ加速しますわよ。マッハ6まで加速」

『了解』


 フライトプランに関して、結局実家に持ち込んだあといくつかの修正を食らった。その一つが、当初は一八〇〇ノット――おおよそマッハ3で飛行する予定だったのだが、『スケジュールの都合』で、出発を遅らせる代わりに超音速巡航の速度はマッハ6にまで上がった。

 それは、マッハ6でも『行ける』と信頼されていた、と言うことでいいのかな。

 ユーリは音をはるか後ろに置き去りにしながら、両親を含めて行ったブリーフィングのことを思い出した。結局提案者の父親は、『それはお前の考えの通りだ』と、珍しくなにか含み気な笑みを浮かべていたので、おおむねその通りなのだろう。そんなことを思い出しているうちに、マッハ4を超えた。


「最高ですわ!」

『乗り心地はどうですか? お嬢様』

「ファーストクラスもかくや、ですわね!」


 興奮した様子で叫ぶアンジェリカの眼に映るのは、ダークブルーの空。横を向けば、下に広がる対流圏と地上が超音速で後ろに流れていく。高度120,000フィートの超高空でも、動きがわかるほどの高速。

 これがユーリの世界なのか。アンジェリカはそんな世界に自分が踏み入ったことに対して、不思議な高揚感を得ていた。彼だけが存在し、彼色でしかなかった世界に自分が入り込み、自分色で汚す、愉悦に似た感覚。それがたまらなく心地よく、彼女の口元に思わず満面の笑みがこぼれる。


『キャビアとスパークリングのサービスはないけど。快適な空の旅を、ってね』

「今日のディナーのチケットが付属しているのでしょう?」

『あれ、バレてた?』

「サプライズをしようと思うなら、もう少し綿密に行動を行うことですわね」

『『慎重』ではなく?』

「綿密な計画とそれに基づく行動はそのまま余裕と慎重につながりますわ」

『なるほど。じゃああえて聞こうかな? ビーフオアチキン?』

「ビーフでお願いしますわ」


 レア、ね。知ってるよ。と、ユーリは心の中で付け足す。仕込みを終えて冷蔵庫で熟成させている牛肉ブロックのことをユーリは思い出した。あれにフォアグラ――は金銭的に厳しいので、あん肝をポートワインでソテーして出すつもりだ。実のところ、アンジェリカもユーリもあん肝で作った『フォアグラもどき』の方が好きだった。新潟の漁港までユーリがひとっ飛びして買ってきたあん肝は、おそらく季節的には今季最後のものだろう。次は冬までお預けだ。そんなことをぼんやりと考えているうちに、マッハ5に到達。

 稀薄な大気が空力加熱で淡く輝き始める。白い帯の様なものがユーリの『機首』先端から髭の様に流れ、白く輝く翼の上を通って尾に沿って滑らかに流れて後ろに淡くたなびいた。

 マッハ6に到達。極超音速。


「マッハ6に到達。速度を維持。このまま日食影に飛び込みますわよ!」


 アンジェリカが言うのに、ユーリは小さく返した。

 成層圏の空を切り裂きながら、マッハ6で二匹の竜が飛ぶ。空が砕けたと錯覚するようなソニックブームを響かせながら、日食の影に向かって突き進んでいく。ダークブルーの空を、白く輝く流星が二つ、淡い航跡を残しながら飛びぬけていった。

 一時間半ほど飛行すると、ユーリの視界の前方やや左に、それは唐突に表れてきた。白く濁った水平線の一部が、そこだけまるでダークブルーが地上まで降りているかの様に、黒く影を描いている。日食影。とうとう目視距離まで近づいてきた。ウェイポイント『アルファ1』を通過。


『アンジー。これからウェイポイント『アルファ2』に向けて旋回する。同時に減速し、マッハ2で日食影と同期して進む。準備は良い?』

「準備完了ですわ! ダークスカイ1からダークスカイ2へ。これよりウェイポイント『アルファ2』へ向けて旋回を開始しますわ」

『ダークスカイ2からダークスカイ1へ。ウェイポイント『アルファ2』へ向けて旋回を了解。タイミングは合わせます』

「了解ダークスカイ2。スターボード、オンマイマーク。3、2、1……ナウ――っ!」


 アンジェリカの合図と同時にユーリがほぼ九〇度左にロール。そしてピッチアップを開始。極超音速での旋回と同時に、完成の法則に従って直進しようとするアンジェリカの身体に反して進路ベクトルをゆがめたゆえの強烈なGが、アンジェリカにかかる。2、3、4。上がっていくGメーターを睨みながら、アンジェリカは腹部と下半身に力を込めて息を無理矢理つづける。吸血鬼とはいえ、普段ここまでのGをかけることがないといざと言うときにG―ロックを起こしそうになる。ブラックアウトしかける視界を無理矢理保ちつつ、荒く息を彼女は吐きつづけた。


