08/Sub:"エクササイズ"
まずは、とユーリがアンジェリカの前に立つ。
「ん、手を出して」
「わかりましたわ」
ユーリが前に出した掌にアンジェリカが自分の掌を合わせる。丁度、押し合うような姿勢に。
「わかっているとは思うけど」
ユーリが続ける。
「飛行ってのはいくつもの術式の処理をいっぺんにしなきゃいけない。空気抵抗の低減をするため及び翼の揚力を増すための翼表面での気流と境界層の制御。翼を流れる気流の制御。ロール、ピッチ、ヨー方向の安定制御、推力操作と推力ベクトルの制御、高高度を飛ぶなら生命維持の術式も追加だ」
じわり、とユーリの全身から霊力が立ち上る。
「説明するよりも、やってみた方が早いかな。アンジー」
「はい」
「普通に『飛んで』みて。このまま」
その言葉に思わずアンジェリカは「えっ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「大丈夫。ちゃんと抑えているから。じゃあ、スタート!」
「……信じてますわよ」
その言葉に合わせてアンジェリカは左足を後ろに下げてやや前傾になり、翼を軽く羽ばたかせて飛行術式を駆動。推力を増して――。
「――っ!?」
飛行術式を動かそうとした瞬間に、まるで翼が鉛で覆われたかの如く一気に重くなった。必死に翼を動かそうとしても、びくともしない。手からじんわりと伝わってくる冷気に気付いて、正体に気付いた。
「ユーリ、抑える、とは――っ! こういう、こと、ですのねっ!」
「負荷は最初このくらいでやってみよう。この状態で飛行術式を動かし続けて」
ユーリに言われた通りやってみるが、霊力流量が負荷のせいで安定しない。どうしてもパルス状になってしまい、術式の駆動が不安定になる。そうこうしているうちに、境界層制御の術式がダウンした。慌ててそちらを再起動しようとするが、そちらに気を取られた瞬間にほかの術式への霊力供給が落ち、ダウン。結果的に霊力の翼まで消える結果になった。
ふっ、と。かかっていた負荷が消える。アンジェリカは肩で息をしていた。思わずユーリの手を放し、膝に手をついて息を荒げる。
「アンジー、ゆっくり、術式への霊力供給を増やしていってみて。どれか一つに送り込もうとすると供給量が不安定になって術式の維持ができなくなるから。出力を増やすよりも維持に意識を割いてみてよ」
「わかり、ました、わっ」
肩で息をしながらアンジェリカが答えた。想像以上にユーリのトレーニングは、厳しい。
「前、一緒に飛んだ時だったんだけど」ユーリが空を眺めながら言う。「アンジー、飛行術式への霊力供給のペースが若干ムラがある。あれだと効率が悪くなって、霊力供給が追いつかなくなって『息切れ』するまでの時間が早くなるから」
そこで、とユーリが言う。
「こうやって高負荷、抵抗をかけながら霊力を供給してもらうよ。そうやって、一定の供給量で霊力をかけ続ける練習をしよう」
それと、とユーリが言う。
「そうやって術式の処理と負荷に慣れてきたら、今度は供給量を上げる練習だ。増幅術式の駆動も練習しよう」
「はぁ、はぁ、はぁ……わかりましたわ!」
ようやく落ち着いた息でアンジェリカはユーリに返事した。この様子なら、もう少し負荷を上げる余地もありそうだな、とユーリは考える。でもまずは、先に霊力供給の練習からだ。一歩ずつ、積み重ねが重要だ。彼は手首に巻き付けて出てきた時計代わりの端末を見る。
「よし、落ち着いたもう一度やろう」
そう言って掌を向けてくるユーリの掌に、アンジェリカもさっきと同じように再び掌を合わせる。竜人状態のユーリが、ばさりと翼を羽ばたかせた。
「さっきの感覚を忘れないように。じゃあ――もう一度」
さっきの負荷に真っすぐ抗いながら飛行術式を起動する。さっきユーリに言われたことを思い出して負荷に対して滑らかに抗う。
「く、うううううううっ!」
先程とは違う。飛行術式を途切れさせずに駆動させる。赤い、光の翼が再びアンジェリカの背中から噴き出るように現れ、鋭い形を成す。
「いいよ、そのまま、推力をゆっくり上げて」
ユーリの問いに対して、返事の代わりに苦し紛れの咆哮で返した。赤い光の翼が輝き、赤い噴射光が甲高い音と共に翼の中ほどの、後端からほとばしり始める。
アンジェリカの脳裏に浮かぶのは、ユーリが空を舞う姿。完璧な機動で旋回し、綺麗なショック・ダイヤモンドコーンの噴射光を煌めかせ、翼端から白い雲の糸を引く姿。ああいう風に、自分も飛べたら、ユーリのそばに、いられたら――。
相変わらずユーリからかけられる負荷は大きいが、彼女はそれに抗い、先程彼に言われたように霊力流量を一定に流し続ける。
「よし、このまま暫く続けてみよう」
ユーリがそう言い、アンジェリカがしずかに頷いた。
あっという間に時間は経ち、トレーニングを始めたときにはまだやや傾いていた太陽は、すでに南の空の真ん中に昇っている。
