11/Sub:"STOL"
頭が冷えたのだろうか、ユーリの様子は先程に比べてだいぶ落ち着いている。アンジェリカも、ユーリから血を吸って『息切れ』から回復したおかげで、先程までが嘘のように体が動くようになった。彼女のしなやかな四肢が滑らかに動いて、シャワールーム内に体軸を真っすぐにして立つ。
「立てますの?」
彼女がユーリに手を差し伸べると、彼は力なくその手を握った。
「ほら、ユーリ、水着を脱いでくださいまし」
ユーリはもう抵抗する気はなかった。大人しく下の水着を脱いでシャワールームの端に放り投げる。
「座ってくださいまし、今度は私が洗ってあげますわ」
アンジェリカがそう言うと、ユーリは先程までアンジェリカが座っていたバスチェアにへたり込む。
白いミルクの様な、濃い湯気の中でユーリの白い背中が目の前にある。筋肉がついていて、引き締まったが、細くてどこか儚い印象を受けるような背中。アンジェリカはそこに雲の中を飛ぶユーリを幻視する。ここから、この小さな背中からユーリは翼を広げて空を飛ぶ。大気を切り裂いて、音の壁を貫いて、あのダークブルーへ――。
「アンジー?」
ユーリが力なく聞いてくるのにはっと気が付いて、アンジェリカが慌ててシャワーヘッドを取った。ひねると生暖かい、人肌ほど温かさの湯がすぐに出てくる。それはじんわりと色づくように熱を帯びてきて、湯気が立ってきた。
一言言ってユーリの頭にシャワーをかける。彼の、雲のような銀色の髪が泡に絡んで揺らめく。シャワーを止めて、ユーリのシャンプーを取ろうとして、ふと手が止まる。しばし考えて、アンジェリカは自分のシャンプーを手に取った。手で軽く広げて、ユーリの頭に指を立てる。
「ユーリは髪がさらさらですわね」
「アンジーも、ね」
小さく二人が笑う。指を立ててユーリの髪を洗っていると、シャワールームにふわりと薔薇の香りが広がる。ユーリは、まだ気づいていないようだ。彼の頭はよく泡立った。
シャワーを浴びせて泡を流すと、彼の身体を伝って床に泡が流れ落ちていく。湯に流されて、彼の白い髪の毛が数本、排水溝に流れていく。シャワールームの濁った視界の中で、鈍く輝いて吸い込まれていった。
シャワーを止めると、濁ったシャワールームの中で奇妙な静寂が満ちる。渦巻く湯気が落ち着いてくると、いつしか湯気が晴れてきて、ユーリの輪郭がはっきりしてきた。普段フライトスーツに包まれている彼の肉体を、こうしてまじまじと見るのは久々だった。しげしげと見ている自分に気付いて、慌ててかぶりを振る。
「さ、さぁ、身体を拭きましょうか」
「あ、うん」
強引に話を切り替えて、それに応じてユーリが立ち上がる。湯気で濁っていたシャワールームはすでに晴れ始めている。二人は先程までとは打って変わって、どうしても視界に映ってしまうお互いの身体を意識しないようにしながら、シャワールームを出た。シャワールームからあふれ出た湯気が部屋の天井に立ち上りながら、床を這ってきた透明な空気と入れ替わって出ていく。湯気は天井を這って行ったあと、換気扇に吸い込まれていった。
二人の身体からじんわりと湯気が上がる。二人は無言でバスタオルを取って身体を拭くと、ふらふらとシャワールームを出ていく。部屋でタンスに手を乱雑に突っ込んで寝間着を取り出し、もぞもぞと着ていく。そして、そのまま体にどっと洪水のように押し寄せて来る疲れに身を任せて、髪もちゃんと乾かさぬままベッドに二人してうつ伏せに倒れ込んだ。
窓から入ってきた日の光が午前中差し込んでいたと思われるシーツは、干した後の様な香りとわずかなぬくもりがあった。
「疲れましたわ……」
「そうだねぇ……」
ユーリが左で横になっているアンジェリカのつぶやきに、力なく返した。
アンジェリカがけだるげにつぶやくのにユーリが返す。ユーリの疲労の半分はアンジェリカが原因でもあったが、それに突っ込める気力もなかった。
