12/Sub:"夢見が悪い"
白。
視界一面が白に覆われている。吹きすさぶ風が頬を撫でる。湿った空気が体表に叩きつけてきて、肌から体温を奪っていく。ひとえに物言わぬ氷の塊にならないのは、魔術をもちいた生命維持のそれでしかない。雲の中の風はまるでシロップの濁流のように姿勢を乱してくる。
『アンジー、方位、高度、速度は?』
「っつ!」
ユーリが霊力リンク短距離念話通信で話しかけてきた。自分の腕の電子航空免許端末を確認する。
「方位スリー、ファイブ、ゼロ! 対気速度二七〇ノット、高度九五〇〇!」
術式の制御の集中を切らさないようにしながら叫ぶ。念話がつながっていることも忘れて、必死に声を届かせるように大きな声を出す。一瞬集中が途切れ、術式への供給霊力が不安定化。急に揚力が落ちて高度が落ちる。
「こ、な、く、そおおぉぉぉぉぉっ!」
必死に対応して術式を再駆動。赤い翼が輝き、赤い噴射光が膨れあがって推力が増加。高度が戻ってくる。急激に増やした霊力供給量を元のラインに抑え、再び安定状態に。
『そうそう、ペース配分が上手くなったね』
「あなたの、おかげ、ですわっ!」
額から汗と露の混ざった汗を頬に垂らし、アンジェリカが不敵に嗤う。垂れた雫は境界層内部の気流にもまれ、肌から零れ落ちて白い雲の中へと消えていった。
アンジェリカの左斜め後ろを飛行しているユーリがふと速度を上げる。アンジェリカを追い越し、アンジェリカの斜め前方へ。
「ユーリ?」
様子がおかしい。航空灯は術式でつけているが、返答がない。それどころかどんどん速度と高度を上げていく。慌ててアンジェリカもそれに追従。飛行術式に対して霊力供給量を上げ、推力を増しながらユーリに追従する。白い雲の中は方向感覚を鈍らせ、自分がどの方向に向いているかをわからなくさせる。彼女は咄嗟に水平指示器を確認。どうやら上昇しているようだ。
「ユーリ、待ってくださいまし! ユーリ!」
アンジェリカの呼びかけにも関わらず彼はどんどん高度と速度を増していく。彼女は必死にそれを追従。霊力供給量が跳ね上がり、身体に負担となってのしかかってきた。
ミルクの中のようだった雲がだんだんと明るくなっていく。雲頂が近いのか? 高度計を確認しても高度は九五〇〇のままだ。
唐突にその瞬間は訪れた。突き抜ける視界。まるで濁った水中から急に水面に出たかのように光が網膜を焼く。
「……え?」
異様な、光景だった。
一面の雲海。しかしそこに一切の凹凸はなく、真っ白な平原が果てしなく続いている。そこにぽつぽつと、黒いものが見える。あまりに異様な光景にアンジェリカはユーリを追いかけることを一瞬忘れ、思わずその一つに集中した。はじめはいびつなオブジェのように見えていたそれは、アンジェリカの進路上にある。彼女は緩やかに旋回し、その横を飛びぬけて――息を、詰まらせた。
まるで墓標のように雲海の中から突き出していたのは、日の丸が描かれた、F15戦闘機の垂直尾翼だった。
「……なん、ですの?」
アンジェリカが飛行していくうちに、それは次々と流れてくる。主翼であったり、尾翼であったり、ボロボロに砕けた機首であったり。星が描かれていたり、トリコロールが描かれていたり、星条旗が描かれていたり。テーパー翼だったり、デルタ翼だったり、後退翼だったり、前進翼だったり、可変翼だったり。緑だったり、青だったり、グレーだったり、黒だったり。
翼の残骸が、まるで墓標のようにつきだした雲海。その光景に、アンジェリカは言葉を失う。それらは物言わぬ物体として、後ろへと流れていく。
そうだ、ユーリは?
