12/Sub:"ガラス"
カレーを食べ終えると、二人で店を出る。腹の底の方から熱が上がってくるような感覚。まるでガンジス川だな、とユーリは柄にもない比喩を試みて、それを消す。
店を出る時にフェンネルシードをもらったおかげで、口の中はさわやかだった。エスニックな香りが鼻腔に抜ける中、二人で家路を歩く。ユーリがさした日傘の影を、アンジェリカが歩く。
「ユーリ」アンジェリカがユーリの手に触れながら言った。「『日焼け止め』、お願いしますわ」
「喜んで」
ユーリはアンジェリカに流す霊力を操作。指向性を持たせて、電磁波を赤方偏移させる。ジワリとアンジェリカの周囲が赤くなったように見えた。
「ありがとう。丁度、日の光を浴びたかったですわ」
アンジェリカがそう言うと、ユーリは肩をすくめながら日傘を閉じた。
「で、どう?」
「パーフェクトですわ。ユーリ。少々太陽が赤く見える気もしますが、空はより青くなったように感じますの」
そう言って楽しそうに空を見上げるアンジェリカ。紅い瞳の、縦長の瞳孔がスッと細まるのが横から見えた。
「原理的には空も青くなるはずなんだけれど。対比の錯視かな。あまり詳しくないけれど」
「ふふ。案外、貴方の霊力が空を蒼くしているのかも」
ユーリは、ただ肩をすくめた。
電車に乗って数駅。最寄りの駅で降りて駅前のスーパーで買い物を済ませ、家路を往く。アンジェリカは夏の太陽を楽しんでいるようだった。もちろん、ユーリによる冷却は続けているが、それでも吸血鬼がこうして日の光を存分に浴びるというのは、何とも不思議な光景である。ユーリは、自分の片手に握られた、閉じられた日傘が不平不満を述べているような、そんな気がした。
家にはのんびり歩いて三〇分ほどでついた。門を開け、向日葵の咲き誇る庭の間を通って玄関へ向かう。
「随分と咲いていますわね」
「これだけ咲いていたら、食べる量の種が取れるかもしれない」
「あら? 野菜用の農薬を使っていると思ったら、そう言うことでしたのね」
「一応、ね」
ユーリは自分の背丈並みに伸びた向日葵と、その先で開く、顔ほど大きな花を見る。まるで皆既日食の太陽のようにも見えるそれは、春先に皆既日食の影を追いかけたことを思い出させた。
「小さな花の集合体、なんだっけ」
ユーリが向日葵を見ながらつぶやくと、アンジェリカはええ、と頷く。
「中央の色の濃い部分は筒状の花の集合体、周囲の花弁は花弁の付いた小さな花の集合体ですわね」
「紫陽花みたいだね。あっちは雨のイメージで、こちらは晴れのイメージ、だけど」
「ユーリはどちらがお好き?」
「どちらも、かな」
玄関のドアを開けて屋敷に入ると、炎天下の外に比べて明らかにヒンヤリとした空気が漂う。断熱材や熱循環システム……それにユーリの霊力の浸透が起こった結果だった。階段を昇って自分たちの部屋に入り、洗面所で二人一緒に手を洗う。
「シャワー、浴びようかな」
ユーリは、服の喉元を緩めながら言った。
「わたくしも浴びますわ……流石に、少し汗をかきましたの」
「なら、お先にどうぞ」
ユーリがそう言うと、アンジェリカはにっこりとほほ笑む。
「では、お言葉に甘えて」
ユーリが洗面所から出て行うと、服を脱ぐ音と、それからシャワーの音が静かに響く。ユーリは自分の喉が渇いている事を意識する。何か、飲むものを持ってこよう。できるだけ爽やかなものを。そう思って部屋を出て階下に向かった。
台所に向かう。静かで薄暗い食堂を抜け、台所に入ると台所はシンと静まり返っていた。さて、何を作ろうか、と思ったところで先程の会話を思い出した。
「そうだ」
ユーリは電気ケトルに湯を入れてスイッチを押すと、一旦台所を出て玄関先に出た。玄関の脇のプランターに植えてある、盛大に茂ったレモングラス。それの青く茂る葉をいくつか、鋏で切り取った。手元で小さく束になったそれを持って台所に戻り、表面を軽く水で洗っているとケトルから小さくカチリと音が鳴った。ユーリは耐熱強化ガラス製のポットにレモングラスを10センチほどの長さに切って放り込むと、ケトルを取って熱湯を中に流し込んだ。ふわりと台所に漂う、柑橘類のさわやかな香り。透明な湯が薄く、若草を思わせる色に色づく。
台所のドアが開く音。おや、と思っていると、ひょっこりと桃色が顔を覗かせた。
「あら? 良い香り」
「咲江さん」
そこにいたのは、シャツにホットパンツ姿の咲江だった。
「帰っていたんですね」
「ええ。ついさっき。ようやっと、休みよ」
そう言って背伸びをする咲江。言葉の端々からは、疲労がにじみ出ているようだった。
「飲みます?」
ユーリがポットを見せるように差し出すと、興味津々、と言った表情でケトルを見つめる咲江。
「レモングラスのお茶ね。丁度いいわ。いただくわね」
「アイス? ホット?」
「アイスで……と言いたいところだけど、冷めるのには少し時間がかかりそうかしら」
「大丈夫ですよ」
そう言ってユーリはグラスを一つ取り出すと、飲み口の横に手をかざす。すると、その周囲が一瞬赤く歪んだ後、青白く輝きだす。そうしてユーリはグラスにポットからレモングラスティーを注いだ。コップはすぐに、水滴に覆われ始めた。