すぐに瞼が降りてきて、微睡に落ちていく。だんだん皮膚が湿度を失っていくうちに、肌寒さをアンジェリカは覚えた。小さく身を震わせ、顔だけユーリの方に向けてうつ伏せのままユーリのそばにごそごそと寄って身を寄せる。
ユーリの身体から光があふれた。ドラゴンブレスが形を成し、彼の身体が人のそれから竜人のそれへと変化していく。ばさりと銀色の翼が広げられ、空気をかき乱した。彼はそれを力なく広げつつ、片方の翼でアンジェリカを覆った。彼女はもぞもぞと、ユーリにさらに身を寄せる。お互いの体温が伝わって、さらに眠気を誘っていく。角が邪魔になって、ユーリはアンジェリカの方に首をむける。気持ちよさそうにまどろむ彼女の顔が、視界一杯に広がる。鼻腔に香る薔薇の香り。心地よく眠りに落ちていく。
昼のあたたかな日差しの中、二人は静かに眠りについた。
昼間に寝るとどうにも寝汗をかく。ユーリが暑さを覚えて目覚めると、夕暮れの傾いた空が窓の外に広がっているのが見えた。あっという間だった。
……午前中いっぱい飛行練習をしたとは言え、寝すぎたかな。
ユーリがのそりと身体を起こすと、彼に身体を預けていたであろう、アンジェリカが小さく身じろいた。彼は彼女を起こさないようにそっと掛布団をかぶせると、ベッドから降りた。ベッドのスプリングが小さくきしんだ。
ユーリは着ているものを脱ぎ捨てる。下着一枚になった竜人としての彼の身体の脇腹や胸元、首には、手足のそれの様な銀色の鱗が生えていた。ユーリはそのまま風呂場に歩いていくと、畳んであったフライトスーツのインナーを手に取る。汗はすっかり渇いていた。洗うのは明日にしよう。
てきぱきと、電子航空免許のついたままの機関部とインナーを合わせていき、フライトスーツを組み上げた。ユーリが小さく息を吸うと、彼の鱗が輝き、ユーリは人の姿へと戻った。そのまま彼はフライトスーツを装着する。各所にゆるみがないように、しっかりとハーネスを締めた。
音もなくドアを開け、静かに歩いてクローゼットを開け、腹部に括り付けるタイプの飛行種族用バッグを取り出して中に財布を放り込む。そしてベッドで寝ているアンジェリカの姿を横目に見て、そっと廊下に出て扉を閉めた。窓から夕陽が入る廊下は、夕日に照らされて赤く染まっていた。
廊下を歩いて一階へ。食堂のドアを開けて台所へ向かう。
「あれ、アリサ姉さん」
「あら、ユーリじゃない」
台所に行くと、ジャージ姿のアリシアが冷蔵庫を漁っていた。台所のテーブルの上には氷の入ったコップが置かれている。何か飲むものを探しているのだろうか。
「姉さん、ハイビスカスティーまだ入ってなかったっけ?」
「ああ、これね、色が凄いからすぐわかるわ」
アリシアが冷蔵庫の中からプラスチックのポットを取り出すと、中にはハイビスカスの花が浮かんだ、赤い液体が揺れていた。アリシアは冷蔵庫の扉を閉めると、コップにハイビスカスティーを注いだ。
「アンジェリカは? まだ寝てるの?」
「うん。僕はそろそろ夕飯の買い物に行こうかなって」
ユーリは飛行用のバッグを身に着ける。リュックサックを前後逆に『背負った』ような形で身体の前面につける。腰にハーネスを回して固定。余ったひもをクリップで留める。
「何か食べたいものとかある?」
「なんでも……あー」
途中まで言いかけて、アリシアは何か考えているように目線を上に向けた。そして数瞬、そのままでいたのちに口を開いた。
「パスタ。暑かったから、冷製パスタなんてどうかしら」
アリシアが冷蔵庫にポットを戻しながら言った。なるほど。すぐに作れるし、いい案かもしれない。
「わかった。じゃあトマトとツナ、買ってくるね」
アリシアと共に台所を出ながらユーリが言う。よろしくね、という彼女の言葉を後ろに、ユーリは玄関から外に出た。
「じゃあ姉さん、鍵はよろしく」
「わかったわ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
