23/Sub:"モーニング"
ゆっくりと、眠りから浮上する。
仰向けに寝ていたユーリが静かに目を開けると、ベッドの天蓋の木目が目に入る。薄暗い部屋の中、木目がうっすらと茶色の天蓋に黒く走っている。
柔らかく温かい感触を右に感じた。ふとそちらの方を見ると、アンジェリカがこちらを向いて小さく寝息を立てていた。いい夢でも見ているのか、時折口元が緩んでいた。
ユーリは再び天蓋を見やる。一面の木目。電子ペーパーの壁紙でも貼ってもいいかもしれない。個人的には空でも映してみたいな、とぼんやりと寝起きの頭で思う。左側に頭を向けると、カーテンの閉まった窓。隙間からかろうじて見える空は、まだ濃い青色。この季節のこの空の色だと、きっとまだ五時頃だろう。光が部屋に差し込んでいないのを見るに、どうやら日はまだ昇っていないらしい。
彼は身を起こそうとして、今日が何の日だったのか思い出し、やめた。起き上がろうと一瞬力を入れた身体から力を再び抜き、ゆっくりとベッドに身体を沈み込ませた。ふわりと薔薇の香り。アンジェリカの香りが鼻腔をくすぐって、少し顔が熱くなる感覚。仰向けから右の横向きに姿勢を変えて、そっと身体をアンジェリカに寄せる。目の前に彼女の顔がいっぱいに広がって、それだけで心地よい感覚が身体に満ちていく。
今日は技能審査の日だ。
ゆっくり目を閉じて、微睡に身体をゆだねる。ぬくもりと、香りと、感触が彼をゆっくりと再び眠りの世界へと導いていった。
浅い眠りだからだろうか。外の世界の様子は何となくわかった。かすかに目の前のアンジェリカが動く気配。つられてユーリも再び浅い眠りから浮上する。
ゆっくり目を開けると、まどろんでいるうちに随分時間が経っていたのか、部屋の中にはカーテンの隙間から朝日の光が差し込んでいた。目の前いっぱいに広がっていたアンジェリカの顔。その瞳がゆっくりと開いていく。
「……おはよう、ユーリ」
「うん、おはよう。アンジー」
お互いの息がかかるほど近づけた顔で、囁くような朝の挨拶をする。
「おきて、ましたの?」
アンジェリカが小さくつぶやく。まだ彼女の声はどこかふわふわしていて、眠そうだった。
「いや。さっき目が覚めたよ」
「ふふ、昨日寝た時は仰向けだったのに」
甘えん坊なんですから。そう言ってアンジェリカはユーリの腰に手を回し、そっと身体を引き寄せてきた。なされるがままにユーリは彼女に身体をさらに寄せた。
「あったかいですわ」
「アンジーこそ。あったかいよ」
吸血鬼に冷気を操るドラゴン。二人が身を寄せ合う。微睡から浮き上がったばかりの緩やかな意識のまま、お互いに熱を交換し合った。
「アンジー、今日が本番だね」
ユーリが小さくつぶやくと、アンジェリカはどこか不敵そうに、小さく微笑む。
「万全ですわ。きっと、無事に通過しますわ」
「いっぱい勉強してたもんね」
「優秀な先生も、いましたから」
小さく、くすくすと笑うアンジェリカ。ユーリもつられて小さく笑った。
彼がのそりとベッドから起き上がると、アンジェリカも一緒にベッドから起き上がる。軽い掛布団をどけて部屋の空気に身をさらすと、まだ少し冷たい空気が肌を撫でる。アンジェリカは枕元に置いていた端末に手を伸ばすと、目覚ましアラームを切った。残り二〇分。時間の余裕はまだある。
「ふわあ――アンジー、シャワー先どうぞ」
「ええ、お先に失礼しますわ」
アンジェリカはベッドから降りると、洗面所に歩いていく。洗面所に入ると、ベビードールと下着を脱いで洗濯籠の中に入れていく。滑らかな布地が玉のような肌の上を滑る。一糸纏わぬ姿になった彼女は、シャワールームに入ろうとして、ふと止まった。
「ねぇ、ユーリ」
「なぁに、アンジー」
洗面所から顔だけ出して部屋の中のユーリに向かって声をかける。ユーリはベッドの上で上体だけ起こしたままぼんやりとしていた。意外と低血圧なのだろうか。それとも日ごろから吸い過ぎた結果なのか。
「今日は朝ごはん、いりませんわ」
「え? でも午前中試験でつらくない?」
彼が困惑したように言うとアンジェリカは、いえ、と続ける。
「せっかくみんなでお出かけなんですもの。たまには朝ごはんくらい外で食べましょう?」
「外?」
ユーリから帰ってきたのは困惑した言葉。
「え? だって、飛んでいくのかと、てっきり」
「松本まで飛んで行ったら試験の時にくたくたになってしまいますわ……」
