表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青春と幻想のストラトポーズ  作者: 失木 各人
01/Chapter:"インターシスター"
27/217

01/Sub:"フリーフライト"

 谷筋に、朝が訪れた。

 彼は山小屋の扉をくぐって外に出た。冬の雪に耐えるように二重になった、その内側の、砂ぼこりで汚れたガラスの嵌った戸をずらして外絵に出ると、明るい空がまぶしいが稜線に阻まれて日の光はまだ谷を照らすには至っていない。

 空は八割ほどが雲に覆われてはいたが、まだ晴れとは言えなくもない天気だ。高気圧に覆われて、これから晴れる予報らしい。自由対流高度こそ下がっているが、平衡高度はそれほど高くはない。発雷確率(POT)もそれほど高くなかったし、全球モデル(GSM)でもメソスケールモデル(MSM)でも雷雲の予想はなかった。今日はいい天気になるだろう。

 深呼吸をする。森の木々が降らせた枯葉が積もった土が醸されて発する香りが、木々の幹の香りが、苔むした岩の香りが、ミックスされて鼻腔をくすぐる。独特な、山の匂い。悪くない。都会のコンクリートジャングルでは嗅げないこの香りが、彼は好きであった。

 昨日のアタックは成功だった。ガスにまみれてはいたものの、無事に山頂にたどり着くことができ、無事にカールを降りてこの谷筋の山小屋にまで降りてくることができた。谷筋を流れる川で水には困らないのか、汗を流せる清潔な風呂にも入ることができた。もう今日はゲートのバス停まで歩いていくだけだ。そこまでたどり着いたら、退屈な日常に戻ろう。

 名残惜しく感じるように、彼はゆっくりと歩き出す。谷を流れる青い透き通った澤がごうごうと音を立てて谷を響かせる。それが延々と、森の中に整備された登山道に響き渡っていた。

 そこでふと、彼の耳が異なった音をとらえた。

 雷の音か? と最初に疑ったものの、積乱雲は発生しているような天候ではない。やや早足になりながら登山道を進む。空が見たかった。

 木々が切れて広い河原に出る。白い花崗岩の岩が転がる河原の中央を、青く透明な川が流れている。上を向くと、雲がの切れ間に見える青い空。音は、そこから聞こえてきている。

 目を凝らす。そこには、朝の青い空しか広がっていないように見える。

 その時だった。


「……?」


 雲の隙間の、青い空。そこに、まるで流星のように一瞬だけ、しかし一等星のように強く輝く、銀色のまばゆい閃光が、確かに走った。




 銀翼が、空を切り裂く。

 翼端から引いたベイパークラウドが、雲の隙間を縫うように空に回廊を描く。ユーリは右、左、と旋回しながら雲の迷宮の中をとびぬける。全身にかかるGが心地よい。対流層は高く積雲の柱を自由対流層の中にいくつも立てていた。その隙間を縫ってユーリはとびぬける。数百ノットの大気の流れの中、空気の抵抗を感じながら何度も旋回を繰り返して、翼に羽毛の様な減圧雲(ベイパークラウド)を纏っていく。

 目の前に急に雲の壁。速度も出ている。雲の回廊はもうない、躊躇せずに飛び込んだ。一気に湿った空気が顔に叩きつけられる。冷たい過冷却の水滴が一斉に体にぶつかって着氷。銀色の鱗が、角が、四肢が一気に着氷(ライミング)を起こして白く染まっていく。途端に空気が剥離。翼の効きが悪くなった。

 ユーリは一八〇度ロール。白く濁った世界の中、地面があるはずの方向が頭上になる。一気にピッチアップ。白く濁った視界。高度が一気に減って気温が急激に上がる。ライムアイスが溶け始めた。翼にこびりついていた氷が一気に剥がれ落ちる。剥がれた氷はパラパラと翼が起こした気流に巻き込まれて、細かく砕けながら雲の中に消えていった。

 雲の底を突き抜けた、ミルク色の視界がクリアになる。鈍い空に照らされた山並み。鋭い山稜の先端は、雲の底に頭を突っ込んでいた。水と大気が数万年かけて侵食した渓谷。ユーリは谷の中央の大気が安定している個所を選んで飛行。谷に彼が大気をたたき割る音が鳴り響く。