『大丈夫?』


 旋回中にも関わらずユーリが平気な声で尋ねてくる。思わず『これが大丈夫そうに見えて?』と返しそうになったが、これはこちらが失神してないことを確認するための問いかけだ、とすぐに理性が考えに至り、彼女はやるべきことを行う。


「だい、じょうぶ、ですわっ!」


 無理やり声を上げた。半ば意地で声をはりあげた。


『あとちょっとだよ、頑張って』

「そのつもり、ですわっ!」


 旋回で速度が落ちているせいか、だんだん身体にかかるGが弱くなっているのを感じつつも、アンジェリカは油断せず耐Gを続ける。

 旋回は急に終わった。ふっと身体にかかるGがなくなり、九〇度右にロールして水平姿勢に。速度はマッハ3。

『旋回終了。このまま日食影に飛び込んで、ウェイポイント『アルファ2』通過後、マッハ2まで減速――アンジー、大丈夫?』

「今度から耐G訓練もしたいですわ……」


 ふとアンジェリカはユーリの母親の方を見やる。八〇〇メートル離れているが、吸血鬼の視力なら問題なく見ることができた。鞍の所に黒い、ひし形の葉の様なものが鞍を包むようにいくつか浮かんでいた。それが消えると、元気そうな様子のアリアンナとアリシア、そしてユーリの父親の姿があった。ユーリの父親が、こちらの様子を見て手を軽く振ってくる。

 どうやら、ユーリの父親が魔術で慣性制御をしていたようだ。若干うらやましい面もあったが、ユーリに乗ると決めたのは自分だ。文句は言うまい。アンジェリカは肩で息をしながら、徐々に息を整えていった。生命維持の術式の霊力流量が大きくなっていたが、すぐに減って通常に戻る。

 ユーリは次のウェイポイントである『アルファ2』に向かって飛行する。ウェイポイント『アルファ2』は、移動する日食の影の未来位置にあるポイントだ。ユーリ達はそこに日食の影の移動方向と斜めに交わるように飛行し、『アルファ2』で合流後、日食の影と同期して飛行するというわけだ。日食の影は今二時半の方向に広がっていた。あれがどんどんこちらに近づいてくる、と言うわけですのね、とアンジェリカはぼんやりと思う。

 マッハ3で飛行すると、直径四〇〇キロほどの日食の影は一〇分ほどで飛びぬけてしまう。相対速度はマッハ2ほど。ぐんぐんと水平線に見えていたはずの日食の影が迫ってくる。

 ふと、アンジェリカは周囲が薄暗いのに気づく。空を見上げ、そして目を見開いた。太陽が欠けている。どうやらとっくに半影の中には入っていたようだ。影が近づくにつれ、太陽がどんどん欠けて小さくなっていく。

 周囲はどんどん暗くなっていった。ダークブルーの世界で光源となるのは太陽と、明るく輝く地上だけだったのが、そのどちらもが暗くなっていく。ユーリが術式で光らせていた翼端の航空灯が、暗くなっていく空に反比例してどんどん明るさを増していった。


『ウェイポイント『アルファ2』を通過。マッハ2まで減速』

「了解ですわ。マッハ2まで減速し、ウェイポイント『アルファ3』を目指してくださいまし」


 小さく、前に押されるような感触。同時に極超音速巡航中にはまばゆいばかりに輝いていた飛行術式の霊力の噴射光が収まってくる。ユーリは左にロール。緩やかに旋回を開始する。心地よい、軽いGがアンジェリカをサドルユニットに押し付けた。

 旋回が終わる。ウェイポイント『アルファ3』を通過。


「ウェイポイント『アルファ3』を通過しましたわ。以降は日食の影と同期しつつ、ウェイポイント『アルファ4』を目指してくださいまし」

『了解。『アルファ4』へ向けて進路を維持』


 アンジェリカは境界層で仕切られた空気の層の外に触れないように気を付けながら、そっと上半身を起こす。ユーリがそれに合わせて狭く、鋭い形に術式で成形していた境界層をゆっくり膨らませていく。するとユーリの首の後ろ、丁度アンジェリカのいる位置に戦闘機のコクピットキャノピーの様な形の、ふくらんだ風の流れが出来上がる。その中はほぼ無風だった。

