19/Sub:"学校"
何だったのだろう。彼女は。
ユーリが怪訝な表情を浮かべながらつぶやく。
「さぁ、ただわかるのは、彼女はどうも貴方の熱烈なファンのようでしてよ?」
「ファン? 僕に?」
ユーリは他人に――アンジーや姉妹以外――自分のことがどう思われているのか意識したこともないし、興味もなかった。ただ空を飛ぶのに関係あるか、そうでないか。それだけだった。ゆえに学校も義務感と惰性で行っているようなものだったし、人間関係を意識したことなどなかった。
「あら、人気者はお辛い?」
「飛ぶのに邪魔じゃなければ、別に。僕には関係ない」
アンジェリカは、小さく肩をすくめた。
チャイムが鳴って、生徒がそれぞれの席につく。アンジェリカもユーリの所から歩いて行って、自分の席へと戻っていった。数分も経たないうちに、年配の女性の担任の先生が教室に入ってきて教卓の前に立った。
起立、気を付け、礼。
学級委員の言葉に従って統一された挨拶をする。着席すると、ユーリは始まった担任の挨拶を興味もなさげに視界の端に追いやりつつ、窓の外を眺めた。
内容のほとんどを聞き流した朝礼が終わると、教室の生徒がずらずらと席から立っていく。きっと体育館に向かうのだろうとかろうじて聞いていた朝礼の数単語から推測しつつ、ユーリは彼らの後に続く。
混みあった廊下を人の流れに流されるようにして歩いていく。制服の黒、黒、黒。あまり気分がいい方ではなかった。
開けっ放しの教室。中に人影は見えなかった。入り口にそれるようにして滑り込むと、小さく息をついた。振り向くと、ドアの向こうは人ごみでごった返している。少し空いてから行こうか。
「あら、貴方――」
ふと、ユーリに投げかけられた声。声に反応して振り向くと、いつぞやのバイトを探しに学校へ来たときに会った少女がいた。青い瞳。その姿を見た瞬間、ボンヤリとしていたユーリの脳が再稼働する。
ユーリは姿勢を正し、つかつかと少女に歩み寄る。そして彼女の一歩半前で止まると、綺麗に腰を曲げて頭を下げた。突然ユーリが頭を下げたことに、少女は目を白黒させる。
「ごめん」ユーリが頭を下げながら言う。「あの時、初対面なのに君をじろじろ見たのは不躾だった。謝らせてほしい」
少女は困惑しながらかぶりを振った。
「頭を挙げてくださいまし、もう気にしてませんわ」
「そう。いや、あの後自分でもあれはどうかな、と思って」
ユーリが言われた通りに頭を上げると、目の前の少女は困惑の表情を浮かべながらも、どこか、少しうれしそうであった。
「わざわざ頭を下げなくてもよろしかったのに」
「いいや、真摯たれ、って昔から言われてるからね」
「ふふ、紳士なお方ですのね」
小さく笑みを浮かべる彼女に、ユーリは少しドキリとする。顔つきも、瞳の色も、発する霊的な気配も、まったく違うはずなのに、なぜかアンジェリカを連想する。
――またこれだ、いけないいけない。
直感的に想像してしまったそれを頭の中から振り払うと、目の前の少女に向き直った。
「皐月院、絵理沙ですわ」目の前の彼女が手を差し伸べながら言う。「以後お見知りおきを」
ユーリは差し出された手を握り返す。白いレースの手袋に覆われた手は、滑らかな感触がした。
「ユーリ。穂高、有理だ。よろしく、皐月院さん」
ユーリは小さく笑顔を作りながら返事をする。
「穂高、穂高……どこかで聞いたことありますわね」
それに、とエリサが言った。
「貴方のように目立つお人、学内で見かければ忘れることはないと思うのですが……」
手を離した彼女が、小さく首をひねった。
「僕は影が薄いって言われるからね。多分そのせいだと思うよ」
「影が薄いって。その程度ではない気もするのですけれど」
そこまでエリサが言ったところで、ユーリは一瞬口の中で言葉を籠らせた。言うかどうか迷って、諦めて正直に話す。
「僕、学校ではあまり人と会話しない方だから。部活とかも入ってないし、あまり人と関わらないから、印象に残りにくいだけだと思うよ」
「……そう、ですの」
エリサの青い瞳に浮かんでいたのは、困惑の色。ユーリはまぁそれもそうか、と胸に沸いた小さな諦観を飲み込みつつ、彼女に小さく手を振る。
「それじゃあ。どこかで会ったら」
「――えぇ、またどこかで」
ユーリが背を向けて静かに教室のドアから出る。ユーリがいなくなると、教室に一人エリサが取り残される。彼女は、しばらくそのまま立ち尽くしていた。
「皐月院さん?」
そう呼ばれて振り向くと、生徒会のメンバーで彼女の取り巻きの女子生徒が二人、こちらを心配そうな目で見ている。
「あら、どうかしました?」
「いいえ、皐月院さん、先程から何度もお呼びしていたのに全然反応がありませんでして……」
そう言われてハッと今の時刻を腕時計で確認する。まずい、始業式まで時間がない。
「い、急ぎますわよ!」
「は、はい!」
小走りで駆け出すエリサの後を追う取り巻きの二人。始業式で生徒会長が遅刻ともなれば、皐月院家の名に傷がつく。好き勝手できる身分ではないのだ。
しかし。体育館に小走りで向かうエリサの感情の一部を占拠するものが、どうしても頭から離れない。
あの、穂高ユーリという同級生。彼の、まるでこの世の理から浮いているかの様な、いっそ不自然とも見える雰囲気。そして、彼が人との関りとしていないことを語ったときに、一瞬だけ、彼のその太陽の様な金色の瞳の焦点が、はるか無限遠で結んでいるように見えたことが、どうしても彼女の頭から離れてくれなかった。
