22/Sub:"パイロット"
「えーと、『飛行種族の飛行において電子航空免許は必須であり、電子航空免許のトランスポンダに従って飛行している限り自由なフライトが認められている』」
「答えはバツですわ。正しくは『フライトレベル一〇〇以下であり、制限空域及び飛行管制空域以外における自由なフライトが認められている』ですわ」
「正解。じゃあそれ以外では?」
「えーと、『飛行管制空域を通過する場合は、離陸から着陸までの間のフライトプランを提出すること。フライトレベル一〇〇以上の飛行においては電子航空免許のTCASの指示に従うこと。基本的に飛行種族より飛行機及び回転翼機の方が優先される』ですわ!」
「うん、正解」
夜、お互い寝間着に着替えたユーリとアンジェリカが数日後に控えた免許更新技能検査に向けて窓際のテーブルの脇の椅子に腰かけながら、座学の勉強をしていた。ユーリがまとめた飛行種族の法的規制に関する問題を言って、向かい側でアンジェリカがそれに関して答える。マルバツで答える問題に、次々とアンジェリカが答える。
「うん、これなら座学は大丈夫そうだね」
「意外と忘れてることも多くて大変でしたわ……」
いつものベビードールの上に薄手の白いローブを羽織ったアンジェリカが、右肩に左手を置いて右手を軽く回す。コキリと小さく音が鳴った。
「実技も仕上がってきたし、これなら技能検査は普通に通りそうだね」
「ええ。誰かさんにみっちり仕込まれたおかげ、でね」
そう言って、どこか面白そうな表情でユーリを軽く睨むアンジェリカに、ユーリは苦笑いで返す。
「そういえば」
アンジェリカの声色が変わる。ユーリは彼女の瞳を見る。赤い瞳は、室内の黄色がかった白い発光ダイオード灯の光と、窓から差し込むどこか青みがかった白い月光に照らされて煌々と紅く輝いていた。
「首尾はどうでしたの、ユーリ?」
ユーリはアンジェリカにそのことを唐突に聞かれた。
さて、どう答えるべきか。
ユーリがしばし考え込んでいると、その様子を察したアンジェリカが小さくため息をついた。
「まぁ、そういう風になるんじゃないか、って予想はしていましたが」
「大体わかる?」
「ええ、貴方の表情を見てれば、すぐに」
彼女はすべてわかっているようだった。そうか、とだけユーリはいってことのあらましをアンジェリカに話始める。彼女は勉強する手を止め、ユーリの報告に耳を傾ける。
話を一通り聞き終えた後、彼女は深いため息をついた。
「やっぱり」アンジェリカは少し落ち込んだような雰囲気で言う。「わたくしはわたくしのことを、過剰評価していたのかもしれませんわ」
自惚れ、ですわね。と彼女はこぼす。普段自信満々な彼女には珍しい態度に、ユーリの心が揺らぐ。
「さすがに言いすぎだよ。アンジーの立てたプランに間違いはなかった。それも母さんは認めていたよ」
「いいえ、問題はそこではないですわ」
アンジェリカはテーブルの上に、向かい側のユーリとの間に積まれた教科書を見やる。
「十分勉強したつもりでした。あなたと飛んだつもりでした。それなのに」
そこまで言って、アンジェリカは少し言葉に詰まって、だけど覚悟を決めたようにして、言う。
「空の怖さを、知ったつもりでいた」
「それは……」
「普段わたくしたちが飛んでいる空とは違う、今回飛ぶのは高度一〇万フィートの空。そこは気温も、気圧も、地上のそれとは違う。空からの放射線だってある。そこを極超音速で飛ぶ。あなたが境界層で守ってくれているその数ミリ外側は、完全な死の世界だというのに。それを理解できていなかった」
そう寂しそうに、どこか悔いるように言うアンジェリカを見て、ユーリの心臓の鼓動が増す。本能が叫ぶ。「この赤色を濁らせるな」。
だからこそ、その先の言葉はユーリの脳ではなく、心が自然と発していた。
「アンジー、サドルユニットの件があるんだ」
「?」
ユーリは、父親に言われたことを反芻して伝える。その先の、一番大事なことが今か今かと飛び出そうになるのを抑えながら。
「サドルユニットは、三人で使用できるのがなかった」
「そんな……」
さぁ、とアンジェリカの顔が曇る。それを見てユーリは、すぐに『だけど』と続けた。
「あるんだよ。一人用のサドルユニットが、一基だけ」
「ですがそれでは全員で行けませんわ。わたくしたち全員で行かないと、この計画は意味がないのに」
「いいや、全員で行けるよ」
ユーリがそう言うと、アンジェリカはきょとんとした顔を浮かべる。さすがに言葉足らずだったか、とユーリは自省した。
「どういうことですの、一人しか乗れないんじゃ――」
「乗れるよ。言ったでしょ、僕らだけで行くことは駄目だったから、母さんと父さんがついてくるって。だから母さんの『コルディス』と僕につけるフライトユニットで、合わせて四人だ」
「……お義母様に三人、貴方に一人。そういうことですの」
「そういうこと。だから」
