07/Sub:"地上試験"
「不覚ですわ……」
アンジェリカが顔を真っ赤にし、片手で顔を覆いながら言った。彼女の唇は、口紅でも刺したかのように赤い。
「珍しいね、アンジーが『酔う』なんて」
ユーリが上体を起こし、アンジェリカの股の間から抜け出ながら言う。霊力をかなり吸ったようだが、そこまで血の方は吸われていなかったらしい。特にくらくらするといった症状は今のところ出ていない。
「申し訳ありませんわ」
アンジェリカは正座にぴしりと居直って、そう言う。
「最近、僕の血吸えなかったもんねえ」
「連日いろいろな手続きで忙しかったのもあって、吸う機会を逃し気味になっていたところに、無防備な貴方の姿を見たらつい……」
そういう彼女の雰囲気からは、申し訳なさと同時に自分のふがいなさへの怒りや、くやしさと言った感情がにじみ出ているように、ユーリは感じた。
「まあ」ユーリは軽く笑う。「ちょっと、懐かしかった、かな」
思い出すのは、アンジェリカが日本に引っ越してきて少し経ったくらいの出来事。アンジェリカがユーリの家に頻繁に遊びに来て、二人きりになったときにいっつも吸われていたこと。
「思い出さないでくださいまし!」
顔を真っ赤にしながらアンジェリカがユーリに詰め寄る。思い返せば、ファーストキスもこうやって自然に奪われていた気がする。幼いころの『最初』の思い出など、もう忘れてしまった。
「いやぁ、今思えば可愛かったなぁ。吸うたびに『酔って』、僕に対していろんなとこちゅうちゅうしてたあの頃のアンジェリカ」
「きゃああああああああ!?」
頭を抱えて叫ぶ彼女に、ユーリは気をよくする。普段から振り回されている仕返しとばかりの勢いだった。
まぁ、これ以上は野暮だろう。そう思って、膝立ちになると、崩れた正座の姿勢のまま頭を抱えたままの彼女をそっと胸元に抱き寄せた。
「大丈夫だよ。アンジーはもう平気?」
「……へいきですわ」
手を弱弱しく背中に回してくる彼女を、片手で胸元に抱きかかえながらもう片手でそっと頭を撫でる。ドラゴンの霊力をゆっくり流し、手を『ひんやりさせる』。
少しだろうか。そうやって部屋の中で静かに時間が流れると、彼女が『もう大丈夫ですわ』と言ってそっとユーリの胸元から――少し名残惜しそうに――離れた。彼女の頭を撫でていた彼の片手の指の間を、彼女の金色の髪が流体のように流れていく。
「まぁ、これから気をつけようね」
「そうさせていただきますわ」
今回の出来事は、自分の霊力状況の管理をミスしたことが原因だ。再発防止を徹底しよう、と彼女は硬く心に刻み付ける。
「……まぁ、時と場所を選んでくれれば、それも悪くないか」
「?」
小さく彼が何かを言ったのに気づいて小さく疑問符を上げる。
「今何かおっしゃいまして?」
すると、今度はユーリの方が動揺し始めた。
「い、いや、別に。なんでもないよ!」
小さく『今の声に出ちゃったのか……』と言っていたが、まだ混乱から完全に抜けきってはいないアンジェリカには何のことだか、脳の処理が追い付かない。
「じゃ、じゃあ今回はこれでおしまい! いいね!」
ユーリがそういうのに、アンジェリカは黙って頷いた。
のそりとベッドから降りると、彼女の下腹部から胸元にかけて、じんわりと広がる熱の様なものを感じる。さっきかなりの量の霊力をユーリから吸い上げた影響はまだ大きいようで、どうにか霊力をある程度消費して『酔い覚まし』がしたかった。
「そうですわ!」
アンジェリカが名案を思い付いた、と声を上げる。
「ユーリ、飛行練習に付き合ってくださいまし!」
それはいい提案だ、とユーリは彼女の提案に乗ろうとベッドから降りて、小さく違和感に気付く。少し体のレスポンスが遅かったような。原因を考えてみて、すぐに気づいた。
「あー。ちょっと空には上がりたくはないかも」
すると、まるでこの世のものではないものを見たかのような目でアンジェリカが見てきたので、違うよとかぶりを振って返す。
「ちょっと血が抜けたみたいだ」ユーリは右手を小さく握ったり開いたりして言う。「飛べなくはないけど、アンジーにいろいろ教えながら一緒に飛ぶなら、万全の状態の方がいい」
そう彼が答えると、アンジェリカは納得したように頷いた。それでもまだ驚きの光は目から消えていない。
「大丈夫、空に上がらなくたってやれることはある。アンジー、フライトスーツに着替えて。庭先で練習をしよう」
小さく疑問符を浮かべるアンジェリカ。できること、とは何だろう? とりあえず彼の促す通りに自分のフライトスーツに着替えようと動く。自分のタンスにつかつかと歩いて近寄り、引き出しの中からそれを手に取る。グレーを基調として赤い模様が入った、彼女のフライトスーツ。少しでもユーリの飛んでいる高さに近づきたくて、家の手伝いなどいろいろ努力して買った、彼女の『勝負服』。その一着が、丁寧にたたまれてタンスの中に入っていた。
