16/Sub:"オーバーヘッド・アプローチ"
「いやぁ、君みたいな子、いるんだねぇ」
教授がそれはそれは楽しそうな顔でユーリに話しかけてくる。ユーリもその顔に思わず苦笑いで返した。
「いいえ、僕でもさすがに中間圏までは飛べないですよ」
「十分だよ! 僕らの研究は対流圏から成層圏までだからね」
全身を使って喜びを表現してくる教授。ほかの学生も興奮冷めやらぬといった雰囲気で、ユーリの翼や着ているフライトスーツを興味ありげに、嘗め回すように見てくる。
「じゃあこれからよろしくね! 詳細な日程は追って伝えるから!」
そう言って教授が名刺をケースから出すと、裏にボールペンで何か書いてから渡してくる。名刺にはメールアドレス、裏返してみると、書きなぐられた電話番号。ここに電話するか、ここから電話がかかってくる、と言うことか。ユーリはそれを鞄の中に手を突っ込んで、定期入れに入れた。
「では、今日はこれで終わりですか?」
「ああ。わざわざありがとう。飛んで帰るのかい?」
「ええ。昼食には間に合いそうです」
ばさり、とユーリが翼を広げた。一気に霊力流量が増し、飛行術式に火が入った。銀色の鱗で覆われた翼の翼膜が青白い燐光を放つ半透明な術式に包まれ、術式の甲高い音が周囲に響き渡る。
「では、今日はありがとうございました」
ユーリが頭をぺこりと下げると、教授や生徒も頭を下げた。
ユーリは術式を起動したまま具合を確かめるように翼を広げたり畳んだりしながら、周囲と十分な距離を取る。十分距離を取ったと確認したところで、ユーリは進路を確認した。進路クリア、クリアフォーテイクオフ。
クラウチングスタートの体勢を取った。飛行術式の霊力流量が跳ね上がった。伸びる噴射光。ふっと鎖から放たれたようにユーリが駆けだすと、一瞬で彼が重力から解き放たれる。急激なピッチアップで、揚力を確保するために大きく広げた翼が減圧雲を纏い、一気に急上昇。空の高みへと垂直へ登っていく。
「おぉぉぉぉ……」
地上でそれを見ていた学生が思わず感嘆の声を漏らした。真っすぐ上昇していくユーリは、他の飛行種族とは明らかに一線を画している。
ふと、ユーリの姿勢が崩れた。垂直上昇のまま、ふっと後ろ向きに倒れ込むように仰向けになり、翼が白い減圧雲をたなびかせた。学生の間から小さな悲鳴が上がる。
「あ、あれ? 大丈夫かな!?」
「あれ不味くないっすか!?」
明らかな失速姿勢。地上の皆が悲鳴のような声を上げる中、ユーリは失速状態でも完全に姿勢を制御していた。そのまま失速状態の空の中、一八〇度ピッチアップ。頭の上に地面がある。そこで対気速度が一瞬ゼロになり、自由落下。しかし彼の翼はすぐに大気を掴んだ。滑らかに九〇度ピッチアップし、水平飛行になると青白い噴射光を煌めかせ、一気に増速して空の彼方へと消えていった。
地上で見ていた教授と学生たちは、その様子をポカンとした表情で見送っていた。
「……とんでもない子、来ちゃいましたね」
人間の女学生が放ったその一言が、その場の総意を物語っていた。
ユーリはフライトレベル30まで上昇して巡航。フライトコースは先程と同じだ。行きとあまり時間が経っていないためか、空域は空いている。航空警察ににらまれない程度に速度を出してユーリは空を切り裂く。
彼の心の中は、すこしばかりか沸き立っていた。その気持ちの理由に気付かないまま、ユーリは空に飛行機雲の軌跡を描いていく。前から後ろに流れていく景色が心地よい。いつもより境界層の制御に力を入れて、極限まで減らした空気抵抗でもって軽々と、空をまるでナイフでバターを切るように滑らかに飛びぬけていった。
あっという間にアンジェリカ達の屋敷の上空に到達した。ユーリは屋敷の上空をフライパス。屋敷の庭を眺めて、着陸エリアの状況を目視確認した。
アンジェリカが、こちらに向けて手を振っていた。
ユーリは左に急旋回。鋭く旋回し、翼端から雲の糸を引く。急速に失われる速度、そして高度。二〇〇度の左旋回を終え、正対するために軽く右旋回した。正面に屋敷の庭をとらえ、翼を大きく広げて揚力と抵抗を同時に増していく。だが、その速度は通常より速く、高度も高い。
ユーリは翼の迎え角を大きくとりながら屋敷の庭目掛けて降下。失速ギリギリを保ちながら目標着陸地『点』へと滑り込むようにアプローチ。
――ここだ。
ユーリは一気に機首上げ。一気に気流が翼面から剥離し、失速。翼が空気を受け止め、一瞬で水平速度がゼロになる。地上までは高さ一〇フィートほど。屋敷の入り口のところで、少し驚いたような表情でアンジェリカがこちらを見ていた。
