10/Sub:"スクラムジェット"
45,000フィートの空。対流圏界面より下に雲が点々と浮かぶ、蒼穹の空。銀翼が、群青の空を切り裂いていく。
「こちらユーリ、予定高度に到達」
成層圏の中を、ユーリは飛ぶ。希薄な大気の中を、翼を飛行術式の青白い光で包み、噴射光で輝かせながら音速の壁の前で立ち止まっていた。
『了解。予定通り、試験を開始する』
無線機から返答。ユーリは誰に宛てたでもなく、小さく頷いた。
『これより、ゴー・ノーゴーチェックを行う。ブースター』
「ゴー」
ユーリはただ簡潔に答えた。
『エンジン』
『ゴー』
『サーマル』
『ゴー』
『フュエル』
『ゴー』
『エレクトリック』
『ゴー』
『ガイダンス』
『ゴー』
『コントロールサービス』
『ゴー』
『コミュニケーション』
『ゴー』
『エフ・エー・オー』
『ゴー』
『リカバリー』
『ゴー』
『こちらコントロール、全チェック完了だ』
ユーリはフライトスーツのハーネスに繋がり、牽引している荷物に微かに視線を移した。CNT繊維製の、ガムテープほどの幅のテザーの先に繋がれていたのは、灰色の機体。のっぺりと横に平べったいそのリフティングボディ機は、まるで見方によってはショートボードのサーフボードの様だった。機体上部には小さな垂直尾翼が四枚等間隔に並び、機体の横には魚の胸鰭の様な小さな主翼が斜め上を向きながら伸びていた。機体下部には、箱型の大きなエアインテーク。機体の動翼は、ユーリに牽引されながら姿勢を制御するためにかすかに動いていて、それは牽引しているユーリにもわかった。
機体を牽引しながら、ユーリは高高度を飛ぶ。全て事前の打ち合わせ通りにミッションは進んでいる。通信機に向かって、口を開いた。
「こちらユーリ、三〇秒後に加速開始します」
『三〇秒後に加速。スタンバイ』
無線通信の返答を聞いてユーリは視界の中の時計の秒数を睨む。
「5、4、3、2、1……、マーク」
ユーリの飛行術式が大きく嘶き、高音がけたたましく空を揺らす。飛行術式の噴射光がダイヤモンドコーンを描いて伸び、ユーリの身体が弾かれたように加速し出した。遷音速で飛行していたユーリはすぐに音速を突破し、それからぐんぐんと加速していく。同時に機首――顔の温度が高くなっていくのを、境界層を制御し、ドラゴンブレスで冷却しながら加速を続ける。
『マッハ2.3。マッハ2.4』
「リリース準備」
ユーリは方位と高度を安定させることに神経を使い、加速を続ける。マッハ3に到達したところで、加速をやめた。対気速度計を睨み、マッハ数3を維持する。
「マッハ3を維持」
『了解。リリースまで一〇秒。点火シーケンス開始』
同時に、牽引していた機体がぐん、と軽くなる。同時に足に感じるかすかな熱。
『5、4、3、2、1、リリース、リリース』
その言葉と同時に微かにハーネスにかかっていた力が緩むのを感じた。テザーが巻き取られる小さな振動。同時にユーリは緩やかにピッチアップし、同時に右にロール。機体を後方乱気流に巻き込まないようにしながら離脱。視線を進行方向から下に移すと、ユーリの視線の先では、赤く透明な炎を吐き出しながら加速していく機体の姿。
『スクラムジェット、燃焼中。スロットルを100パーセントに』
同時にユーリも加速を開始。加速していく機体に並んで空を駆ける。小さく胸元に取り付けたカメラのレンズが動く振動を感じた。
『マッハ5.6。マッハ5.7』
機体はどんどん加速していき、それに合わせてユーリも加速していくが、同時にユーリの速度限界も近づいてくる。向こうの方が小型で軽量で、高効率だった。ユーリと機体。両方がイオン化した空気に覆われ始める。極超音速域に到達。
『マッハ6.9。マッハ7……チェイス終了』
通信が聞こえてくるのを聞いて、ユーリは緩やかに推力を落とす。さらに加速を続けていく機体と距離がどんどんと離れていく。このままあの機体は1,000ノーティカルマイル余りを飛行し、北海道の空港に着陸する予定だ。
「ミッション完了。ユーリ、帰投します」
『ありがとう。いいデータが取れた。ここまでで、最低限の実験成果は得られた』
「以降の幸運を祈りますよ。ユーリ、アウト」
マッハ3まで降りてきたところで、ユーリは緩やかに左旋回。空を滑らかに切り裂いていく感触を翼で感じながら、飛行場へと進路を変えた。
『ユーリ』
通信機から飛んでくる声。アンジェリカだ。
「アンジー、どうしたの?」
『アルマ部長のレース、そろそろ始まりますわよ』
「そうか」
『あら? 気にならないの?』
アンジェリカが意外そうな声を上げるが、ユーリは平然と返す。
「勝つさ。彼女なら」
『信頼していますのね』
「彼女より速く飛べる人を知らないだけさ」
『貴方と咲江以外には、でしょう?』
どこか呆れたような声のアンジェリカ。
『ラジオを繋げましょうか?』