「うん、行ってきます」
ユーリは電子航空免許を起動。測位システム、衛星リンク、オンライン、高度計校正、水平指示器をブートアップ。すぐに水平指示器が重力を補足。水平を割り出し、ジャイロを起動する。
ぶわり、と霊力が膨れ上がる。彼が光と共に竜人の姿に戻り、翼が飛行術式の白い光で覆われていく。姿勢を低くし、クラウチングスタートの姿勢で離陸姿勢を取ろうとして、やめた。
ふと、アンジェリカと自分の部屋を見上げた。ユーリはクラウチングスタートの姿勢を解き、再び立ち上がって術式をアイドリング状態で維持しつつ、歩いて門の外に向かった。
道路に出ると、屋敷の影が道路に落ちていた。すっかり傾いて赤くなった太陽が町を赤一色に染め上げている。ユーリは門を出てすぐ左に曲がり、歩き出す。
五分ほどだろうか、歩いていくと小さな公園に辿りついた。時間も時間で、人はいなかった。空を見上げると、空は開いている。ほかの飛行種族の姿はない。空域はクリア。離陸可能。
ユーリは改めてクラウチングスタートの姿勢を取った。飛行術式に流し込む霊力流量を跳ね上げ、翼の飛行術式が輝きを増す。推力が一気に増え、翼の後端から噴射光がダイヤモンドコーンを描きながら伸びる。
ふっ、と鎖から解き放たれたように駆け出す。翼を大きくはためかせ、推力や飛行術式による境界層制御と合わせて短距離離着陸を行った。地面に反発したかのように身体が宙に浮き、推力を増して一気に空に駆け上る。遠雷のような轟音が一瞬響くが、空の中に竜が消えていくと、すぐに静かに住宅街の木立に吸い込まれていった。
ユーリは一気に高度を上げる。冷たい風が気持ちいい。腹に抱えたバッグの分のエリアルールを考慮しながら境界層を制御。抵抗を可能な限り減らして空気を切り裂く。両翼端からベイパートレイルを引いて一気に空に駆け上る。
垂直で上昇し、そのまま一八〇度ロール。そのままピッチアップし、水平に体軸を持っていく。空と地面が入れ替わった。西の空には、沈みかけた赤い太陽。昼間のそれとは違ってくっきりと輪郭が見えるほどに光が弱くなっていて、はっきりとその丸い形がわかる。
ユーリは再び一八〇度ロールし、インメルマンターンを完遂した。小さくロールし、出力を増しながら一八〇度旋回。そのままピッチアップし、空に昇っていく。
すでに高度は九〇〇〇フィート近く。このあたりを飛行している存在はない。あまり上昇しすぎると管制空域に入ってしまう。そこでは長居できない。様々な飛行機が日々飛び交う、いわば幹線道路だ。一気に飛びぬけるしかない。ユーリは管制空域の高度に入らないように高度を維持。上昇をやめて緩やかな旋回に移る。亜音速の気流が肌を撫でる。
空がまるで自分の物になったような感覚。このままどこまでも飛んでいけそうな錯覚。フライヤーズ・ハイ。
太陽が西の地平線に沈むと、夜の帳が東の空から迫ってくる。空にはすでに星がいくつも輝きだしていた。地上では街の明かりがまるで光の海のように広がる。
ずっとこのまま飛んでいたいと思う心地にユーリが浸っていると、ふと、空にはない香りが彼の鼻をくすぐった。薔薇の香り。境界層の内側に満ちて、ユーリの脳を刺激する。
何の臭いだろう? ユーリが記憶を巡らせると、すぐそれに思い至った。アンジェリカのシャンプーの匂い。いつも彼女が愛用している、それの匂い。
ハッとなって電子航空免許の端末で時間を確認する。幸いなことに、離陸してから二〇分も経っていないようだった。ほっと息をつきつつ、そういえば夕飯の買い物のために飛んだのだと思い出した。
いけないいけない。帰って早くみんなで夕飯食べなきゃ。
術式展開。
ユーリは飛行術式に別の術式を継ぎ足した。小さな術式で、飛行術式の端につけたされたそれはユーリの右翼端を緑に、左翼端を赤に、そして尾の先端を白く輝かせた。
彼は街のスーパーの方位を確認すると、静かに降下していった。




