01/Sub:"アクシデント・フライト"
翼が、空を滑らかに切り裂いていく。
ユーリは徐々に降下を始める。高高度の冷たい大気がゆっくりと熱くなっていくのを感じながら、進路を確認。そこには、まるで山脈のように横一列に並ぶ積乱雲。どれも対流圏界面に雲頂が達し、かなとこ状の上部を横にたなびかせていた。
随分と、発達しているな。
ユーリは屋敷に向けて進路を取りつつ、雲の足元に注意を向ける。工場の煙の立ち方や、雨の有無。
そういったものに注意を払いつつ、ユーリは徐々に積乱雲の足元――空で最も危険な場所の一つに向けて、高度を落としていく。
飛行停止処分が明けて、長いようで短かった夏休みももうゴールに向けて走り出している頃。ユーリは久々の休日、と言うことで少し遠出をすることにした。具体的には、沖縄まで飛んでいったのである。沖縄の上空は米軍やら自衛隊やらユニオンやらの飛行制限空域まみれで、離着陸はひどく苦労した。苦労の甲斐もあってか、ユーリのフライトバッグの中には今。あぐー豚の冷凍肉や、海ぶどうと言った名産品が詰まっている。
久々のロングフライト。現地でソーキ蕎麦を食べたり、市場を見て回ったりといろいろできたのは幸いだった。アンジェリカ達への土産話もできた。リハビリのつもりで飛んでいたのだが、ついつい成層圏をスーパークルーズしたりもした。
小さくアラートが鳴る。何事か、と術式にPingを送ると、フライトスーツの生命維持機能がダウンしているとの警告。またか、とユーリは思いつつ、機能をシャットダウンした。高高度における生命維持はユーリのドラゴンとしての種族的本能の術式が行っている。これが出るのは初めてではなく、既にフライトスーツはいくつもの機能が壊れていた。既に購入してから五年以上経つ、軍のお下がりのフライトスーツは、ユーリの飛行時間を合わせると、少なくとも5,000時間以上の酷使に晒されている。ましてや、ユーリという、ドラゴンの高出力の霊力を常に浴び続けているようなものだ。こうしてガタが来るのも、時間の問題であっただろう。
ユーリとしては正直なところ、通信機能と速度計・姿勢指示計としての機能さえ生きていれば問題なかった。それが壊れだしたら、いよいよもって買い替え時だろうか。
「買い替え、かあ」
遷音速の気流の中で、思わずつぶやく。アルバイトでそこそこの収入はあるが、生活費の方に回してしまっているために貯蓄はほとんど無いようなものだ。元の、三年間の生活に関する試練も、最初の幽霊屋敷の刑事・民事裁判騒動と賠償金を経て、『元が取れる』ほどの額が入ってきた結果、ほとんどあってないようなものになってしまった。それでもなお、ユーリがこうしてアルバイトをしているのは、将来の事を考えての事である。証明して見せたいのだ、アンジェリカ達だけで、生きていけると。
そう考えると、フライトスーツもある意味『仕事道具』と言えなくもないだろうか。仕事経費で落とすとしたら、どうなるのだろうか。ユーリは妙な疑問を浮かべつつも、高度を下げる。高度15,000フィート。
「む」
ちらり、と積乱雲が光ったような。そんな気がした。ユーリに嫌な予感がよぎる。早く地上に降下した方が良さそうだ。
推力を落とし、機首を下げる。対気速度が上昇するのを抵抗で抑えながら、降下を続ける。
再び雲が光った。いよいよもって拙いかもしれない。積乱雲は最早内部の熱対流によって巨大なジェネレーターと化している。放電が始まっているということは、内部の電荷がもう限界に達しているということでもある。そうなれば、空を飛行している物体は格好の的だ。
幸い、雷雲まではまだ距離がある。早いうちに着陸すれば大丈夫だろう。
そうユーリは判断して、さらに高度を落とした。
――雷雲の内部。凄まじい熱対流のせいで、内部はゴルフボール大の雹がまるでジャグジーの泡のように上下していた。その過程で発生した膨大な電荷は、ついに限界に達し、空気の絶縁破壊を起こした。
