10/Sub:"五里霧中"
〇Tips:用語
●霧"Mist"
霧とは、大気中の水分が飽和状態に達したもので、低い雲と同義である。雲と霧の違いは接地しているかどうかである。
霧の発生原因としては、地面に近いために地面からの冷却の影響を受ける。具体例としては、放射冷却による地面の冷却や、大きな川の水による冷却などがある。
霧と濃霧の違いは基本的に濃さによるが、日本の気象観測では1km以上の物は靄、1km未満の物を霧と定義しており、視程が200メートル未満の時は濃霧と定義される。
濃霧の中では平衡感覚の喪失や距離感がつかめないといった現象が起きるので、注意が必要である。
「ごめん! お待たせ!」
「一瞬でしたわ」
少しの布ずれの音ののち、再びドアが開けられると、そこには男用のズボンタイプの競泳水着を着たユーリがいた。
「では、お願いしますわ」
床にへたりながら言うアンジェリカにユーリは頷く。彼はすたすたと洗濯機の横まで歩いていくと、横に置いてあったシャワールーム用のバスチェアと、彼女が身体を洗うときのスポンジを取ってシャワールームの中に置く。
ユーリはアンジェリカに手を差し伸べると、彼女は静かにその手を取った。彼は自分の身体を彼女の脇の下にもぐらせると、肩を貸して彼女を立たせる。柔らかいものが彼の脇腹に当たったが、ユーリはそれについて考えないことにした。
「アンジー、立てる?」
「まだ一人だときついですわね……このままおねがいしますわ」
彼女を支えながら風呂場まで入り、そっと彼女をバスチェアの上に座らせる。白い、滑らかな足を、アンジェリカはシャワールームで窮屈そうに伸ばした。
ユーリは、その光景をできるだけ意識しないようにしながらシャワーヘッドを取った。シャワーヘッドを排水溝のそばまで降ろしつつ、シャワーの蛇口を回す。お湯の蛇口をひねると、冷たい水がシャワーヘッドから流れ出す。ユーリがそれをしばらく手で受けていると、すぐに冷水は湯気が立ち上る湯へとなった。
「じゃ、じゃあ。頭流すよ」
「ふふ、お願いしますわ」
シャワーの流量を緩やかに調整しつつ、両手をきれいに膝に置いて座る彼女が、目をつぶって少しうつむいたのを確認して彼女の頭にシャワーをかけた。まんべんなく濡らすように彼女の頭に湯をかける。金糸の様な髪が、シャワーの流れにたなびいて揺らめく。それに見とれてしまいそうになるのを何とか抑えながら、ユーリはシャワーを止めた。彼女が愛用しているシャンプーをワンプッシュ手に取り。掌になじませる。
「じゃあ、シャンプーするね」
お願いしますわ、と返事を律儀に待ってユーリは彼女の頭にシャンプーの乗った手を這わせた。柔らかな髪の毛が指の間をすり抜けるたびに、まるで質のいいビロードを撫でているかのような感触に錯覚する。爪は定期的に切っているので大丈夫だが、彼は爪を立てないように気を付けつつ、指を立てて彼女の髪を小刻みに泡立てていく。
「お嬢様、かゆいところはございませんか?」
「ふふ、お上手ですこと。平気ですわ」
幾分か慣れてきてジョークを言う余裕が出てきたので、言って空気を和ませる。そうでもしないと彼の方が、間が持たなかった。この状況で沈黙は、なによりもつらかった。
「ふふふ、昔を思い出しますわ」
「昔?」
「ユーリと、お姉さまと、アンナと。こうやって皆でよく一緒にお風呂に入っていたことを、ですわ」
「……昔の話さ」
指を立ててまんべんなく彼女の髪を洗う。彼女の滑らかな髪はするすると指の間から逃げていった。
「あら、でもそう言う割には」アンジェリカはどこか気持ちよさそうに言う。「わたくしの頭の洗い方、よく覚えていらしてるのね?」
うぐっ、とユーリがうめくのを聞いて、目を閉じたまま彼女はくすくすと笑った。
気が付くと、ユーリの目の前にはすっかり泡まみれになった彼女の頭部が目の前にあった。
「じゃあ、流すね」
先程と同じように返事を待ってから、シャワーのお湯を出した。白い泡にところどころ金糸のように彼女の髪が浮かぶ彼女の頭に、静かにシャワーを浴びせていく。文字通りにわか雨のように泡を洗い流し、白い泡が消えて汚れの落ちた彼女の滑らかな髪が見えてきた。彼女の髪は濡れて重くなったのか、いつもより心なしかボリュームが落ちたような感じがした。最も、アンジェリカは元々癖のないさらさらヘアーだったので、ほとんど誤差の様なものだが。