ユーリは、ピシッと背筋を正した。真っすぐアンジェリカを見つめると、彼女は急に姿勢を正したユーリにただならぬものを感じたのか、同じように背筋が伸びる。
「今回のフライトは完全に洋上飛行だ。管制下での飛行や航法ナビゲーション、フライトマネジメントが必要になってくる」
「あなたはお義母様についていくのでは?」
「いいや、違う」
ユーリはアンジェリカの問いに対して少し強い口調で言った。
「違うよ。一番機は、僕だ」
ハッとした表情をアンジェリカが浮かべた。その顔を見てユーリは自分のたくらみが若干上手く行ったことに若干喜びつつも、その先の言葉を続ける。
「だから、僕に乗るのは僕の飛び方を知っていて、今回のフライトプランを熟知していて、僕を正確にナビゲートできる人物じゃないといけない」
一つ一つ、しっかりと言葉を発音しつつ、だけど彼女に口を挟ませないように彼は言葉を紡ぐ。
「だから、アンジェリカ」
――。
「僕の、パイロットになってください」
そう言うと、アンジェリカの頬にさあっと朱が差す。それからしばしうつむいて、唐突に立ち上がった。うつむいたままの彼女がつかつかとユーリに近寄ってくる。
「アンジー――うわっ!」
彼女は急にユーリの腕をつかんで椅子から引きずり下ろした。そのあとアンジェリカはユーリを半分力任せにベッドに放り投げる。スプリングがきしんだ。
痛みはない。柔らかいベッドは衝撃を吸収しきって、柔らかくユーリを受け止めた。だが目の前で、月光差し込む窓をバックにユーリを見下ろすアンジェリカの瞳は、文字通り紅く煌々と光っていた。
ユーリがその様子に思わずぎょっとした直後、アンジェリカは着ているローブを脱ぎ捨てると、ユーリに覆いかぶさるようして倒れ込んできた。
まずい、酔ってる?
そう思って思わず首筋をそらそうとした瞬間、ユーリの両頬を掴んだアンジェリカが彼の唇を奪った。
「っ!?」
予想外の場所への侵攻に目を白黒させていると、アンジェリカの猛攻はそれにとどまらず、強引に舌を口腔内に滑り込ませ、まるでユーリの味を丹念に味わうかの様に。口の中が、そして鼻腔がアンジェリカの味とアンジェリカの匂いでいっぱいになった。
ユーリの視界はとろんと酔ったように、だけど燃えるように赤く輝くアンジェリカの瞳でいっぱいになった。その赤を見ているうちに、彼自身もだんだんと酔っているような気分になってくる。
どれだけ長い間そうやって貪られていたのだろうか。いい加減自分で『これ不味いんじゃないか』と思い始めたころ、ユーリの口はようやく解放された。アンジェリカがユーリの顔の脇に手をついて上体を起こすと、どこか名残惜しそうに唾液のアーチが二人の舌の先を結んで伸びて、室内の灯りに照らされて輝く。アンジェリカの顔は紅潮し、煌々と光る眼だけがギラギラとユーリの瞳を見つめている。
「……ずるいですわ」
見つめ合いながら、アンジェリカが漏らした。衝撃的な数分間の後に最初に告げられた最初の言葉がそれで、ユーリは一瞬拍子抜ける。
「ユーリはずるいですわ。人が散々不安になって、どうしようって思って、せっかく頑張ったのに全部無駄になっちゃったって、でも自分が無鉄砲だったって思い知らされて、そんなときに、あんな甘い言葉をかけてくるなんて」
「言ったでしょ。僕はアンジーにパイロットになってほしいんだ」
「それがずるいのですわ!」
アンジェリカが半ば『我慢できない』とでも言わんばかりにユーリの頭の脇に置いた手を握る。シーツに皺が強く寄って、波模様をベッドの上に作る。
「ずるいですわ、生意気ですわ。幼いころからいつもあなたがわたくしの後についてきていたのに、そうやっていつの間にか先に行って」
「いいや、そういえばそうだったよ。アンジーはいつだって、僕の水先案内人だったんだ。昔も、今も」
だからこそ、とユーリは柔らかに、だけどしっかりと彼女の眼を見据えて、言う。
「だからこそ、僕は君を望む場所へ連れていきたい。そのための、翼になりたい。ほら、アンジーいつも言ってるでしょ? 『お互いにできることをし合うことで――』」
「――支え合うのが、人間ですわ」
アンジェリカが、小さくつぶやいた。
「だから、僕もアンジーを支えたい。僕にできることで。だから、アンジーは僕のパイロットになって欲しいんだ」
「――っ!」
そこまで言ったところで、ユーリは再びアンジェリカに唇をふさがれた。今度は優しく、彼も受け入れるようにそっとアンジェリカの後頭部に手を回す。
「……生意気ですわよ。ユーリのくせに」
どれだけそうしていただろうか、再び唇を離すと、アンジェリカはそうぼそりとつぶやいた。
「いいよ、アンジーなら」
「……そういうところですわ」
そのまま背中にギュッと手を回してくるアンジェリカに答えるように、ユーリは彼女の背に手を回す。そうしてもぞもぞとお互いの感触を確かめるように時折動くと、二人は乱雑に布団にくるまって、抱き合ったままいつしか眠りに落ちていった。




