18/Sub:"登校時間"
「あら、美味しい」
サンドイッチにかぶりついたアンジェリカが小さく漏らす。
「それはどうも」
ユーリは手早くサンドイッチをほおばって牛乳を喉に流し込む。朝のフライトで乾いた喉に冷たい牛乳が流れ込んでくる感触。身体に水分が沁み込んでいくようで心地よい。
「さて、あまりのんびりもしていられませんわ」
ユーリに続いてサンドイッチを食べ終えたアンジェリカが言う。他の二人もすぐに食べ終える。
「じゃあ、ごちそうさまでした」
アリシアが言うと、他の三人が同じように言った。三人は食べ終わった食器を台所のシンクに置くと、軽く水をかけて皿に水を貼った。帰って来て洗うときに渇いて洗い落とせないことがないように、との工夫だった。
ぞろぞろと連れたって食堂から出る。ユーリは全員の昼食の入ったタッパーとジャーを保温バックに詰めて持って出た。昼食までは十分その温度を保っている事だろう。
自室にアンジェリカとユーリが戻ると、学校に持っていく鞄をとり、ネクタイをつける。深紅の、落ち着いた色合いのネクタイ。
「ユーリ、ネクタイが曲がっていらしてよ」
「え? あ、ありがとう」
ユーリが自分で直そうとする前にアンジェリカがユーリのネクタイをそっと掴んで、軽く緩めて形を整えた後に締める。ユーリの首元には綺麗な逆三角形が収まっていた。
「しっかりしてくださいまし、ユーリ。笑われてしまいますよ?」
「うん、気を付けるよ」
苦笑いを浮かべながらユーリはジャケットの襟を指でなぞって伸ばす。不安になって整えてみたが、しわになったり折れたりはしてなさそうだ。
「よし、では、行きましょうか」
ピシッと制服を着こなしたアンジェリカに続いて、ユーリは保温バックを右肩から下げて、右手に鞄を持つと部屋を出た。
「お姉さま―! アンナ―! 行きますわよー!」
アンジェリカが屋根裏部屋と奥の部屋に呼びかける。しばらく静かだったが、ドタドタと言う音と共に制服を着、黒い手袋と、黒いロングストッキングを付けたアリシアが部屋から出てきた。それと同時に、屋根裏部屋のドアが開く音。子気味よく階段を鳴らす音と共に、暗い赤の手袋と、ガーターベルトのついた赤くグラデーションのかかったサイハイソックスを履いたアリアンナが屋根裏部屋から降りてきた。彼女は器用に手元でつばの広い帽子をくるくると回しながら階段を降りてきて、階段下まで降りてきたところでそれを上に放り投げた。帽子は回りながらふわふわと空中を落ちていき、アリアンナの頭にぽすり、と収まった。帽子に巻いてある赤いリボンが揺れる。
アリアンナは相変わらずこういう得意だな、とユーリはぼんやりと思う。きっとこういう何気ないしぐさが、アリアンナが女子にも関わらず女子に人気な理由だったりするのだろうか。ユーリには真似できないし、真似する気もなかった。
「お待たせ、ユーリにぃ、姉さん」
四人で一階に降り、玄関から外に出る。玄関のドアを開けると、朝日が屋敷の中に差し込んで玄関の床を照らす。
ユーリは玄関脇に立てかけられていた白い日傘を手に取った。アンジェリカの実家が融資したベンチャー企業が開発したというそれは、人工衛星の保護シートにも使われた技術で日光や紫外線を完全に遮蔽する傘の膜。そして、軽く、頑丈な炭素複合繊維でできた骨組みで、台風の中でも折れないとのうたい文句だ。最も、開発陣は台風の日に日傘をさす必要はないということには気づかなかったようだ。オーバースペックなこれは、多少ダウングレードされて量産されているらしい。ここにあるのは、試作品として開発されたオーバースペックの一品だった。
ユーリは日傘をさすと、アンジェリカにかかる日差しを遮る。
「ふふ、ありがとうございますわ」
「はいお嬢様、光栄であります」
アンジェリカがほほ笑んで礼を言ってくるのに、ユーリはわざとらしく畏まって返事をした。くすくす、とアンジェリカは小さく、だけど楽しそうに笑った。
玄関のカギを閉め、門を開けて外に出る。屋敷は住宅街のはずれだ。未開発の森のそばにたたずむ屋敷から道路を歩いていくと、すぐに住宅街の中に入ってく。新緑の若葉が芽吹いた、メタセコイアの街路樹が並ぶ中を四人は学校へ向けて歩いて行った。
「飛べば一瞬なんだけどな」
ユーリが街路樹の先の空を眺めながらつぶやく。気候がいいのか、二〇メートル近くそびえるメタセコイアの並木は圧巻だった。
「確かに、家から学校までの距離なら飛べば一瞬ですわね」
「離陸上昇したらすぐ着陸アプローチだ。飛んだ気がしないよ」
メタセコイアの並木を抜け、交差点を曲がって学校に向かって歩き出す。次第に住宅の数が増していき、四人が歩いている横の車道をバスが通り抜けていった。
「そういえば」アリアンナが思い出したように言った。「今日の始業式、結局午前中で終わるのかな」
「まあ去年までのパターンを見ると、十一時頃じゃない?」
アリシアが言うと、うへぇ、とアリアンナが顔をしかめた。
「せっかく休みだと思ったのにー」
「まぁ、どうせそうなりそうだから昼食作ってきたんだし」
「そういえばユーリにぃ、今日のお昼何?」
