14/Sub:"募集要項"
出来れば現金直接受け渡しのがいいな、と目を滑らせる。生憎ユーリも銀行口座を持っているが、使ってはいない。預金残高は最後に見たとき五百円とかだったはずだ。最低限だけ入れて、キープしている口座。いつか使う日が来るのだろうか。
視界が滑る。どうにも集中できない。一つ一つをじっくり見る集中が途切れてきた。ユーリは目元を指で押さえた。なんだか疲れた気分だった。
ここまで来たらもう適当でもいいかもしれない。そう思いながら貼ってある応募用紙を斜め読みしていたところで、ふと、一つ違和感に気付いた。
一枚だけある、他の応募用紙よりも古びた紙。ほかの様々な張り紙に半分覆い隠されていて、見えなくなっていたがよく見ると若干用紙が色あせている。覆いかぶさっているほかのチラシをめくり、ピンを抜いて紙を外して見てみる。紙の上部には何度もピンで貼り直したのか、小さな穴が沢山開いていた。ふと何かに気付くように手に取ったそれをユーリはじっと眺めてみる。
『飛行種族求ム! 気象観測要員 新松代大学 理学部 地球科学系 大気物理学グループ 気象学研
概要:気象観測補助要員としての飛行種族 高層気象観測、ゾンデ放出、大気採集、熱映像撮影、等
給料:一回のフライトにつき最低六〇〇〇円 観測内容により追加報酬 現金直渡し
日程:不定期(突発的な気象イベントの場合は対応を求める場合があります)
備考:できるだけ高高度に上がれる人募集』
ほう、とユーリはチラシを見て小さく声を上げた。
新松代大学と言えばかなり大きな国立大学だ。治験のようなアルバイトはあるとは聞いたことはあるが、まさかこんなアルバイトが転がっているとは。
「気象、かぁ」
空を飛ぶのに気象は重要な要素だ。視程、気温、風向風速、湿度、大気不安程度、水平及び垂直シア等々。様々な要素がフライトに密接に関わってくる。普段そういうものを何気なくとらえていたが、どうもこの研究室はそれを研究しているらしい。
何より一フライト六千円。その一言もユーリを引き付けた。ほかのアルバイトに比べて破格と言ってもいい。
しかし、不安な点もある。一つは仕事が不定期なこと。仕事が入ってこなければ収入ナシということもあるかもしれない。そして、なぜかこんな破格のチラシが残り続けている理由。日付を見ると、なんとまあ、二年前近くから貼られていた。
雇い主が雇い主なので、金銭面でトラブルと言うことはないだろう。だとすると以来の内容に何か問題があるのか。
行くべき、だろうか。
他の案内を見ると、安定していそうなのはいくらでもある。接客、運搬、配達。そういうのを選んだ方が、きっと収入としては安心できるだろう。だけど。
――強みを生かすことですわ!
――楽しいことは、長続きしますわ。
脳内にアンジェリカの言葉がリフレインする。
楽しいこと、か。
ユーリはチラシを眺める。質素なプリントの上に描いてある空の絵が、色褪せてもなおどうしようもなく青くまぶしかった。
試してみる価値は、あるかもね。
ユーリはその紙を元の場所に戻そうとして、やめた。彼は飛行用バッグを外して手に持ち、応募用紙を掴んだまま職員室に向かって歩き出す。階段を登って職員室の場所へ。職員室は図書館の真上だった。
職員室のドアをノックしてドアを開ける。挨拶をして中に入ると、まばらにだが先生がデスクで仕事をしていた。新学期が近いからだろうか、それの準備をしているようだ。
「すみません」
すこし声を上げると、近場にいた日焼けした鬼の女性の先生――確か高等部の国語の先生だったか――がユーリに気付いて寄ってきた。
「おう、どうかしたか?」
「就業体験の応募用紙を見て、応募したいものがあったので申し込みがしたいのですが、お願いできますか」
「ほぅ。わかった、少し待ってろ。今話を通してくる」
鬼の先生が職員室のドアから左の陰に消え、ノックする音が職員室の入り口まで聞こえてきた。
「吾妻理事長代理補佐、就業体験で応募したいってやつが来てます」
「わかったわ、今行きます」
どこかふわふわとした声が奥から響いてきた。つかつかとパンプスを鳴らす音が聞こえてくると、目の前に背の高い女性が現れた。
「あら、そのフライトスーツ……」
左から曲がってユーリの前に現れたのは、灰色のスーツとタイトスカートを着た、背の高い女性。身長は一九〇近くあるのではないのだろうか。滑らかでシュッとした八から九頭身のシルエットや、引き締まったウェストとは裏腹に、安定感のある腰つきと足回りをしていて、柔らかそうな印象に見えて体軸がブレていない。現に今歩いてきたときも体幹がぶれていなかった。桜色の髪が毛先に向かって桃色にグラデーションを描いた、ハーフアップの髪型で、サイドヘアを緩やかにロールさせている。その髪色も合わさってだろうか、彼女の非常に豊かな女性の象徴が、まるでどこか母親を思わせる安心感を第一印象で抱かせるような、そんな人だった。
だからこそ、彼女の両側頭部から空に向かってねじれながら生えた黒い角が、どうしようもなく蠱惑的な印象を、彼女に付与していた。
彼女はその紫色にも桃色にも光の角度で見えるような瞳で、ユーリの着ていたフライトスーツを、どこか驚いたような、懐かしいものを見るような目で見た。