ユーリは手で優しく彼女の髪の水気を軽く落とす。そこに彼女の使っている、薔薇の香りのするリンスを彼女の頭にもみ込んだ。シャワールーム内の湯気に、ふわりと薔薇の香りが混ざって、頭がぼんやりしてくる。甘い香りが熱と共に、質量を伴ってユーリの鼻腔になだれ込んできた。
――これは、キツいな……。
どこかで嗅いだ覚えがあるな、とユーリが思うと、これがアンジェリカのいつも漂わせている香りだとすぐに気づき、それが彼の脳を揺らしにかかった。
「ユーリ、大丈夫ですの?」
「……うん」
鼻の奥にじんとこみあげるものが出てきそうな感覚を覚えながら、ユーリはなんとか彼女の問いに返した。その様子に一抹の不安を覚えながらも、アンジェリカは彼に身をゆだねる。
「そ、そうですの。ではリンスを流してくださいまし」
「わかった」
ユーリがリンスを流していくと、白く濁った湯が髪からあふれ出す。甘いバラの香りを伴って、白い湯はアンジェリカの柔らかな起伏を縫うようにして、肌を流れ落ちてシャワールームの床へと落ちていった。
リンスがすっかり流れ、ユーリがシャワーを止めたころ、シャワールームはすっかり湯気で真っ白になっていた。アンジェリカが前髪を後ろに流し、顔を手で拭って目を開く。そこで彼女は、何か様子がおかしいことに気付く。
「湯気、なんだか濃くありませんの……ユーリ?」
そこでアンジェリカは、ユーリがずっと押し黙っていたことに気付く。声をかけてみると、小さな声が返ってきた。
「……アンジー、結構、僕、いっぱいいっぱい、かも」
「……なるほど、それでこの湯気、ですの」
ドラゴンブレスをじんわりと放出し、部屋の外から流れてくる空気を冷やしてシャワールーム内の温かく湿った空気と混ぜることで、一時的に濃霧を作ったようだ。すぐにシャワールーム内は、一寸先も見えないミルクの中のようになった。
「何も見えませんわ」
真っ白な視界の中でアンジェリカがつぶやく。まるでかきわけることができそうな濃度の湯気の中。ふと彼女は、ユーリが雲の中を飛んでいるときはこんな感じなのか、と思った。ホワイトアウトする視界。過冷却水の水滴が吹き付けてくる中、高度計と姿勢指示計、そして方位計のみを頼りに飛ぶ。
怖くは、ないのかしら。
そんなことをぼんやりと思っている後ろで、ユーリはスポンジを手に取った。地中海産の、海綿を加工して作られたスポンジ。柔らかく肌に優しいそれを、アンジェリカは好んで使っていた。そのスポンジにボディーソープを垂らし、よくもむ。
目の前の、湯気で濁った視界にうっすらと浮かぶのは、アンジェリカの滑らかな背中。染み一つないそれを目の前にして、ごくりと喉を鳴らす。
――湯気で見えづらくして見たけど、はっきり見えてた時より倒錯してない? これ。
「ユーリ?」
「あ、いや、いまやるよ!」
ユーリは慌てて返事をする。ぼーっとしていたのをたたき起こされた気分だった。濃い湯気のヴェールをゆっくりかき分けながら、膝をついて姿勢を低くし、彼女の背にスポンジをそっと這わせる。スポンジが触れた瞬間、アンジェリカが小さく身をよじらせた。
「大丈夫?」
「平気ですわ。ちょっと、くすぐったかっただけで」
「ご、ごめん」
「いいえ、ただ」アンジェリカは小さく笑う。「こうやって背中を誰かに流してもらう、と言うのは、久々ですわ」
そういう彼女の声の、普段気づかない艶やかさに心臓が張り裂けそうなほど鼓動するのを感じながら、ユーリは無心で彼女の背中をスポンジで優しくこすった。汗と一緒に出た皮膚老廃物が、スポンジの泡に包まれて背中がどんどん綺麗になっていく。それに比例して、ユーリの脳もオーバーヒートを加速させていく。
「せなか、あらい、おわった、よ」
息も絶え絶えにユーリが言った。アンジェリカはその様子に苦笑しながら、ふと、底意地の悪そうな顔を浮かべた。
「ご苦労様でしたわ、ユーリ」
「うん、前側は、じゃあ――」
「――次は前を、洗ってくださいますこと?」