ハッとなって周囲を見渡すが、いない。確かに雲海を抜ける直前までは前にいたはずだ。アンジェリカは右、左、後ろ、下に視線を巡らせる。いない。そこで、ふと彼女に影が差した。
「ユー、リ……?」
頭上にあったのは、病的に暗くなった太陽。明るいはずなのに、まるで満月のように暗く、弱弱しい。ただ周囲だけがギラギラと、不自然に照らし出されている。そしてそんな太陽が浮かぶのは、どこまでも落ちていきそうな色の空。どこまでも透き通った、ダークブルー。
その中心に光の翼を輝かせ、翼端から雲の糸を引いて飛ぶ、一匹の白銀の竜。
竜は咆哮する。雷鳴の様な咆哮は翼の墓標が立ち並ぶ雲海に響き渡り、吸い込まれていった。竜はそれに満足したのか、翼を広げ、輝きを増す。翼の後ろから巨大な噴射光がダイヤモンドコーンを描いて噴き出、竜を空の高みへと押し上げていく。
「ユーリ! 待って!」
アンジェリカが必死に上昇を試みるが、急激に薄くなった大気が翼から揚力を奪い取る。必死に推力を増やし、翼に風を受けて揚力を得ようと試みるが霊力供給が追い付かない。上昇を試みてピッチアップした結果、見る見るうちに彼女から速度が失われていった。それを気にせず、白銀の竜は空の高みへと消えていく。白く、儚く伸びる雲の糸を残して。
「ユーリ、お願い! 置いて行かないでくださいまし! ユーリ!」
アンジェリカの翼から気流が完全に剥離。ディープストール。まるで太陽に近づきすぎたイカロスのように、彼女は制御を失って雲海へと堕ちていく。きりもみに陥って、視界の空と雲が、ダークブルーと白濁が、目まぐるしく入れ替わっていく。
「ユーリ、ユーリ!」
必死に手を伸ばした先。ダークブルーの空の向こうへ白銀の輝きが消えていく。それを埋め尽くすように雲海が彼女を飲み込んでいく。
やがて白銀の輝きは、ダークブルーは、白濁の向こうへと塗りつぶされ、消えた。
「いやぁぁぁぁっ! ユーリ! ユーリぃぃぃぃぃぃぃっ!」
――全身を不快が包み込んでいるのに気づいて、彼女は眠りから浮上した。
苦しい。まず得た感情はそれだった。まるで全力疾走の後のように体が酸素を、空気を求めていた。心臓の音がうるさい。まるで跳ね回るように鼓動する心臓の音と、暗い視界。天井はアンジェリカとユーリの部屋の、天蓋付きベッドの天蓋。木目がまるでガス惑星の表面のように波打っている。
ハッとして上半身を跳ね上げる。とっさに自分の左隣の存在を確認する。そこには、なんてことはない。寝間着姿のユーリがアンジェリカの方を向いて横になり、静かに寝息を立てていた。
「最悪……」
思わずぽつりと漏らす。左手で顔を抑えると、指の間からくしゃりと金色の髪がこぼれた。
寝汗でじっとりと湿る背中と頭の不快感。喉の奥がまるで直接ドライヤーでも吹きかけられたかのように乾いている。
訓練が進み、雲の中での飛行をする訓練を昼間にした。その昼間の光景からシームレスに移った、『最も恐れていること』の悪夢は、控えめに言って最悪の分類に入った。
彼女は音もなくベッドから降りた。赤いベビードール姿に、薄いレースの手袋と、ガーターベルト付きのレースの薄手のサイハイソックス。どれにもきめ細かい模様が丁寧に編み込まれている。彼女はスリッパも履かずに風呂場へ歩いていくと、電気をつけて洗面台へ。蛇口をひねると冷たい水が流れ出てきた。
手袋も取らずにアンジェリカは水をすくい取った。じんわりとレースの手袋に水がしみこむがお構いなしに、そのまま喉を鳴らして手から水を啜る。乾いた身体に、水分がしみわたっていった。まるで砂漠の中でオアシスをようやく見つけられた旅人のように、夢中になって水を飲み干していく。夜の洗面所に、洗面器に水が流れる音とアンジェリカが喉を鳴らす音だけが、静かに響いた。
どれだけ飲んだだろうか、彼女は静かに蛇口を締めると、電気を消して洗面所から外に出る。干してあるバスタオルで乱雑に手袋ごと手をぬぐって、窓際の椅子に音もなく腰掛けた。
そっとカーテンをずらすと、広がるのは暗く、青い夜空。星がまるで宝石のように瞬いていた。それがさっきまで見ていた悪夢のユーリを思い出すようで、思わず空をにらみつける。
この顔は、ユーリには見せられませんわね。
きっと、さぞ醜い顔をしているだろう。
窓を静かに開けると、冷たい夜の風が部屋に入ってくる。どうしてこんな夢を、今更。そう思ってアンジェリカは心当たりを静かに思い返すが、心当たりはない。
あるいは、オペレーションの為に一緒に空を飛ぶようになって、自分の至らなさを思い知らされた?