いける。そう思ってアンジェリカの口元が緩む。大粒の汗がいくつも額に浮かび、頬を伝って滑らかに弧を描き、顎に垂れて日光と翼の紅い光のカクテルを反射して、煌めきながら地面に落ちて吸い込まれていく。身体にぴったりと張り付き、彼女のボディーラインを浮かび上がらせているフライトスーツは、もうリットル近くの汗を吸い込んでいてズシリと重く、中は汗で湿気て気持ちが悪い。しかし彼女の脳はランナーズ・ハイに近い状態で、そんな些細なことを気にせずに飛行術式を駆動させ続ける。それを押さえ続けるユーリも、翼をばさりと広げ、翼膜に術式の光が浮かんでは消える。彼の頬にも、汗が伝った。
このままいつまでも動かし続けていられそうな、そんな錯覚を受ける。そうしてどれほど立っただろうか。限界は急に訪れた。
「えっ?」
身体から一気に力が抜けていく。思考がふわふわして纏まらず、霊力が一気に消えていく。赤い噴射光が輝きを失い、消える。何とか飛行術式を維持しようとするも、抵抗に抗えずに流量がゼロに。飛行術式を維持できず、赤い翼が掻き消えた。
途端に全身にかかる疲労感。身体に力が入らない。手がユーリの手からすり抜けて、思わず芝の上にへたり込む。
「『息切れ』だね。でも結構持ったよ」
「どれくらい、でしたの?」
ユーリが腕の端末を見ると、なるほど、トレーニングを始めてからなかなかいい時間が経った。
「一時間五八分二四秒。この負荷で初めてにしてはかなりいいよ。これから伸ばしていこう」
「それは、いい、ニュース、ですわ」
まるで長い間水の中に潜った後のようにぜぇぜぇと息をしながらアンジェリカは答えた。
「立てる?」
ユーリがアンジェリカに手を差し伸べる。彼女はその手を掴むが、足に完全に力が入らない。
「ユーリ」アンジェリカが力なくユーリの手を引きながら言う。「動けませんわ」
その言葉に、ユーリはしまった、と言う風な顔をしたのだった。
「まいったな。ごめん」ユーリは膝をついてアンジェリカと目線の高さを合わせる。「ここまでやるつもりはなかった」
「いいえ、わたくしもつい夢中になって、限界を忘れてましたわ」
アンジェリカが苦笑いすると、ユーリもつられて笑った。
「どうする? しばらくこのまま休む?」
「そうですわね――いいえ」
ユーリの提案に乗りかけたアンジェリカが空を見上げると、白い雲がごくまばらに散らばる、青空の真ん中に輝く太陽。日差しが肌を焼く感覚を錯覚しそうだ。
「いい加減、シャワーを浴びたいですわ。部屋まで運んでくださる?」
喜んで。ユーリはそう言うと、アンジェリカの膝裏と背中に手を回し、抱き上げた。アンジェリカは軽いが、しっかり筋肉のついたしなやかな四肢は儚いというわけではなく、しっかりとした質量を感じさせる。フライトスーツのすべすべとした感触の向こうにある体温を感じながら、ユーリは彼女を部屋まで運んでいく。
ペタペタと玄関のドアの前まで歩いていくと、ユーリは翼をすぼめ、背中を扉に向けると銀色の鱗で覆われた尻尾を持ち上げ、器用にそれでドアを開けた。
「あら、こんな特技があったなんて」
「尻尾で意外とバランスとったりもできるからね」
脚ほど太くはないが、腕程補足もない尻尾は、なんだかんだ言って質量としては大きい。動かすことで瞬間的に姿勢を変えたり、そういうことができたりする。
同じように尻尾で器用にドアを閉めると、ユーリはアンジェリカを抱えながら階段を登る。横向きになって身体が壁や手すりに当たらないように登っていく。二人分の重さを受けて、木の階段が小さくきしんだ。
アンジェリカの部屋の前まで来て、先程と同じようにユーリは尻尾でドアを開けた。
「このままシャワーまでお願いしますわ」
「わかったよ」
シャワールームへのドアを同じように尻尾で開ける。中に入るとアンジェリカがここでいいですわと言ったので、ユーリは彼女を足ふきマットの上におろした。
「じゃあ、僕は外で待ってるから」
「ええ、ゆっくりシャワー浴びてきますわ」
ユーリが足を拭きながら言う。部屋を出ていくと後ろ手に静かにシャワー室のドアを閉めた。
ユーリの角と翼、手足が光に覆われ、形を変えていく。そうして流れるように竜人から人形態になった彼はそのまま窓際の椅子に歩いていくと、座る。日が斜めに差し込んで、ユーリを照らした。温かい。
温かい日差しの中、ユーリは静かに眠気に襲われた。すぐにうとうとし始めて――唐突に、それは破られた。
「ユーリぃ!」
風呂場から彼を呼ぶ声。弾かれたように椅子から立ち上がると、早歩きでシャワールームまで歩いていく。ドアの前まで来ると、ドアをノックする。
「アンジー?」
中から返事が返ってきたので、中に入る。中に入ると、アンジェリカが床に転がっていた。片腕には腕が入っていないらしく、フライトスーツの左腕がぺたりと床に流れている。
「……どうしたの?」
すると、彼女はもぞもぞと数回動いた後で、真顔でユーリに言った。
「脱げませんわ」
「もう進退窮まっちゃった感じ?」
「……動けませんわ」
ユーリは、苦笑いを浮かべた。