 雷鳴の様な音が谷間をたたく中、曇天の空に音がすいこまれていく。切れ間から大きく傾いて差し込む日光がスポットライトのように谷間を照らす中、ユーリは速度を維持したまま緩やかに旋回。谷間の丁度中央を貫くようにとびぬける。気流は安定している。ウィンドシアはない。静かな空だ。

 ユーリは谷筋を飛びぬけ、尾根へ真っすぐと駆け上っていく。綺麗に削られたカールが流れるように後ろに飛んでいく。尾根は雲の中だ。事前に頭に叩き込んである地形図と電子航空免許端末に表示されるGPS高度計、そして気圧高度計の数値を突き合わせ、余裕をもって尾根をとびぬける機動を描く。雲に突入。視界が再びミルク色に染まった。

 高度がどんどん上がっていく。五千フィート、六千フィート、七千フィート。一万フィートまで上昇して、唐突に雲を抜けた。まるで冬の荒れた海のように波打ち、うねる雲海を飛び越え、雲を翼の端にひっかけて上昇。広がるのはまだ西に黒い色を残す空と、朝焼けが燃える東の空。そして地平線からやや上に登って、周囲をスカイブルーに染め上げている朝日。グラデーションが広がる朝の空の中、雲海に一筋の跡を残しながら、ユーリは電子航空免許の表示を頼りに目的の方角へと進路を微調整した。

 いい加減H(ヘッド)M(マウント)D(ディスプレイ)が欲しいなぁ。

 ユーリは遷音速の気流の中小さくため息をつく。飛行術式により境界層を制御し、ユーリの周囲の空気はエリアルールに基づいた空を飛行するのに最適な形の境界層を形成している。おかげで、遷音速で飛行していても、ユーリの体表では――外の気流に比べて――穏やかな流れの気流が流れている。

 スポーツ用、しかも飛行種族用のものとなるとHMDはなかなか高価で、下手するとフライトスーツの三分の一ほどの値段にも匹敵する。フライトスーツで貯金の大半を切り崩してしまった以上、彼にHMDを買う余裕は、現在なかった。

 アルバイト、何にしよっかな。

 もうじきユーリも高校生だ。何らかのアルバイトをする権利が学校側からも認められている。彼は、HMDの代金をそれで稼ぐつもりでいた。学校側からも、将来の就職体験として様々な提携アルバイトへの研修という形で労働力をごく短期間だが提供している。ユーリはそのプログラムを早速申し込む気でいた。問題は何をするかだ。体力には自信もあるし、地道な作業も我慢してやる自身もある。下手に選り好みしなければ、そこそこいいアルバイトに就くことはできるだろう。

 広がるスカイブルーは、静かに頭上に横たわっている。地平線から登ってまだ間もない大洋が雲海を照らす中をユーリは飛び続ける。風を切る翼の音と、飛行術式の甲高い音以外は何も聞こえない、ユーリ以外の存在を感じない空の中。

 ユーリはピッチアップ。急上昇。推力を増して重力に抗って加速、全身にかかるGをどこか心地よく感じながら、ストラトスフェアへと飛び込んでいく。空からスカイブルーが抜け、ダークブルーの空へと入れ替わっていった。あっという間に対流圏界面(トロポポーズ)を突き抜けた。十万フィート。飛び込む空がどんどん色を失って吸い込まれるような色へと変化していく。大気が薄くなっていく。地上のそれとは違う、匂いのない乾いた、稀薄な大気。成層圏中間の大気を貫いて、ユーリはズーム上昇。

 十四万フィート。ストラトポーズ。


「……――っ!」


 越えようとしたその時、ユーリの身体に悪寒が走る。ユーリはそのまま一八〇度ロール、ピッチアップして機首ベクトルを地上に向ける。

 また、越えられなかった。

 背面飛行するユーリの背には地球、目の前に広がるのは漆黒の世界。背面で飛んでいると、まるでこのまま推力を切ったら漆黒に降下し、落下し、墜落してしまうかのような錯覚にも陥った。その感覚に、彼の腹の底から冷たいものがせり上がってくるような感覚を覚えた。