 アンジェリカが空を見上げると、そこに浮かぶのは暗くなった太陽。周囲だけが病的に白く浮かび上がるように輝いて、火炎の様な模様を描きながら黒い空に広がる。ふと周囲を見渡せば、水平線は三六〇度、ぐるっと周囲を囲むように白く輝いていた。まるで巨大な光のリングの中央にいるような景色。あまりにも神秘的な光景に、アンジェリカは思わず声を忘れた。


『見て』


 ユーリが小さくつぶやいてくる。どちら? と聞くと、右下のほう、とだけ答えが返ってきた。恐る恐るそちらを見下ろすと、視界の下に小さな輝きが見えた。赤、緑、そして点滅する白い光が寄り集まっているようにも見える。別の旅客機だ。

 旅客機の光は右下前方に輝いて見えたが、徐々に手前に動いてくると、流されるようにして後ろに消えていった。相対速度から見て、おそらく対流圏界面ギリギリを遷音速で飛んでいた旅客機を追い抜かすような形で飛び越したのだろう。地上から見上げるそれよりもはるかに小さな輝きは、後ろに流れていった後に少しの間は見えていたが、やがて輝く水平線に溶け込むようにして、消えた。


『……来て、良かった?』


 そうやってしばらく景色に見とれていると、ユーリが小さくつぶやいた。


「何がですの?」

『いや、大変だっただろうに。免許更新も、フライトプランの作成も、トレーニングも』


 アンジェリカが黙っていると、ユーリは黙々と続ける。


『それだけの労力を支払って、それに見合うだけの景色が見れたのかな、って「――ユーリ」』


 ユーリの言葉を遮るようにアンジェリカが言う。彼女は電子航空免許端末をそっと操作し、回線をプライベートに。空を見上げたまま言葉を紡ぐ。


「初めて、わたくしとユーリが出会った時のこと、覚えていますの?」

『……昨日の、事の様に』

「お父様とお義父様、あとお義母様の親戚、それらに連れられて初めてあなたに会った時、こう思いましたの。『なんて弱っちそうな男の子なのかしら』、って」


 ユーリは沈黙を続ける。だけれども、とアンジェリカは続けた。その口は優しげにほほ笑んでいた。


「そうこうしているうちに、あっという間に年月が経って、ある時、貴方が空を飛ぶって言うから一目見てやろうかしら、と思いましたの。どんな情けない飛び方をするのやら、って」

『……』


「そうして来てみたらびっくり。まるで空全部が貴方に味方しているみたいに、いろんな飛び方をしてる貴方がそこにいて、あっけにとられているうちに空から降りてきたあなたの、とても楽しそうな表情に、思わず――」


 アンジェリカは、視線を下ろして竜となったユーリの頭を見やる。そっと、首筋を撫でた。


「――惚れる、とはああいう感情のことを言うのでしょうね」

『それは――』

「ええ。最初はこう思いましたわ。『なんでこんな軟弱男を好きになるなんて』って。ですけれども」


 彼女はどこか懐かしそうな表情を浮かべて言葉を続ける。


「覚えています? わたくしとユーリが参加したパーティーでのできごと」

『……うん』

「突然立食会場に現れた、大きなドブネズミ。会場は大パニック。何とか収まるころには、空気は台無し。そんな中わたくしが犯人として疑われた。あの頃は、貴方にいろいろ悪戯を仕掛けてその……いじめていましたし」


 ユーリが苦笑いを浮かべる。アンジェリカはどこか恥ずかしそうにしつつも、言葉をつづけた。


「タイミングとめぐりあわせが悪かったこともあって、わたくしが犯人、のような空気になっていた。わたくしは違うって言っていたのに、誰も信じてくれなかった。けれど」


 彼女の声は、どこか震えているようだった。しかし、それでも彼女は言葉をつづけた。


「ユーリ、貴方だけは、最後までわたくしの味方でいてくれた。疑いが晴れるまで、ずっと私を支えてくれた。一方的に感情をぶつけていただけの、幼稚で高慢なわたくしに」アンジェリカはどこか縋り付くような、泣きそうな顔でユーリに問いかける。「ねぇ、どうしてあの時、わたくしに味方してくれたの?」