「秘密ですわ」
ユーリが素直にアリアンナに昼食のメニューを言おうとしたところ、先にアンジェリカに言葉をかぶせられた。秘密にすることでもあるまいに。ユーリは小さく苦笑いを浮かべた。
バス通り沿いに十五分ほど歩く。だんだんと同じ制服を着た学生が増えていき、そうこうしているうちに槍沢学園の校門にたどり着く。校門前の広場に植えられたカエデの木が青い葉をつけていた。
昇降口についたところで日傘の下からアンジェリカが出、ユーリが日傘を閉じた。くるくると巻いて留め、脇に抱える。
「ではお姉さま、アンナ、また後程」
「また後でねー」
「またねー」
アリシアとアリアンナがそれぞれの学年の階にある方に向かって別々に歩いていく。昇降口にはユーリとアンジェリカが残された。アリシアとアリアンナの姿が見えなくなると、二人は自分の教室に向かって歩き出した。
教室前にたどり着くと、ユーリは自分のロッカーを開けた。中に日傘と弁当ボックスを入れ、それ以外何も入っていないロッカーを閉じた。教室に入ると、半分ほどが登校していた。ユーリとアンジェリカは教室の自分の席に向かって歩いていく。ユーリは一番左の、後ろから二番目。窓際の席だった。アンジェリカは左から二列目、前から三番目で後ろから四番目だ。三〇人の教室の、五かける六の席にそれぞれ座る。
教室の何人かの女子がアンジェリカのところに歩いてきて話しかけ、彼女はそれに笑顔で応対した。ユーリはそれを興味なさげに見やると、窓の外へと視線を移した。朝のフライトはよかった。今日は大気も安定している。鉛直シアもないし、フライト日和だった。帰ってからまたフライトに出かけようか、とユーリはぼんやりと思う。
空の雲はゆっくりと流れる。層積雲がちぎれながら風に流されて、形が変わっていく様子をただじっと目で追った。
早く、空に上がりたいな。
教室の狭さがやけに生々しく感じる。今にも窓を突き破って離陸したいという欲求が沸き上がってくるが、理性でそれを抑え込む。感情が抑え込まれていく感触が、ただただひたすらにたまらなく不快だった。
「……ぇ……ねぇ」
だからだろうか、ユーリを呼ぶその声に反応するのに、だいぶ遅れたのだった。
「ねぇ。穂高、ユーリ君でしょ?」
「……?」
自分の名前が呼ばれてようやく反応して振り向いた。そこにいるのは長い黒髪を腰のあたりで結わえ、前髪を丁寧に切りそろえた髪型の少女。
しかしそれよりも、まずユーリの目を引いたのが、彼女の右目が輝くような金色になっていたことだった。
その眼は一瞬ユーリの注意を引いたが、すぐに興味をなくした。
「そうだけど、なに?」
「やっぱり! こないだ公園に着陸してたドラゴンだよね!」
興奮気味に彼女が言う。思い出そうとするが思い出せない。彼女がここまでユーリのことを覚えているということは、きっとどこかで会ったことがあるのだろうが、記憶する気はなかったので覚えていない。
「そうだけど」
「わぁ! すごい! 触ってもいい? 角とか生えてるの? 普段は人の姿をしてるんだけどあの時は竜人みたいな姿だったよね! ドラゴンの姿にもなれるの!?」
興奮した様子で語る彼女に若干げんなりする。アンジェリカが騒ぎに気付いて後ろを振り向くと、少女が机に手を置いて身を乗り出し、ユーリに覆いかぶさるような姿勢になっているのを見てギョッとした。
「ねぇ、ちょっと触ってみてもいい!? というか瞳すごい綺麗だね、人の姿でもちゃんと瞳は竜の瞳のままなんだね、ちょっと近くで見てもいい!?」
ユーリがいいよとも駄目とも返事を返す前に彼女がユーリの顔にぐい、と自分の顔を近づけてきた、視界一杯に広がる彼女の茶色い左目と、金色の右目。どうしても金色の瞳から目が離せない。なんだこれ?
「へぇー……綺麗な瞳……」
そんなユーリの困惑をよそに少女はまじまじとユーリの瞳を眺めつづける。一体どれだけそうしていたのだろうか――多分あまり時間は経っていない――、後ろから、若干苛立ったような声がかかった。
「もし、そこの貴方?」
アンジェリカが苛立ちを隠せない声で少女に語りかけた。少女はハッとしたようにユーリから振り向くと、赤い瞳が睨んでいた。
「名乗りもせず、いきなり質問をぶつけた後じろじろと見るのは淑女以前に人としておかしくはなくて?」
いらだった様子でアンジェリカが言うと、少女は慌ててユーリに向き直って、頭を下げた。
「ごめんなさい! ドラゴンに会えたから、思わず興奮しちゃって……」
少女は顔を上げると、困ったような笑顔でユーリに手を差し出した。
「私はさくら。霧島、桜。これからよろしくね、ユーリくん」
「ユーリ。穂高、有理。よろしく」
差し出された手を無表情で握り返す。温かい手だった。
握手をしてて違和感を覚えた。妙にサクラがユーリの手を握る。力を籠めたり、緩めたり、少し動かして見たり。
こいつ、感触を楽しんでやがる。
「霧島さん?」
「あ、そろそろ先生来ちゃう――またね、ユーリくん。今度は鱗触らせてね」
そう言って手を離したサクラはにこやかに手を振ると、教室を早足に去っていった。