電子雪崩が、空気を切り裂く。先端部は空気分子と激しく衝突し、その軌道を何度も曲げながら大気を貫く。少しでも抵抗が低い場所を目指して、大気を水平に貫く。。電荷が通じやすい場所へ。空気中の、密度がかすかに異なるそれを通り道のようにして、電子雪崩は大気を貫いた。
「えっ」
――ユーリの残した飛行機雲を、紫電が貫いた。
「がっ――!」
ユーリの身体に衝撃が走る。視界が一瞬で真っ白になり、身体の感覚が一瞬で消える。直後に襲い掛かってくる、全身を焼く熱。身体が今どちらを向いているのかわからない。何とか視界が戻ってくると、自分がきりもみで落下しているのに気づいた。
『Sink Rate, Sink Rate, Pull up, Pull up』
電子航空免許のGPWSがユーリの脳内に警報を直接鳴らしてくる。どうやら、これで意識を取り戻したらしい。咄嗟にきりもみ回転に逆トルクを当て、ロール方向の回転を打ち消す。すぐに翼が失速から回復し、真正面に見えるのは、地面。
「あが、れええええええっ!」
ユーリの頭部と脚部横から光の翼が伸び、足の裏の噴射光が膨れ上がる。推力を偏向させ、強引にピッチアップ。翼が白煙を纏い、地上まで1,000フィートを切っていたところで急上昇。何とか水平飛行に持っていく。
「っ……!」
頭がずき、と痛んだ。流石にこの最大出力モードは負荷が高い。それもあるが、全身がずきずきと痛む。まるで全身の筋肉が攣ったかのようだ。上手く姿勢制御ができない。ダッチロールしているような気がする。空は既に積乱雲の下に入ってしまい、鉛のような灰色の空。
どこか、素早く着陸しないと。そう思った次の瞬間、ユーリの身体がふわ、と浮く。ユーリの血の気が、引いた。
マズい。マズいマズいマズい!
急な向かい風のせいで対気速度が増す中、ユーリの高度がどんどん上がって行く。だが、ユーリはこの後に待ち受けるものが分かっていた。向かい風が、唐突に止む。
急激な下降気流が、ユーリに襲い掛かった。
高度が急激に下がる。ユーリは推力を最大にしながらその暴風に抗い、ただその下降気流を抜ける時を待ち続ける。
その時は、唐突に訪れた。
「……来たっ!」
下降気流が唐突に止み、直後、強烈な追い風がユーリを襲う。対気速度が一気に低下する。翼が小さく振動する。ユーリは推力を最大に。対気速度を無理矢理回復。同時に上昇。
「上がれ上がれ上がれ……!」
徐々に、追い風が収まってくる。対気速度が回復してくると、ユーリはゆっくりと推力を落とした。水平飛行に移る。
どこか、早く降りられる場所を。
視線を巡らし、場所を探す。先程被雷してから、しばらく流されていたようで、周囲の風景は見覚えのないものになっていた。遠くの山稜の形を見る限りだと、おそらく北側に流されたらしい。進路を南に向け、高度を取りながら飛行する。再度被雷しない事を祈りつつ、進路を屋敷に向ける。
屋敷の上空までにはそうかからなかった。しかし、既に雨は降り出していて、ユーリの頬に時折、大粒の雨が当たって砕けた。ユーリの翼の表面に当たった雨粒が瞬時に凍って、後ろに鈍く煌めく氷の破片となって流れて行く。屋敷に向け降下。痛みのせいで上手くコントロールできない。翼を広げて境界層を制御し、対気速度と降下速度の調整を行いながら何とか、屋敷の前に半ば墜落するようにして着陸。転げて、盛大に地面を擦った。ガリガリと火花が散り、アスファルトに跡が残る。
「いっ……」
立とうとして、小さく声を漏らした。ぽつ、ぽつ、と雨が降り出す。ユーリの身体を雨が濡らして、あっという間にびしょ濡れになった。かろうじて玄関の門に手をかけたところで、屋敷のドアが勢いよく開いた。
「ユーリっ!」
アンジェリカが、悲壮な表情で飛び出してきた。ユーリはなんとか心配かけさせまいと、ぎこちなく笑って見せるが、かえって悪影響だったらしい。彼女の顔が青くなる。アンジェリカはユーリに駆け寄ってきて、肩を貸す。
「ユーリ、どうしたのです!?」
「はは……ちょっと、雷に打たれちゃって」
「ちょっとではありませんわ!」
