02/Sub:"騒音問題"
重い大気に乗って、ユーリが緩やかに降下してくる。
青い光が段々と強くなっていくその様子を、アンジェリカは窓辺に置いたテーブル横の椅子に座りながら眺めていた。彼女の服装は、寝間着であるベビードールの上に薄手の、赤くグラデーションのかかったネグリジェ。未だに残るベッドの柔らかい熱が、涼しげな風に緩やかに持ち去られていく。
小さくついたため息も、静かに風が持ち去っていった。
見上げる先では、ユーリが着陸地点に向けてアプローチに入っていた。朝、まだ日が昇る前に隣でユーリが起きたと思ったらのそのそとフライトスーツを着込んで飛び立っていった。さすがに配慮したのか、やや静かに飛び立っていったものの、飛行術式の高音はくぐもって響き、遠雷のように寝室に響いた。おかげでアンジェリカは、誰かがベッドから抜けていく感覚と共に、目が覚めてしまった。休日の微睡はむなしく彼によって残酷な終わりを告げることになったのだった。
ユーリが空に輝きを残して消えていく様を見送ってから、彼女はハーブティーを淹れた。マロウブルーの色がはじめは紫、青、そして赤と変わっていくのを楽しみ、最後にレモンと蜂蜜を垂らして混ぜると、血の様に鮮やかな赤に変わる。アンジェリカはこの色の変化を見るのが好きだった。青から赤へ。まるで夜に、吸血鬼の時間になるような、ユーリの青い霊力を自分の赤で塗りつぶすような。
すっかり冷めてぬるくなってしまったそれを、ユーリが降りてくるのを見ながら、アンジェリカはハーブティーを流し込んだ。
ユーリは翼面を最大に広げながら抵抗と揚力を同時に増しつつ、速度と高度を滑らかに殺しながら降りて来た。翼の先端が湿度の高い空気を巻き込んで渦を巻き、ベイパートレイルを引いて白い糸を青い空の中にたなびかせる。上空の自由大気の中はやや横風があるのか、体の向きはこちらに完全に向いておらず、やや左に斜めになっている。
ユーリは地上の着陸位置を視界にとらえつつ、姿勢を制御する。着陸位置である屋敷の前の道路はクリア。横風がある。若干左にサイドスリップしながら、ファイナルアプローチに入る。残り一〇〇フィート。
五〇フィートほどまで降りたところで、地表の境界層に入ったのか急に横風が弱くなった。それどころか、若干の乱流の様相を呈している。しかし、そこまで強くない。降りるのには問題ないと判断し、着陸を継続。弱くなった横風の分、斜めになっていた姿勢を戻して着陸位置に向かって空を滑っていく。
残り数フィートで、機首上げ。ふわりと浮き上がり、水平速度がほぼゼロになったままアスファルトを踏みしめた。飛行術式に流す霊力を遮断し、術式を閉鎖していく。術式の青い輝きと高音が鎮まっていった。生暖かい風が、天界から降りてきた竜を、静かに包み込んだ。
広げていた翼を静かにたたみ、翼が光に包まれて消えていく。そうしてそこに立っていたのは高高度を飛ぶための特殊フライトスーツに身を包んだ、一人の銀色の少年。
ふぅ、とユーリが息をつくとドラゴンブレスが吐息に混ざり、空気中の水蒸気を凝結させて白いダイヤモンドダストを作り出した。それは朝日に照らされてキラキラとしばらく輝いていたが、そのうち生暖かい空気と混ざって、消えた。
ユーリは静かに玄関に向かう。朝のこの時間帯は車も走っておらずに静かだった。門を、音を立てないように静かに開けると、小さく金属がきしむ音が鳴った。後ろ手に門をそっと閉める。
完全密閉式のフライトスーツのポケットのジッパーを下ろし、中に入っている鍵を取り出す。玄関に鍵を差し込んで入ると、玄関に置かれたマットレスの上にビニール袋と、その上に濡れたタオルが置いてあった。ユーリが飛びに行く前に用意していたものだった。彼は足の裏をタオルで拭く。道路からここまで少し歩いてきただけだが、白いタオルは茶色に汚れた。彼はそれをビニール袋に突っ込むと、玄関に置かれたマットの上から降りる。簡易的な玄関として使っているものだった。このマットを降りれば、ここから先は部屋履き、と言うことだ。
玄関入って真っすぐのところにあるドア――あの祭壇があった部屋だ――は、まだ撤去途中で、青いビニールシートが引かれた上に工事の足場が置かれていて、鉄筋コンクリートの屋敷の骨材がむき出しになっている。今後あそこには壁を張る予定だった。
ユーリは階段を登る。わずかにきしんでいた木製の階段は、音を立てないようになっていた。静かに足音だけを響かせながら、二階に上がると、一階と同じように工事の足場が置かれている壁。
アンジェリカとユーリの部屋の前にたどり着く。ユーリは中で寝ているだろうアンジェリカを起こさないようにそっとドアノブをひねる。音を立たせないようにドアを開けて中に身体を滑り込ませた。