べしゃっ、と。音が後ろからして振り向くと、ユーリが風呂場の床にへたり込んでいた。すぐにカランと音を立ててシャワーヘッドが床に転がる。その顔はまるで高熱に魘されたときのように真っ赤で、まともに何かを考えられる様子ではなさそうだ。
――やりすぎましたわ。
「わ、わかった、ああ、あ、アンジーの、おっ――」
「自分で洗いますわ!」
目がぐるぐると揺れ出したのを見てアンジェリカが叫ぶ。彼がわなわなと持ち上げた右手から半ばひったくるようにスポンジを取ると、慌てて前を向いて急いで身体を洗い出す。湯で温まって結構がよくなったからだろうか、さっきよりも動くようになった手でスポンジを掴んでごしごしと四肢と身体の前を洗っていく。背後ではユーリの深く、ゆっくりとした呼吸音が一定間隔で響いていた。
アンジェリカの滑らかな四肢の上を、海綿スポンジが往復する。緩やかな起伏に合わせて形を変えながら、滑らかに汚れを落としていく。彼女が胴体を洗うと、スポンジは彼女の豊かだが、張りのある綺麗なシルエットの胸の形を変えながら、自らも形を変えて肌の汚れを落としていく。
胸が大きいと、胸元が蒸れて汚れが溜まりやすい。
――大きくてよかったですけれど、大きいとそれはそれで大変なこともありますわね……。
姉が聞いたら血の涙を流しそうなことをアンジェリカが思いつつ、身体を洗い終えると、ユーリの手から零れ落ちて床に転がっているシャワーヘッドを拾う。いつもよりも重く感じるそれを手にして、蛇口をひねって出てきた湯を身体に流す。身体から石鹸が流れ落ちていく感覚。少しだが、くすぐったかった。
「さ、さぁ、出ましょう。ユーリ」
身体を流し終わったところで、湯を止めてシャワーヘッドを低い方――いつもは高い方だが、手が届かないし一刻も早く出た方がよさそうだ――にかけると、アンジェリカは片腕で胸を隠しながら立ち上がる。ユーリはどこか夢うつつと言った様子で頷いた。
彼がふらふらと立ち上がる。そんなユーリの様子が危なっかしそうで、アンジェリカが空いている片方の手を伸ばしたところで――。
「きゃっ!」
まだ身体に十分力が戻ってなかったのか、それとも温まりすぎてのぼせたか。立ち上がった少し後に遅れてきた唐突な立ち眩みに、思わずアンジェリカはバランスを崩した。ユーリはそれに対して、ほとんど本能的に一瞬で覚醒。素早くアンジェリカの身体に手を回して引き寄せる。
「うわっ!」
だが彼もドラゴンとはいえ質量は人間の少年一人分しかない。運動量は彼に無駄なく伝わり、オーバーヒートから十分に回復できていない彼は、とうとう足を滑らせた。
とはいえ狭いシャワールーム。彼はすぐにシャワールームの壁に背中が当たり、そのままずり落ちるような形で尻餅をついただけで済んだ。尾てい骨から脊髄に伝わってくるジンジンとした感触に顔をしかめつつ――そこで、ようやくどういう状況なのか、気づいた。
「あっ……」
引き寄せた後に転んだせいで、ユーリの胸元に顔をうずめるアンジェリカ。目を強くつぶっているが、思っていた痛みが来ないのに気づき、恐る恐る目を開いていく。ユーリに引き寄せられたアンジェリカは、尻餅をついたユーリにまるでしなだれかかるように、その身体を押し付けていた。
そのことに気付いた瞬間。ユーリの顔に一瞬で朱がさしていく。これまでにない勢い。目が『今から失神しますよ』と言わんばかりに上を向く。
だが、アンジェリカの視線はその横に思わず向いてしまった。汗と、水滴とに濡れ、紅潮した、ユーリの首筋。
一瞬だった。彼女はユーリの両肩を押さえつけ、身体を押し付けながら彼の左首筋に噛みついた。氷の様な彼の血が、勢いよく啜られる。
大丈夫。さっきの様なヘマはしませんわ。
頭に血が上って失神寸前だったユーリの顔から赤みが若干だが引く。そこで、アンジェリカは牙を抜いた。傷口をぺろりとひとなめして、身体を起こす。
目の前には、顔を紅潮させたユーリの顔。だが先程よりかは頭がまだ回りそうな、理性を感じさせる表情。
二人はしばし、ミルクの様な湯気の中、見つめ合う。
「……出ましょうか」
「……うん」
アンジェリカのつぶやきに、力なくユーリは頷いた。