小さくため息をついたアンジェリカに、ユーリはあ、そっかぁと呑気な返事を返した。
「だからユーリ。朝食の支度はいりませんわ。出かける準備をしておいてくださいまし。あとお姉さまとアンナを起こしてきてくださいませ」
「うん、わかったよ」
のそりとベッドから降りるユーリを見ると、アンジェリカはよろしくおねがいしますわ、とだけ声をかけて首を引っ込め、洗面所のドアを閉じた。
アンジェリカは透明なガラス張りのシャワールームに入る。シャワーヘッドを取って、湯の蛇口を回す。冷たい水が足にかかった。目が一瞬で覚める。しばらく冷たさに耐えていると、冷たかった水がじんわりと温かくなっていき、やがて湯気が立ち上り始める。彼女はシャワーヘッドを元のフックに戻すと、湯を頭から浴びた。文字通り、温かい雨の様なシャワーの中、彼女はたたずむ。
「……しっかりしなさい、アンジェリカ。どう転んでも、今日が勝負所ですわ」
自分に言い聞かせるように、小さく口から漏らしたその言葉は、シャワーの音に紛れてかき消される。
寝汗を流して、いつもの薔薇の香りのするシャンプーを使った。ふわりと踊る香り。張り詰めていた気持ちが落ち着いてくる。温かい湯の流れの中、アンジェリカは深く息をついた。
シャワーの蛇口をひねり、止める。全身から湯気の立ち上る身体を柔らかいタオルで拭く。濡れた髪の水気を拭きとりながら、彼女はシャワールームから出た。
「ユーリ、シャワー空きましたわ」
「……わかった、パッと入ってくるよ」
ユーリがアンジェリカから目をそらしながら言った。彼はアンジェリカとすれ違うと、入れ替わるように洗面所に入っていく。
アンジェリカは髪を拭いていたタオルを椅子の背もたれにかけると、タンスから自分の下着と服を取り出す。赤い上下の勝負下着に、刺繍の入った、黒い長手袋と高デニールの黒いストッキング。白いシャツに、赤いグラデーションの入った黒いデニムのジーンズを選んだ。その上から、ベージュ色のジャケットを羽織って、ベレー帽をかぶる。履くのは長距離を歩けるようにブーツかスニーカーにしよう。
ボストンバックをクローゼットから取り出して、フライトスーツを詰め込む。メッセンジャーバックに財布や携帯端末、学生証、筆記用具、電子航空免許端末などを入れていたところで、ふと手が止まり、しばし考えた後に参考書をいくつか、ボストンバックに放り込んだ。ボストンバックには容積がまだある。ユーリのフライトスーツを入れるスペースもあるだろう。
「おまたせ」
アンジェリカがいろいろと出かける準備をしているうちにユーリがシャワーから出てくる。入った時と同じように、寝間着である作務衣を着て髪を拭いて出てきた。
「ユーリ、わたくしの支度は終わりましたわ。貴方も出る支度をしてくださいまし」
「うん、わかった」
ユーリも同じように椅子にバスタオルをかけると、タンスから自分の服を取り出す。黒いスラックスに、薄緑色のポロシャツ。ユーリの方を見ているアンジェリカを彼は一瞬見やると、どこか諦めたように作務衣を脱いで服を着る。
ユーリは自分のフライトスーツを取り出してベッドの上に置く。アンジェリカの物に比べ、重く、がっしりとした灰色のフライトスーツは、妙な重量感を放っていた。
「ユーリ、フライトスーツ、一緒の鞄に入れましょう」
「あぁ、うん。わかった」
ユーリは言われるままにフライトスーツを軽く丸めるように畳むと、ボストンバックの一番上に入れた。まだ余裕のあるそれを、ジッパーで閉める。彼は自分のリュックに電子航空免許端末と学生証に財布、携帯端末に筆記用具のみを入れて蓋を閉めた。
「お待たせ」
「良くってよ。さすが、てきぱきと準備しますのね」
「慣れてるからね。アンナとアリシア姉さんは玄関で待ってるって」
「わかりましたわ。早く行きましょう」
アンジェリカはタンスの上の小物入れに入った鍵を取り出してポケットに入れると、ユーリと一緒に腕時計を巻きながら部屋を出た。
階段を降りて玄関まで行くと、そこには赤いワンピースにカーディガンを羽織ったアリシアと、長袖のワイシャツにスラックス、ブーツを履いて愛用のつば広の黒い帽子をかぶったアリアンナが待っていた。
「お待たせ」
「待ってないわよ、私たちも今来たところだし」
アリシアがどこか眠そうに言う。アンジェリカとユーリは、それぞれの靴を履く。