「驚いた。ドラゴンブレスのコントロール、そこまでできてきたのね」
「優秀な先生のおかげですよ」
そうほほ笑んでユーリはキンキンに冷えたグラスを咲江に差し出す。
「ふふ、ありがとう」
そう言ってくい、とグラスに口をつける咲江、こく、こく、と喉を静かにならして飲んでいる間にユーリはもう二つのグラスに同じようにレモングラスティーを注いだ。
「それはアンジェリカちゃんの分?」
「ええ。外が暑かったので。アンジーは今シャワーです」
「私もさっき浴びた所よ。まだまだ外は暑くて。空が恋しいわ」
ユーリは肩をすくめた。高度35,000フィートほどにまで昇れば、今でも氷点下だろう。グラスに注がれるレモングラスティーが、部屋の中の大気を巻き込んでこぽこぽと泡を立て、グラスの中で小さな擾乱を作り出した。
「残りは、自然に覚ました後に冷蔵庫に戻しますね」
「急に冷やすと、温度差でボトルが割れるのよね。何度もやらかしたことがあるわ」
そう言って咲江は苦笑いを浮かべる。
「お気に入りだった琉球ガラスのコップを、割っちゃったことがあってね」
「それは……なんというか、お気の毒です」
「大丈夫よ。紐で括って、ペン立てにしているから」
咲江がそう言うと、ユーリが小さく目を見開いて、それなら、と声を上げた。
「アリシア姉さんに頼むと、良いかもしれません」
「アリシアちゃんが?」
咲江が意外そうな表情を浮かべる。
「アリシア姉さん、金継ぎができるんです。陶器も、ガラスも」
「それは……またすごいわね」
咲江は驚愕しつつも、感心しているようだった。ユーリは頬を小さく掻きながら苦笑いを浮かべる。
「アリシア姉さん、手先は凄く器用なんですよ。PCを自作したり、ゲーム機を改造したり、簡単なソフトウェアやAI学習データを作ったりなんかもできます」
「金継ぎもその一環で?」
「ええ。将来は工学系に進むんだ、って言っていました」
「STEMね。悪くないわ」
咲江が飲み終えたグラスを台所に置く。
「もう一杯いります?」
「あら、ありがとう」
大きめのグラスに入れたのだが、それでも喉が渇いていたのか、もう一度注ぐとポットの中身はだいぶ減ってしまった。ユーリは自分の分のグラスを手に取り、飲む。口いっぱいに広がるレモングラスの、名を冠する柑橘の香り。ユーリはこれが、レモンと同じ芳香性物質を含んでいるから、と言うのは知識として知っていた。それでもただのイネ科の植物から果実と同じ香りがするという事実は、なんだか不思議な感覚がした。
ごく、ごく、と喉を鳴らしながら中身を飲む。飲み切ると、喉から先程のフェンネルシードの香りが混ざり合うようだった。空になったグラスにもう一度同じ様に冷却しながら注ぐと、ポットは空になった。
「もう一度摘んだ方がいいかしら」
「もう一度なら、まだ出ますよ」
ユーリはもう一度ケトルに水を入れて湯を沸かす。湯を沸かすのを待っていると、そうだ、と咲江が呟いた。
「今日はアルバイトだったの?」
「はい。今日はスクラムジェットの試験でした。高高度でマッハ3まで加速して、それから試験機がバーナーに点火。それだけです」
スクラムジェット。ユーリのその単語に咲江の目がどこか懐かしそうな色を帯びる。
「スクラムジェットかぁ。ストラトオウルで吹かしていた時を思い出すわ」
「詳細は聞かないでおきますよ」
「大丈夫よ。機密は話さないわ」
軍人のブラックジョークを聞いて、ユーリは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そうだ、ユーリ君、これ見た?」
「これ?」
そう言って咲江は尻のポケットから端末を取り出した。そうしてそれをユーリに見せる。ユーリがそれを覗き込むと、そこに映っていたのは先程まで見ていたエアレース大会の中継映像だった。昼休憩が終わって、午後の部が始まっている。ユーリの表情が一瞬歪む。それを見て、咲江が目を細めた。
「何か、気に入らないことがあるようね」
ユーリは、画面から目をできるだけ離さないようにしながら、台所にもたれかかった。
「少し、嫌な思い出があるだけです」
「そう」
それ以上、咲江は何も言わなかった。ただテーブルに端末を置いて、腕を組んでそれを見つめる。
「フェルトブルクさんが飛んでるのよね」
「知ってるんですか?」
「もちろん。彼女、飛行部のエースよ?」
咲江にもそこまで注目されているのか。ユーリの中でアルマに対する評価がまた上がった。
「ともかく、僕は部屋に戻ります。アンジーがそろそろシャワーから出るでしょうし」
「あら? 私もついて行っていいかしら。皆で見ましょう?」
逃げ道を塞ぐような言い分。ユーリは咲江の瞳を見据えるが、彼女の紫から桃色にグラデーションがかかったような瞳は、そんなユーリの瞳を真っすぐ見据え返した。
ユーリは、肩を落として、ため息をついた。
「いいですよ。ただ、僕もシャワーを浴びます」
「ええ。アンジェリカちゃんも含めて、三人で見ましょう」
ユーリは降伏宣言をする。咲江はただ満足そうに微笑んだ。