半ば背負うようにしてアンジェリカはユーリを家まで運び込む。ぽたぽたと水滴を垂らしながら二階へ。二人の部屋に入ると、流石に騒ぎを聞きつけたのか、皆も駆けつけてきた。ユーリは洗面所の床に、ゆっくりと寝かされた。フライトスーツは、半分が焦げ付いているような状況だ。
「ユーリ、フライトスーツを……駄目ですわ、焦げて、開放できない」
「切っていいよ……もう、壊れたみたい」
「アンナ! 『銀朱』を! よく研いでいますわよね!」
「わかった!」
そう言ってアリアンナが部屋を飛び出していく。咲江は、部屋から救急箱を持ってきてくれた。
アリアンナはすぐに戻ってきた。片手には、鞘に納められた短刀が握られている。アンジェリカはそれを受け取ると抜き放ち、ハーネスを切断して機関部を取り外す。インナーだけになるユーリ。彼女は、ユーリの首元から『銀朱』をスーツに差し込み、刃を立てる。スーツは、するすると抵抗なく切れていった。
「いっ……つつ……!」
皮膚がひりひりする。ユーリは歯を食いしばって、その痛みに耐える。アンジェリカがフライトスーツを引っぺがすと、下着一枚になるが、その身体にはびっしりとシダの葉の様な模様が刻まれていた。エリサが、ひゅっ、と声を漏らした。
「二度の火傷ね……消毒するわ」
そう言って、咲江はハンカチをユーリに噛ませる。そうして彼女は、消毒液をゆっくりユーリにかけていく。消毒の痛みで、ユーリは小さく呻く。
「アンジェリカ、早く病院に連絡を――」
咲江がそう言った瞬間、アンジェリカは『銀朱』の切っ先を自分の胸に向けた。察したアリシアが、エリサの目を咄嗟に手で覆う。
直後、アンジェリカは自分の胸に、『銀朱』を勢いよく突き刺した。
「アンジェリカちゃん!? 何を!?」
咲江が叫ぶが、アンジェリカは小さく呻きながら『銀朱』を引き抜くと、傷口に自分の手を勢いよく突っ込んだ。
「ぐ、うおおおおおっ!」
咆哮の様な叫びに、目を隠されたエリサが思わずびくりと震える。ぶちぶちと肉が裂ける音と共に、アンジェリカは自分の胸から手を引き抜く。握られているのは、どくどくと脈打つ心臓。それを、ユーリの上でライムでも絞るかのように握りつぶした。血が、床で寝ているユーリに顔から盛大にかかった。そうやって、ユーリの全身に血をまんべんなくぶっかけていく。その光景に、咲江とユーリが呆気に取られる。
「あ、アンジー!」
自分の痛みも忘れてユーリが叫ぶが、その時には既に再生が始まっていた。ユーリにかけられた血がパキパキと割れて端から消えていき、アンジェリカの手の中の心臓が赤い光になって砕け散る。そうやってまるで逆再生しているようにアンジェリカの胸元の傷が消えていき、そしてそこには、胸元が切れただけのアンジェリカの服が残った。
「ユーリ、怪我は」
小さく肩で息をしながら、アンジェリカはユーリに尋ねる。ユーリが自分の身体を見下ろすと、先程まで盛大に描いていた火傷の後は、うっすらとしか残っていない。
「……吸血鬼の、治癒能力の付与ね」
咲江が、小さく安堵の声と共に言う。ユーリは、自分の身体を触った後に、複雑な表情を浮かべた。
「ありがとう、アンジー」
「これくらい、平気ですわ」
そう言って元気を取り繕うが、少し顔色が悪い。一気に力を使ったのと、直前までのストレス。それが一気に来ているようだった。
「アンジェリカ」アリシアが目隠しを解いたエリサが言う。「私の血を、吸ってくださいまし」
アンジェリカは、しばしの逡巡ののち、ため息とともに頷いた。
「お言葉に、甘えさせていただきますわ」
「ユーリさんの為ですもの。私にも役立たせてくださいまし」
そう言って、エリサはアンジェリカの手を引いて洗面所を出ていく。アリアンナも、それに付き添った。
「ユーリ、大丈夫?」
アリシアがしゃがんで、心配そうな表情でユーリに尋ねる。
「ほぼ治ったけど……ごめん、ちょっとひりひりする」
「火傷用のパッチシートがあるわ。貼ってあげるから、身体を拭きましょう」
咲江とアリシアに手伝われて、ユーリは立ち上がって洗面所を後にした。
洗面所には、焦げて切り裂かれた、フライトスーツだったものだけが残されていた。