 ユーリは推力を切った。低下していく速度。あっという間に翼が大気から離れてユーリは重力に支配される。失速。落下していくのは、青白く輪郭が縁取られた、もやがかかったように濁る大地。目の前から虚無が遠ざかっていった。

 降下とともに急に気圧が増す。身体を真綿のように包む大気圧は、成層圏の希薄な空気のそれに比べてどこか、泥のように錯覚した。ダークブルーがスカイブルーに変化していき、対流圏界面に到達。三月の圏界面は冬のそれに比べていくらか上がっているようだった。夏になれば、四万フィート近くに達するだろう。ユーリが面を突き抜けたとき、明確にそれと感じる瞬間はなかったが、成層圏を降下していく際にどんどん下がっていた気温がふと上昇に転じ、彼はそれで圏界面を通り抜けたことを実感する。

 飛行術式の推力をアイドリング状態に。境界層を制御し、抵抗を少なくしながら滑空して降下。なんてことはない。ちょっとした遊びだった。動力を切ってどこまで滑空できるか。ユーリは滑らかに空気を切りながら降下していく。速度がどんどん落ちていくので、失速しないように降下率を調整、自分の飛行特性(フライトエンベロープ)に合わせて速度を微調整――まだ大気は薄い。やや速度を維持しておいた方がいいと判断――翼が揚力を十分生み出せる速度を維持しながら降下していった。

 高度が下がるとともに気圧が増す。空気が生み出す揚力も増えるが、同時に抵抗も増えた。翼の飛行術式を操作し、高揚力装置のように緻密に空気の流れをコントロールする。揚力は彼に重力に抗う魔法のように作用し、彼を空中に浮かび上がらせ続ける。

 空中を滑りながら大地に吸い込まれていく。降下率は十分低くなっている。上手くシアラインに乗れればもう少し飛距離を稼げるかもしれない。ユーリは左右を確認するが、明らかな雲列はない。これでは高度を無駄にするだけだろう。遅くなった速度を回復するために降下率を上げる。背の高い雲に輪郭を部分的に隠された地平線が、下からせり上がってくる。同時に増す対気速度。翼を中心とした飛行術式を操作し、体表の境界層を制御して抵抗に抗う。無動力で飛ぶなら、通常よりも空力に気を遣う。大変だが、これはこれで楽しい。

 降下率を維持しながら雲頂に到達。凹凸のある雲が摩天楼のように立ち並ぶ中、急に横向きの風に殴られた。すぐに反応、対応して姿勢を立て直す。しかし、別方向の風に殴られてふたたび体勢が崩れそうになるが、すぐに対応。

 この近辺ではまだ山岳波による対流が活発ならしい。乱気流(タービュランス)まみれだ。右から左から上から下から吹く風に対応しながらユーリは雲の中に突入する。先程突っ込んだ雲と違って、雲の水滴は過冷却に達してはいない。生暖かい水滴と空気がミルクのように渦巻く積雲の中を風に煽られながら降下。完全に有視界を失った中、腕の電子航空免許端末の気圧高度計、水平指示計を睨みながら降下率を維持。しばらくすると雲を抜ける。

 雲底は対流の影響で凹凸がひどかった。あの一つ一つが対流のセルと考えるとなるほど、乱気流(タービュランス)がひどいわけだ。

 方位を確認。方位修正、一―四―〇。

 再び飛行術式に霊力を通す。推力が生じ、翼から青白い噴射光がダイヤモンドコーンの様な模様を描いて煌めく。背中を押されるように加速。翼端から雲の糸を引いて空を翼が切り裂いていく。

 高度四三〇〇フィートを維持しながら、ユーリは旋回。屋敷へと進路を変えた。もうそこまで距離はない。緩やかに彼は降下体勢に入る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] これが読みたかった……!と言う感想です。 飛行描写が本当に美しいですよね。楽しんで書いているんだろうなぁというのが分かるような、描写に感嘆してしまいます。 ユーリ君がウキウキで飛んでいるの…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