ユーリがドアを開けると、朝日が屋敷の玄関ホールの中に差し込んでくる。まぶしさに一瞬目を細めるが、目が慣れてくると、青空が視界に飛び込んできた。飛行日和だ。屋敷を出て、最後に出たアンジェリカがドアの鍵を閉める。
「では、行きますわよ!」
元気よく言うアンジェリカに皆が小さく頷く。
屋敷から出て四人で早朝の静かな住宅街を歩いていく。時折聞こえる鳥の鳴き声が聞こえる以外は、風がセコイアの木の葉を揺らす音しか無い静寂の中、四人分の足音だけが響く。バス停までは歩いて一〇分もかからない。住宅街のはずれの、屋根付きのバス停に来ると
、四人はバス停の前に並ぶ。汚れたプラスチックのトタンの屋根。白いペンキが剥げて錆びた足に、劣化してひび割れた青いプラスチック板でできたベンチが並ぶバス停。直さないのだろうか、とユーリは何となく思う。
「あと三分ほどですわね」
「わぁ。ギリギリだったね。その次は?」
「朝の通勤時間帯ですから、それでも一〇分後ですわ」
アンジェリカが腕時計を見ながら言うと、アリアンナが小さく肩をすくめながら言った。アンジェリカの言った通り、バス停で待ちぼうけを食らうことはなさそうだった。すぐにバスが来て、全員で乗り込む。整理券を取って、一番後ろの席に四人で並んで座った。水素エンジンのバスが、小さな高音と共に滑らかに加速していく。
駅までは二〇分ほどでたどり着いた。駅のロータリーを降りると、土日のせいか、人はいるもののどこかまばらだった。四人は駅舎の中に入ると階段を登って二階に上がる。広々とした改札広場は、外よりは若干混みあっていた。
「そういえば朝ごはん、どうするの?」
ユーリがアンジェリカに尋ねると、アンジェリカが胸を張って答える。
「もちろん、立ち食いそばですわ!」
ひょっとして立ち食い蕎麦食べたかっただけじゃないのかな。ユーリはふと思ったが、悪くないと思ったのでそれ以上は考えないことにした。券売機で松本行きの特急券の切符を買うと、自動改札を通って階段を降り、駅のホームへ。影になっている駅のホームの真ん中に、看板が白く光る『立ち食い蕎麦』の看板。四人はそこへ吸い寄せられるようにして向かう。券売機の前に四人で並ぶと、店の反対側で立ち食いそばを食べていたサラリーマンがギョッとした表情でユーリ達を見る。立ち食い蕎麦の券売機の前に集まる、銀髪の少年に金髪の姉妹と思われる三人は、立ち食い蕎麦屋というものそのものに、何となくミスマッチであった。アンジェリカが千円札を一枚渡してくる。そこにユーリがもう一枚加え、券売機に千円札を二枚飲み込ませる。券売機のチケットのランプがすべて光った。
「何にする?」
「わたくしは天ぷら蕎麦ですわ!」
「私は月見」
「ボクは鴨蕎麦で」
言われたものを押していくと、そのたびに食券が吐き出される。最後に『山菜そば』を押して、ユーリはお釣りを受け取った。
四人がカウンターに並ぶと、店の中では店員がゆで上がった蕎麦と温かいつゆの入った器を四つ、用意し終わったところだった。ユーリが食券をカウンターに置くと、それを横目で見た店員が小さく返事をしててきぱきとトッピングを蕎麦の入った器に乗せていく。
「山菜、月見、天ぷら、鴨、お待ち」
カウンターに並べられていく蕎麦。それを四人はそれぞれ取り、一段下がった手元に置く。割り箸を取ると、全員が割り箸を割る音が重なった。
「「「「いただきます」」」」
四人で声をそろえて言う。自然にそうなった。
一心不乱にそばを啜る。コシが利いた蕎麦が、温かいだし汁と一緒に胃に流れ落ちてくる。四人はそれぞれの具と一緒にそばを流し込んでいく。ユーリはいったん食べるのをやめると、軽く七味を振りかけて、再び啜り出した。その後次々に三姉妹も七味をかけていく。
無言の食事が終わると、あっという間に器に残っているのは温かいそばつゆが器の底の方に溜まっているだけになった。ほぼ同時に食べ終わった四人が、ほぼ同時にカウンターの段の上に食べ終わった蕎麦の器を置く。
「「「「ごちそうさまでした」」」」
そう言って、四人は立ち食いそば屋を離れた。蕎麦屋についてから五分ほどしか経っていない。特急までは時間があった。近くの自販機に行ってお茶を買うと、四人はベンチに並んで腰かける。
しばらくの沈黙。
「……無言になっちゃうわよね、立ち食い蕎麦って」
アリシアがぼそりと言う。他の三人は、黙って頷いた。