始業式はいつも通り終わった。今まで経験した始業式と違うというところを上げるなら、壇上でいつも全校生徒へ向けて挨拶していた人が、ユーリがアルバイトを探しに学校へ来たときに手続きした、桃色の髪の悪魔の女性で、知った顔だったということだけだった。内容のほとんどを聞き流しつつ、いつの間にか始業式が終わる。教室に戻って新学期のことについて担任がいろいろ話すのを右から左に流して、あっという間に下校時間だった。
教室の中は騒がしい。ユーリは興味なさげに窓の外の空を眺めていた。相変わらず今日はいい空だ。この季節はつかの間の大気が安定している季節だ。これが五月や六月になってくると南太平洋から上がってきた暖気がいまだに日本上空に残っている寒気と衝突して不安定や前線を作り上げる。雨の中で飛べなくもないが、離陸後一気に上昇して対流圏界面まで上昇するのは嫌いではないのだが、天気によってそうされられるのは急かされているようであまり好きではなかった。
ぼんやりとユーリがそんなことを思っていると、自分の席で鞄に荷物を詰め終わったアンジェリカが近寄ってきた。彼女の気配に振り向くと、少し驚いたような表情を浮かべる。
「相変わらず」アンジェリカはため息をもらす。「恐ろしいまでの察知能力ですこと。普段からそれを発揮していただければよいのですけれど」
「アンジー。いい飛行士ってのは背中にも目をつけなきゃ」
「それはユーリだけでしょうに……」
呆れたように言うアンジェリカにそんなことないはずなんだけどな、とユーリは不満げな表情を浮かべた。ユーリの母親なんて、父親が魔術で作った精神空間の、擬似VRで空戦ごっこをしたときなんて大人げなく未来視みたいなことをしてきた。
「ともかく、お昼にしましょう? 思ったより始業式が長引いてもう昼時ですわ」
「そうだね。アリシア姉さんとアンナ、二人を呼びに行こう」
アンジェリカに続いて立ち上がる。ほとんど物を出し入れしなかった鞄を持つと、アンジェリカの後に続いて歩き出す。教室を出ると、ユーリは自分のロッカーから日傘と弁当ボックスを取り出した。弁当ボックスの保温ジャーはまだじんわりと温かい。冷えたご飯にはならなさそうで、ユーリは小さく息をつく。
アンジェリカの後について歩いていき、一学年上の、アリシアのいるクラスの教室の前に。
どうやら中ではまだホームルーム中らしい。鞄を足元に置き、大人しく教室前の廊下の壁にもたれかかりながら時間をつぶす。
「そういえばユーリ」アンジェリカが小さく言う。「今年こそ、しっかりとした交友関係を持てそうですの?」
「……別にいいよ。僕には関係ない」
そっけなく返すユーリ。小さくアンジェリカの眉間に皺が寄った。
「いいですことユーリ、人間は独りでは生きてはいけない存在って言うのはあなたもよく知っているでしょうに」
「いいよ。別に。僕にはアンジーやアリアンナ、アリシアがいる」
「三人だけ? その閉じた世界で一生生きていくつもりですの? そんなの人間らしく――」
「人間らしくないなら」ユーリの眼が、金色に鈍く輝く。「僕は、竜のままでいい」
アンジェリカの方を見ると、彼女の紅い瞳が睨みつけるようにユーリの眼を貫いていた。
「いいえユーリ、それは竜でも何でもありませんわ。そんなの」彼女の瞳に耐えられなくて、ユーリは思わず目をそらした。「そんな、可能性のない存在なんて」
その先に続く言葉を、彼女は言わなかった。しかし、言わなくともわかっていた。ユーリの心の奥がジクリと痛む。古傷をえぐられたかの様な、鋭く、鈍い痛み。
わかっていた。このままではいけないって。ユーリは独りで生きていきたいのではない。共に歩いていきたい誰かがいるなら、受け入れなければいけないことではあるのだろうけど。
「……頑張って、みるよ」
そうやって、濁して返すのが、精一杯だった。
返事はない。アンジェリカは、そっとユーリの手を握る。その温かさが、どうにも心強かった。
「あ、ユーリにぃにアンジー姉さん……って。あー……」
軽快な声が聞こえてきたと思ったらそこにはアリアンナがいた。どうやらアリシアを迎えに来たところで被ったようで、最初は普通に声をかけたのだが、どうも見るとアンジェリカとユーリが険しい表情をしている。アリアンナは即座に話の内容に気づく。
――まぁ、いつものことか。
ユーリの隣、アンジェリカの反対側に陣取って同じように壁に背を預け、そっと開いていたユーリの手を握る。
「ま、ゆっくり進めばいいんじゃないかな。時は巻き戻らないけど、決して急かしてくるようなものでもあるまいし」
そう言いながらアリアンナはユーリの手をぐにぐにと握り、時折指を絡めたりして存分に彼の感触を楽しむ。
「……ちょっとアンナ、手つきがいやらしくてよ」
「えー? ユーリにぃの感触楽しんでるだけなのに」
そう言ってニンマリと悪戯っぽく笑うアリアンナに、どこか毒気を抜かれたようにユーリも苦笑いを浮かべる。
教室の中からガタガタと椅子が動く音。生徒たちが立ち上がる音が響いてきて数拍の後、教室のドアが開いて生徒がぞろぞろと出てくる。
「――って、あんたたち、来てたのね」
アリシアの小さな影が出てくる前に、三人は手を放していた。それぞれ床に置いていた自分の鞄を抱えている。
「お姉さま、昼食の時間ですわ。みんなで、食べに行きましょう」
アリシアは、素直に同意した。