「あ、すみません。着替えてきた方がいいですか?」
すると彼女は、はっと驚いたように首を軽く横に振ると、にっこりとほほ笑んだ。
「いいえ大丈夫よ。すぐ終わるから。さ、向こうで手続きをしましょう?」
くるりとユーリに背を向けて歩き出す彼女にユーリも続く。見ると、彼女のタイトスカートの臀部には尾を出す装飾付きの『袖』が空いていて、そこから黒く細長い尾が伸びていた。先端はハートかスペードのような形になっている。
悪魔、なのかな。
多分全校集会や始業式、終業式で見た覚えはあるのだが、あまり印象にない。つくづく、自分があまり周囲を見ていなかったことを、先程の少女のことと合わせてユーリは実感した。
職員室の入り口のドアから左に曲がってさらに左に曲がると、会議用のテーブルが置いてあり、その奥にガラス張りの応接間が目に入った。彼女がつかつかとその中に入ると、ユーリも小さく「お邪魔します」と言って中に入った。
「さ、そこに腰掛けて。手っ取り早く済ませちゃいましょう」
「すみません。よろしくお願いします」
ユーリが軽くお辞儀しながら言うと、彼女は胸のポケットにかけていたメガネ――ARグラスなのか、あれ――をかけて、空中を指でなぞったり突いたりする。
「あ、そういえば貴方、名前は?」
「中等部三年、穂高有理です。えーと、理事長代理補佐」
「吾妻先生、でいいわ。穂高ユーリ君ね」
吾妻先生が目の前で入力を続けるときに学年や学籍番号などを聞いてくる。ユーリはそれに一つずつ答えていくと、そのたびに目の前の彼女が指を空中になぞらせた。
「これで……よし、と。じゃあ待ってて、今電話して聞いてみるわ」
彼女が耳元に手を当てる。ARグラスでの通話方法だ、とユーリがぼんやりと思っていると、通話がつながったらしく、彼女が電話越しにしゃべり出した。傍から聞いていると、所属や学年などの普通の情報提供をしているようだった。
「はい……はい……え、種族ですか?」
その質問まで来たときに、先生の言葉が止まる。そしてユーリの方を少し困ったような表情で見てきた。ユーリはそれに間を開けずに答えた。
「ドラゴンです」
「はい、種族ですがドラゴン……えっ、ドラゴン?」
先生が目を丸くしながらユーリの方を向いてきたので、ユーリは再び頷いた。
「はい、ドラゴンです……ええ……ではそのように……よろしくお願いします。失礼しました」
目の前で先生が頭を下げながら空中に指をなぞらせて電話を切る。向こうには見えてないんだろうけどなぁ、とユーリがぼんやりと思っていると、彼女がARグラスを外して机に置いた。
「教授が、これから会って話がしたいそうよ。大丈夫かしら?」
「これから、ですか?」
新松代大学までは飛んでいけばそれほど時間はかからないだろう。ユーリは電子航空免許端末の時刻を確認する。時刻は午前10時30分。これから大学まで飛んで行って、それから戻れば昼過ぎほどには家にはたどり着けるだろう。
「わかりました。今から飛んでいきます」
「離陸後は方位2―3―0に旋回後、FL30まで上昇。この時間のその空域は空いてるわ、飛ばすならそこよ」
「わかりました――えっ?」
「? あっ」
自然に吾妻先生が言ったフライトコース。ユーリは何も考えずにそのコースを利用しようとして、違和感に気付いて声を漏らした。飛行できる種族に一応悪魔は入るとは言え、妙に詳しくないか――?
「先生、あの」
「ほ、ほら、早く行かないと採用が他に決まっちゃうわよ! さぁ、ムーブ、ムーブ!」
先生に急かされてユーリは職員室を立ち去る。お辞儀をして部屋から出ると、応接室の中は静けさに満たされる。
その中、彼女は小さくため息をついた。
ずいぶん懐かしいものを見たからか、思わず昔の癖が出てしまった。彼はそれにすぐに気づいた。きっと良いアビエイターなのだろう。
また上がりたいものだ。そう思いながら、彼女はユーリの生徒名簿に目を通した。
「穂高、ユーリ君かぁ……」
今度私的に話をしてみたいな。そう思って彼女は仕事がまだ残っていることに気付き、慌てて執務室に戻った。
ユーリは小走りで階段を降りる。走りながら飛行用バッグを接続し、玄関で上履きを下駄箱に放り込んだ。スニーカーを取り出してそのまま鞄の中に放り込むと、竜人形態に変化しながら外へ駆け出す。先程までの道を逆走してグラウンドへ。
グラウンドでは端の方でユニフォームを着たワイバーンやハルピュイア、天狗などの飛行種族の学生たちが準備運動をしていた。ユーリはそれに一瞥もくれずにグラウンドに正対する。クラウチングスタートの姿勢を取り、術式を起動する。
翼が一瞬で青白い光に包まれる。甲高い轟音と共に噴射光がダイヤモンドコーンを描いて吹き出し、ユーリの身体を前に弾き飛ばそうとする。ランウェイはクリア。
クリアフォーテイクオフ。
自分で自分にそう言い聞かせ、ユーリは駆け出す。推力と共に一瞬でトップスピードに達し、弾かれるように離陸。その様子をグラウンドの端で準備運動していたい飛行種族の学生たちが呆気にとられるように見ていた。
翼が一瞬で白い減圧雲を空に刻んだ。急上昇し、鋭く旋回。方位、2―3―0。フライトレベル30まで上昇。翼の端から雲の糸をたなびかせ、ユーリは新松代大学へと方位を向けた。