 ユーリの答えは決まっていた。


『アンジーはそんなことしないって、わかってたからかな』

「――っ!」


 アンジェリカが息をのむのを、構わずにユーリは続けた。


『アンジーはずっと僕を見てた。僕に対して、自分の真っすぐな意思のまま、まっすぐに言葉をぶつけてきていた。嫌がらせをしたりとか、陰でいろいろやったりとか、そういう子じゃなかった。『私はこういうヒト』って言うのを、僕に懸命に伝えようとして来てくれた』


 どこか懐かしそうに、大切な思い出を語るかのようにユーリは言う。竜の口元が、小さく微笑んでいた。


『だからあれは違うと思ったんだ。ああやって、大勢の人にただ迷惑をかけるような子じゃないって。それにアンジーは何だかんだいい人だ。人が悲しむようなのを、好き好んでやるような人じゃない』


 だから。そうユーリは小さく区切って。


『僕は、アンジェリカが好きになったんだ』


 そう恥ずかしげもなく言ってくるユーリに対して、アンジェリカは頬に紅を浮かべながら答える。


「ええ。だからわたくしもユーリを好きになったのですわ」アンジェリカはほほ笑みながら言う。「あなたに、わたくしの翼になって欲しいと。一緒に未来に飛んでいきたいと。ずっと一緒にいたいと」


 漆黒の空。漆黒の大地。水平線だけが白く輝き、頭上には月に食まれた太陽が暗く輝く成層圏の中で、音を置き去りにする速度の静寂の中、一人の竜と一人の吸血鬼が想いを交わし合う。


『ねぇ、日食、見に来てよかった?』


 ユーリが問いかける。


「えぇ、とっても。だって――こんなに素晴らしいんですもの」


 アンジェリカの答え。

 お互い、それで十分だった。




『松本タワーからEI72Aへ。ランウェイ18Lへの進入を継続してください』

「松本タワーへ。こちらEI72A。ランウェイ18Lへの進入継続、了解しました」


 アンジェリカが松本タワーと交信しつつ、着陸の準備を進める。アプローチチェックリストを端末に表示。


「ユーリ、アプローチチェックリスト。ローカライザー」

『オン』

「飛行術式」

『クリア』

「対気速度」

『二〇〇ノット』

「ランディングライト」

『オフ』


 チェックリストを進めながら、ユーリは着陸地点である新松本空港の18L滑走路を視界に納め続ける。すでにILSの放つ電波をサドルユニットの機関部は補足しており、ユーリの視界のディスプレイにはILSの電波情報から計算した進入回廊が立体的に表示されていた。


『松本タワーからEI72Aへ。ランウェイ18Lへの着陸を許可します。風は40度から5ノット』

「EI72A。ランウェイ18Lへの着陸許可、了解です。ユーリ、対気速度」

『一五〇ノット。減速中』

「グリップ準備」

『レディ』

「着陸速度」

『二〇ノット』


 ユーリは境界層を操作し、速度と高度を同時に殺していく。翼はその速度の限界ぎりぎりの揚力を生みだし、恐るべき低速でも彼の身体を空につなぎ止め続ける。はじめ遠くに小さく見えていた滑走路が目の前に迫ってくる。彼はILSの回廊のど真ん中を滑るように地上に向けて降下していく。PAPIが視界に入った。白が二つに赤が二つ。進入高度は適正。


「ユーリ、残り300フィート」

『了解、降下率はこのまま』


 滑走路が近づいてくる。もう滑走路に刻まれた爪痕の様なゴムタイヤの焦げ跡がはっきり見えるほどの距離だ。タイヤでこすられ、ジェットエンジンにあぶられ続けた黒いアスファルトの長さ三〇〇〇メートルの細長い長方形に、ユーリは不思議な安心感を覚えた。残り200フィート。

 速度を一〇〇ノット以下に落とす。翼を大きく広げつつ、気流を受け止めて揚力を生みだし続ける。残り100フィート。機首上げ(フレア)。後ろ脚を伸ばして前に伸ばしつつ、地面を掴むその時に備える。


「50、40、30、20、10」


 アンジェリカが高度を読み上げるのに合わせて、大きく迎え角を大きくしていく。すでに失速ギリギリだ。対気速度五〇ノット。翼を大きく広げると、ベイパークラウドが翼の上面にあふれて速度が一気に落ちていく。対気速度二〇ノット。