アンジェリカは服を脱ぐと、軽く畳んでベッドの上に置く。暗い赤を基調とした色の、下着も脱いだ。今日の下着は普通の奴だ。スポーツ用の物に変えなければ、動きづらいだろう。代わりにつけたのは、しっかりと身体を支えることができ、それでいて動きやすさを損なわない、スポーツ下着。着慣れたそれを、アンジェリカは慣れた手つきで身に着ける。
フライトスーツは身体にぴったりと張り付くダイビングスーツのようなタイプだった。足からスーツに身体を入れていき、それを首筋まで持ち上げる。首筋のところの、チョーカーの様なリングで留めると、オーダーメイドで彼女の身体に合わせて作ったそれはぴたりと、まるで第二の皮膚のように彼女の身体に密着した。こんこん、とつま先で床をつつき、それから胴をひねってちゃんとフィットしているかどうかを確かめる。大丈夫そうだ。あとは電子航空免許の端末を腕に巻いて――。
「あ、免許はいらないよ。飛ぶわけじゃないから」
そう背中からユーリの声がかかり、彼女は端末をタンスの中に戻す。タンスを締めて振り返ると、ユーリが運動着に着替えていた。半袖短パンの、彼がいつもランニングに行くときなどで着ているものだった。ただいつものとは、少々デザインが違う。
背中と臀部上部に、スリットがついていた。
「準備できたね、さぁ、行こうか」
部屋から出る彼について行く。
「それにしても、意外でしたわ」
アンジェリカが、ユーリの背中に向かって言うと、彼は歩きながら『何が?』と返してきた。
「いいえ、あなたが『飛ばない』という選択肢をとるような人物だとは、今まで思ってもみなかったので」
すると、彼は心底心外だと言わんばかりに立ち止まって振り返る。
「ひどいや、そういう風に僕の事見てたの?」
「普段のあなたの行動を鑑みて、同じことが言えます?」
すると、ユーリはあー、とやや上を見上げながらつぶやく。それから口の中でひとことふたこと、言葉を選んで、言った。
「なんだろう、こう、飛ぶからには万全でいたいというか……最高のパフォーマンスを出していたいというか……」
特に、君と飛ぶなら。そう言いかけて言葉を飲み込む。
「プロ意識?」
「そう、プロ意識!」
アンジェリカが言ったのに合点がいき、そう勢いよく返すと、彼女も納得したように苦笑いで返す。
「やっぱり、ユーリが空を飛ぶ姿は、素敵ですわ」
なんだかそう真正面から言われたのが恥ずかしくて、踵を返して玄関に向かって歩き出す。彼女もそれに続いた。
彼を追って玄関まで降りると、ユーリはそのまま外に出る。外は朝日に照らされてまぶしかった。青空に白い積雲がまばらに広がっている。先程よりも、雲は減ったようだった。
玄関を出て、門まで続く石畳。そこからそれて脇に降りる直前、ユーリの四肢が輝きだす。流れるように人から竜人形態へと変化した彼は、芝生――屋敷の騒動の後、綺麗に刈ったら、多少まともになった――に歩き出る。石畳の反対側は、土がむき出しになっていた。
「さて」
立ち止まって振り返ったユーリがアンジェリカに向かって言う。
「これからやるのは、所謂『地上試験』だ」
「地上試験?」
別に空を飛ぶだけが訓練方法ではない。霊力でくみ上げる飛行術式の制御や負荷への対応。術式作動中のマルチタスクなど、それこそ空に上がる前にやるべきことはいくらでもある。できないならできることをやるまで。そうやって最高のパフォーマンスを出さないと、重力を振り切ることなんてできやしない。
それが、彼のモットーだった。
「説明するより、やってみよう。アンジー、フライトモードオン」
そうユーリが言うのに反応して、アンジェリカは飛行術式を起動した。
術式展開。術式をブートアップ。全術式駆動、すべて正常起動。霊力流量安定。
彼女の背中からジワリと赤いもやの様なものが広がり、一気に速度を持って噴き出て空中で形を成す。真っ赤に妖しく輝く、両腕を広げたほどよりも二回りほど広い翼幅の、彼女が霊力で編んだ飛行術式の翼。ドラゴンであるユーリのそれとは違い、ヴァンパイアのアンジェリカの翼は完全なエネルギー体だ。コウモリのようではあるが、本物のそれとは違ってどこか輪郭はぼやけていて、羽毛で覆われた鳥の翼のように見えなくもない。真っ赤な凹凸の質感がない翼の表面は立体感もなく、真っ赤な翼にさっきユーリから吸った霊力だろうか、青白い煌めきがラメのようにまばらに瞬いていた。
星空みたいで綺麗だな。何となくユーリはそう思った。
「よし、じゃあ早速練習を始めようか」