キリリ、と胸の奥が痛む。苦々し気に口元を歪め、彼女は夜の風を浴びる。冷たい風が両手の湿った手袋を撫でて、気化熱で冷気となった。薄いレースの寝間着と手袋は、夜風に晒されてあっという間に乾く。風が熱を奪っていくうちに、彼女の中の暗い炎のような感情も熱を奪われて鎮まっていった。
彼女はゆっくり窓を閉じ、静かにカーテンを閉める。音もなく椅子から立ち上がると、ベッドに向かった。スプリングをわずかにきしませながらベッドの上に横たわり、ユーリに身を寄せる。視界一杯に広がるユーリの顔。投げ出された彼の手をそっとアンジェリカはとり、胸元に寄せる。触れさせると、確かに感じるぬくもり。
大丈夫、彼はここにいる。
しっかりと、離さないように彼の手を抱え込む。彼女の豊かな胸がつぶれて形が歪む。それでも彼の存在を確かめるように、彼女はその手を離さなかった。
彼の熱が伝わってきて眠気が降りてくる。うつらうつらと眠気が押し寄せてきて、彼女を柔らかい眠りに誘っていった。
今度は、いい夢が見れそうだった。
「学校に行ってくる」
朝食の片づけを終えたユーリは、自分の学校の制服を飛行用バッグに詰め込みながら言った。アンジェリカは小さく目を丸くする。
「あら、何か用事でも?」
「いや、労働体験学習で学校が出してるの探そうと思って」
自分で一から探すこともできるが、学校が用意してあるものから選んだ方が申請は楽だった。自分で探すとなると、よほどの物でないと学校の審査を通らないこともある。
「あら。どういったものを探すかは、決めていて?」
「いいや、別にこだわりはないよ。とりあえず就ければいいや」
フライトスーツを身にまとい、霊力を流して身体にフィットさせる。ハーネスを調整し、電子航空免許を起動して電池残量を確認――充分だ。
しかし、そのユーリの言葉にアンジェリカはため息をついてかぶりを振った。
「いいえユーリ、働くということは確かに労働の対価を得ることですが、それを選ぶうえで重要なことを忘れていますわ」
「重要、なこと?」
準備をやめてアンジェリカの方を向いて聞き返す。むすりと不満げな表情で腕を組んでいた彼女がびしりと指を突きつけてくる。
「ずばり、強みを生かすことですわ!」
強み、と。
「強みを生かすことはそれだけ他とは一線を画すパフォーマンスを上げられますわ。そうなるとより多くの対価にもつながりますし、何より生かした強みの先で新たな展望も見れますわ」
「……そんなもん、なのかな」
ユーリは右手を胸元まで上げて掌を見る。フライトスーツに覆われた掌。感触を確かめるように、何度か握って開いてを繰り返した。
「そうですわ、そしてなにより」アンジェリカは強気に笑った。「楽しいことは、長続きしますわ」
そう都合よくあるかはともかく、それもそうかとユーリは苦笑いを浮かべた。