左足を軽く曲げた状態で伸ばし、右足をまだ曲げられる余地がある程度に曲げる。一〇フィートほどを翼で空気を受け止めながら落下、地面に左足から触れ、足で勢いを殺しつつ右足が地面に触れ、両脚で速度を完全に受け止めた。
うむ、うまくできた。おまけと言わんばかりに背を真っすぐ伸ばして立ち、両手をピンと伸ばしてYの字を作った。
「冷や冷やしましたわ」
赤いブラウスとスカートを着、長手袋を着けたアンジェリカが眉間に皺を寄せながら言った。あまりウケなかったらしい。
「でもこれ便利なんだよ? ほぼ滑走距離ゼロで着陸できるし」
「そういうミスをするわけはないと信じていますけれど、高度と速度をミスして墜落するのではないかとも思いますわ。必要時以外はやめてくださいまし」
ため息をつきながらアンジェリカが言うのを聞いて、ユーリは反省した。今度から彼女の前ではやらないようにしよう。
「で、ずいぶん浮かれていたようですけれど、いい知らせがありますの?」
「そんなに表情に出てる?」
そう言われて思わずユーリは右手で自分の口元を撫でた。アンジーから見てもニヤついているのがわかるのだろうか。自分では意識していなかったが、そう考えるとずっとニヤニヤしながら空を飛んでいたということになる。見られたということはないだろうが、どこか恥ずかしい。
「いいえ」アンジェリカはそれを否定した。「飛び方を見ればわかりますわ」
「飛び方、って」
「貴方、結構飛び方に感情が出る方でしてよ」
アンジェリカが腕を組みながら、どこか不敵ににやりと笑って言う。
「それほど?」
「ええ、それはもちろん」
「むぅ」
翼を軽く伸ばしたり畳んだりしながらユーリは不服そうな顔を浮かべる。自分としてはあくまでも理性的に飛んでいたつもりだが、感情的になる要素はあるのかもしれない。どこがどう感情的だったのかな、と自省をしようとしたとき、ドアの中からトタトタと階段を降りる音が聞こえてきた。すぐに階段を降りる音からホールを歩く音へと変わり、ドアが開く。
「ユーリにぃお帰り」
「うん、ただいま、アンナ」
ラフな部屋着のアリアンナが玄関の扉から出てくる。いつもの三つ編みは解かれ、垂れた長い髪は先の方で軽く縛ってまとめられていた。出てきたアリアンナはユーリに抱き着いて彼の頭髪に顔をうずめる。
「うーん、ユーリにぃやっぱり飛んできた直後はお日様の匂いがする」
思わずユーリは自分の腕を嗅いだ。特に変な臭いはしなかった。
「アンナ、昼間からくっつきすぎですわ」
「ハイハイっと」
名残惜し気にユーリから離れるアリアンナ。彼女のそんな姿を見て、ふとユーリは気になったことを聞いてみた。
「ねぇアンナ、僕って飛び方に感情出る方?」
「うん、出てるね」
即答だった。どうも納得できない。ユーリが不満げに腕を組むと、アンジェリカは得意げに笑みを浮かべて若干ユーリを見下すような目線になった。普段の態度と合わせて、実に様になった見下しポーズに感心しつつも腹が立った。
「どうしたのー?」
階段を降りてきたジャージ姿だがツインテールだけはきっちり結んだアリシアが、玄関前でたむろしていた三人に声をかける。ユーリはその声に天の助けが降りてきたような気分ですがった。
「ねぇアリサ姉さん、僕って飛び方に感情出る方だと思う?」
「えっ? そりゃ――」
そう言おうとして、周囲の他のメンツを見た。のほほんとしているアリアンナ。得意げにユーリを見下しているアンジェリカ。彼女は今にも「おーほほほほほ!」と高笑いをし出しそうだ。そしてユーリは悔し気にこちらを見ている。
OK。把握したわ。
「あー、うん、ユーリの飛び方で感情わかるって、普段どれだけアンタたちユーリの事見てるのよ」
「いっつも、ですわ!」
「いつもだねぇ」
アンジェリカとアリアンナがそろって返事をする。それに対してアリシアは苦笑いで返した。この二人は相変わらずね、とユーリの方を見ながら彼女は思った。
「まったく、好かれてるユーリはいいわね、こんなにあなたのことを見てくれる子がいて」
「そういう問題なのかな……」
しぶしぶ、と言った感じでユーリが言うと、ランチの準備をするのだろうか、とぼとぼと屋敷の中に消えていった。その後ろをずんずんと大股で歩きながらアンジェリカが、伸びを師ながらアリアンナが追ってそれぞれ屋敷の中に消えていく。
一人外に残されたアリシアは、ふと空を見上げた。空にはまばらに散る白い雲、そして青く、どこまでも続いている空。
「……まぁ、私が言えた事じゃないか」
零れ落ちるように出たそのつぶやきは、青くどこまでも広がる空に吸い込まれて消えていった。