「お帰りなさい。ずいぶん楽しんできたようですわね?」
だから、部屋に入ったときにいきなり投げかけられた言葉に、静かに吸っていた息が一瞬詰まる。そして真っ白になった頭が一拍の後すぐに回復し、状況を再確認する。アンジーが座っている窓際の椅子の前に置かれた、机の上にはもう湯気の立っていないティーポッド。どうも随分前から起きていたようだ。
ひょっとして。
「離陸した時から起きてた?」
そうユーリが聞くと、彼女は小さくため息をつきながら頷いた。どうやら思ったより騒音を出していたらしい。
出力を絞って離陸するべきか、公園まで歩いて行ってから離陸するべきか、それか一気に上昇して騒音から引き離すべきか。なんにしろ、これから早朝にこうして飛ぶなら考慮しないといけないだろう。
「ごめん」
ユーリは一言謝ってアンジェリカの向かいに座る。手に持っていた鍵はテーブルの上に置いた。自分でティーポッドから自分の為だろうか、置かれていたカップに注ぐ。青く透き通った液体が白いカップに注がれる。まるで成層圏の空の色の様なそれに、ユーリは見覚えがあった。
「コモンマロウ?」
「ですわ」
ウスベニアオイの花の茶。水溶液中の水素イオン濃度によって変色する――酸性か塩基性かによって色を変えるハーブティー。淹れたばかりはこうして鮮やかな青色になるハーブティーだった。
ユーリはすっかり冷めてしまったそれを静かにぐいと流し込む。ハーブ特有の香りが鼻腔を吹き抜け、冷たさとなって乾いた胃に流れ落ちていった。
「次からは」アンジェリカが言う。「もう少し、早く帰ってきてくださいまし」
その言葉にユーリは若干驚く。てっきり騒音で起こしたことを怒られるかと思っていた。
「あー、うん。できるだけ早く戻れるように頑張る」
「これから共同生活で料理当番などを貴方に頼むこともあるのですから、そういう時にフライトに夢中になって遅刻されると困りますわ」
なるほど理の適った言い分に、ユーリはぐうの音も出なかった。
「わかった、これから気を付けるよ」
「そうしてくださいまし」
シャワー浴びてくるよ、残しておいて、と言いユーリは入口の方の洗面所に歩いていく。洗面所に入ると、入口のところにある給湯スイッチを入れた。
ユーリはフライトスーツのハーネスを緩めていき、脱ぐ。露わになる引き締まった身体。汗のしみこんだフライトスーツを抱えると、ズシリと重い。フライトスーツの接続部分を一つ一つ丁寧に外していくと、CNT繊維製のフライトスーツのインナー部分と、フライトコンピュータやハーネスと言った機関部が綺麗に分かれる。身体にフィットするような形のインナー部分を洗濯籠に放り込み、機関部を丁寧にたたんで隅に置く。
シャワールームの、ガラス製の透明なドアを開けてシャワースペースに入る。シャワーヘッドを横に向けて湯の蛇口をひねると、シャワーヘッドから冷たい水が出てガラスの壁を塗らす。足元に冷水がかかってしびれるような感覚を覚えた。冷水は、すぐに湯になった。シャワーヘッドからにわか雨のように噴き出るお湯が湯気を纏いだす。すぐにガラスは曇って、外はうすぼんやりと靄がかかったように見えなくなった。
ユーリは温水を頭から浴びた。温かい。先程までの極寒の世界とは違う、身体の中に染み入ってくるような熱。身体に張り付いていた汗が流れ落ちていく。
ユーリの身体から光があふれた。光に覆われた四肢が銀色の鱗に覆われ、臀部からは鱗に覆われた尾が伸び、頭部からは一対の角が生え、そして背中から力強さを感じさせると同時に流麗なシルエットの翼が生える。
だがここはシャワースペースの中だ。翼を広げるスペースは無いが、ユーリは翼にシャワーを当てる。温かい。翼膜が水をはじいて湯気が宙を踊る。
鋭い爪の生えた手でガシガシと翼に温水を浴びながら髪を洗う。シャンプーはよく泡立った。髪が泡まみれなまま、ハンドタオルに石鹸を付けて角を磨く。そのまま頭にシャワーをかぶると、汚れがすべて流れ落ちていく感覚がはっきりと分かった。心地よい。そのまま体を丁寧に洗っていく。
シャワーを止めると、全身から湯気が上がった。湯冷めしないようにドアを開けて手を隙間から出してバスタオルを取り、全身を拭いていく。水分をしっかりふき取ったところで出て、洗濯機の上に置いてある着替えを手に取った。下半身は作務衣の様なゆったりしたズボン。上半身は患者衣のように着て、開いた背中に垂れた後垂れをかけて腰のところで結んで留める。
シャワースペースから出て翼をばさりと動かすと、湯気がぶわりと舞った。身体はまだ熱を帯びている。まだ湿り気の残る髪を乱暴にタオルでかき回しながら、ユーリは洗面所を出た。