「いいや。飛ぶときは飛ぶのに集中していたい。帰ってから、君とアルマ部長の口から聞くさ」
ユーリがそうぶっきらぼうに言うと、通信機の向こうから呆れたようなため息の音が聞こえてきた。
『久々に空に上がれて、文字通り舞い上がっているのではなくて?』
少々痛い所を突かれた、そんな気がした。ユーリは思わずしばしの沈黙を返してしまう。そうして、口の中に滞った言葉を絞り出すようにしてようやく彼女の問いに答えた。
「それも、ある、と思う」
『アルマ部長も、貴方の姿を会場で探しているかもしれませんわよ?』
「いいや、それはないさ」ユーリは、即答した。「だって、同じ空に居るだろう」
『呆れた。空の視点を持つ者の傲慢ですわよ、それは』
「僕だったらそうする、ってだけさ。それに、彼女も超えるべき相手に応援されるのは、複雑だろうに」
東京コントロールとコンタクト。マッハ1.5まで減速。
「アンジー、また後で」
きっと今頃、琵琶湖上空は空域がぽっかりと開いている事だろう。ユーリはそのような事を頭の片隅で考えながら東京コントロールの指示に従い、空中の見えない迷路を進んでいく。いくつもの空の交通が交差することで発生する、空の見えない道。380ノットに減速し、FL35まで降下。事前に提出したフライトプランに沿って、FL10以下の非管制空域を目指して降りていく。
日本列島の中央、構造線に挟まれ、周囲を山に囲まれた細長い盆地。長野盆地へ向けて降下していくと、目当ての物が目に入った。田畑と雑木林、住宅に囲まれた、細長い茶色。グライダーや、飛行種族用の滑走・助走路。管制もされていない、ただ細長い空き地とでも言うべきそれへと降下していく。
『ユーリ、滑走路はクリア。クリアトゥランド』
「こちらユーリ、着陸体勢」
速度は110ノット、高度は3500フィートまで落ちている。ユーリは推力をほぼ絞り、翼を大きく広げて抵抗と揚力を同時に増しながら目標地点へと降下。速度と高度が同時に落ちて行く。
着陸地点という点へ向けた、なめらかな坂道をゆっくりと一歩一歩降りていく。既に足元の景色はミニチュアのそれから一つ一つ形が分かるような高度にまで降りてきていた。500フィート。滑走路手前の田んぼを飛び越え、滑走路に進入。フレア。翼が盛大に土埃を巻き上げた。足が地面を捉え、小走りで地面を蹴りながらゆっくりと減速していき、そうしてユーリは地面に降り立った。
『ナイスランド、ですわ』
「どうも」
ユーリが夏の、地上の空気を精一杯吸い込むと、肺の中に湿って熱を帯びた空気が入ってきて、先程まで吸っていた高高度の空気の余韻を台無しにしてきた。そのあまりの儚さにユーリは小さく肩を落としながら滑走路から脇に出る。
滑走路わきにはテントと、車が一台にトラックが一台停まっていた。大学の研究室の車だが、今度は学部が違う。工学部航空宇宙工学科。いつもの気象学研からの紹介だった。教授がユーリに気付き、話しかけてくる。
「お疲れ様。実験機も帯広ベースで回収されました。ご協力、本当にありがとうございます」
そう言ってバイト代の入った封筒を渡してくる。相変わらず封筒が分厚い。寄ってきたアンジェリカと一緒に覗き込むと、驚くほどの価格が入っている。
スクラムジェットエンジンの試験は大変だ、超音速風洞を使うにしても百数十万の金がかかり、しかも燃焼試験ができるのは――昔に比べるとそれでも長くなったが――せいぜい十秒ほど。かといって、長時間の燃焼試験をしようとするならそれこそ飛行機をチャーターし、ロケットブースターを使う必要がある。ユーリの『バイト代』は、それに比べると本当に文字通り雀の涙ほどの金額だった。技術が進んでも、空と言うのは相変わらず高い所にある。
ユーリはテントに入り、貸与されていたフライトスーツを脱ぐ。機関部に牽引用のウィンチと、胸部にチェイス時のカメラがつけられたフライトスーツは、さながら様々な装備を付けた与圧服の様だった。機関部と、ぐっしょりと汗を吸って重くなったインナーを脱いで下着一枚になる。湿った肌を、生暖かい風が凪ぐ。げんなりしながらドラゴンブレスをわずかに放出してテントの中の温度を下げながら、畳んでいた服に着替える。靴を履いてテントの外に出ると、アンジェリカがユーリのバッグを持って待ち構えていた。
「僕が言った通り、だっただろ?」
アンジェリカは無言で自分の端末を差し出す。琵琶湖で行われている、飛行種族によるエアレースの全国大会がネット中継されていた。オンデマンドの機能で巻き戻すと、アルマのフライトが映し出される。のぞき込むと、かなりの好タイムを叩きだしているようだった。
「優勝でしょうね」アンジェリカがユーリに向かって呆れながら言う。「他の選手に比べて二回りほど、差をつけていますわ」
ユーリは、仮想空間で共に飛んだ黒竜の姿を思い出す。それを思うに、この結果は至極妥当に思えた。