 後ろ脚が滑走路に触れた。膝を曲げて衝撃を和らげつつ、滑走路面を蹴って二〇ノットを保ち続ける。前脚がゆっくり滑走路に触れ、緩やかに速度を落としていく。着陸。


「ナイスランド、ですわ!」


 アンジェリカの声に、ユーリは小さく唸って返した。

 松本グラウンドの指示に従いながら滑走路から誘導路に出、エプロンへとタキシングしていく。出発した『01』の黄色い円の中へ、数時間ぶりに戻ってくる。


「シャットダウンチェックリスト。グリップ」

『セット』


 ユーリの足が路面をしっかりと踏みしめた。


「スロットル」

『アイドル』

「生命維持術式、シャットダウン。航空灯」

『オフ』

「フライトディレクター、オフ」


 アンジェリカがユーリのサドルユニットの端末を操作すると、ユーリの視界から表示が消えた。


「アビオニクス表示」

『オフ、確認』

「術式霊力流量」

『オフ』


 ユーリが飛行術式への霊力をカットすると、術式の光はしぼむように静かになっていく高音と共に薄れていき、やがて消える。そこにあったのは鱗と翼膜に覆われた、竜の翼だけだった。

 アンジェリカがユーリのサドルユニットから降りる。数時間ぶりに踏みしめた大地。どこかふわふわと、揺れているようにも感じた。よろけながら円の外に出ると、ユーリの母親が隣の『02』の円に入るところだった。円の外に出たところで、アンジェリカは拳を掲げて2回頭の上でぐるぐると回した。

 銀色の竜が光に包まれる。光の中に埋まった何か吸い込まれるようにそのシルエットを小さくしていくと、人の形をとっていく。光が収まると、そこには竜人の姿をしたユーリがいた。ユーリは小さく息を吸うと、空を見上げる。そこにあるのは、日の傾きかけた、どこか赤の混じったスカイブルー。


「お疲れ様、ですわ」


 円の中にアンジェリカが入ってきてユーリの隣に歩いてくる。ユーリはそちらを向くと、アンジェリカは嬉しそうな表情を浮かべる。


「ふふ。ユーリ、あの時みたいな笑顔」


 そうか、楽しかったのか。僕は。

 自分が浮かべている笑みに気付くと、ユーリはふとアンジェリカの手を取ろうとして、するりとアンジェリカに腕をからめとられた。一瞬のことに驚くと、彼女はユーリの背中に手を回して、ユーリに正面から抱き着いてくる。ヒールを履いている彼女は、ユーリとほぼ同じで、顔が目の前に来る。アンジェリカはじっと彼の顔を見つめていると、ユーリは自分の顔がだんだん熱くなってくるのを感じた。


「あ、アンジー。どうしたの?」


 そらしそうになる金色の竜の瞳を、アンジェリカの赤い吸血鬼の瞳に合わせて、顔の熱さに耐えながらユーリは言葉をひねり出す。

 するとアンジェリカは、しばらくそうしていた後、小さく、そしてどこか悪戯そうに笑って、言った。


「やっぱり」アンジェリカがユーリの背中の、翼に触れていた手をごく自然にユーリの後頭部に、撫でるように動かしながら言った。「竜の姿もいいですけれど、こっちの顔も十分男前ですわ」


 ユーリが何か言おうとした次の瞬間、アンジェリカの唇が彼の口を塞いだ。押し付けるように、求めるような、温かいキス。数秒だろうか、唇がどこか名残惜しそうに離れると、アンジェリカは悪戯が成功した子供の様に、嬉しそうに笑う。


「ディナー、楽しみにしてますわ」


 するりとユーリから離れると、アンジェリカは小さく手を振って真っすぐとした背筋でハンガーの方へ歩いて行った。その場にはユーリだけが取り残される。

 アンジェリカの温度を確かめるように、ユーリは自分の唇にそっと触れる。鱗に覆われた竜の手に伝わってくるのは、柔らかい自分の唇の熱だけ。それが自分の熱なのか、彼女の熱なのかは、混ざってしまってもうわからない。

 でもまあ、とユーリは再び空を見上げる。

 悪くない、気分であった。

 夕暮れに差し掛かった青空の下、風が静かに吹き抜けていった。


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