77/Sub:"無心"
「咲江さん?」
ユーリが不思議そうに尋ねると、彼女は車の助手席を親指で指さす。乗れ、と言うことらしい。大人しくユーリは助手席側に回ると、ドアを開ける。ちらりと見えた後部座席には、何故か大量の野菜や飲み物。
「買い出しですか?」
シートベルトを締めたユーリが彼女に尋ねると、咲江は小さく疑問符を浮かべた。
「あれ? アンジェリカちゃんから何も聞いてないの?」
「はい」
ユーリがそう答えると、彼女は苦笑いを浮かべた。
「アンジェリカちゃんも、気まずいのかしら」
困ったものね、と言って彼女はカーラジオをかけた。エルトン・ジョンの『ロケットマン』。
「ただ、腹を空かせるように、とだけ」
ユーリは呟いた。
「バーベキューをするのよ」咲江は、赤信号で止まりながら言った。「別荘で出来なかったから、って」
それと、と咲江はつづけた。
「エリサちゃんの、『釈放』祝いでもあるわ」
「取り調べ、終わったんですね」
「ええ。『晴れて無一文ですわ』って、笑ってたわ」
肩をすくめる咲江。ユーリは、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
車はあっという間に屋敷についた。車が近づくと、駐車場の門が自動で開く。駐車場に咲江が車を停めるが、まるで戦闘機の操縦のように、なめらかな駐車だった。綺麗に中央に停められている。エンジンを止めると、静かに鳴っていたエンジン音が低くなり、消えた。
「持ちますよ」
「大丈夫よ。それより、玄関の鍵をお願い」
「了解」
戦闘機パイロットなら、軽いものか。そう思ってユーリは車から降りる。すっかりヒマワリとオクラが咲き誇る庭の横の道を歩いて玄関に向かい、バッグから鍵を取り出す。
鍵を差し込み、捻り、開ける。それだけの動作のはずなのに、それがなぜかやたら重く感じた。ユーリがドアノブを持って固まっていると、荷物を持った咲江の腕がドアを軽々と押す。
「ほら、早く準備しましょ?」
「……はい」
背中を押されるようにして、ユーリは屋敷の中に入った。
「ただいまー」
咲江が屋敷内に叫ぶと、静まり返った屋敷から、ドタドタと足音が台所の方から聞こえてきた。
「咲江さん、お帰り! 早く仕込みしないと――あっ」
出てきたのは、アリアンナ。水着にエプロンと言う不思議な格好をしていたが、ユーリの顔を見た瞬間その表情が固まる。流れる、沈黙。咲江は肩をすくめながら彼女の横を通り過ぎてキッチンに入っていった。
「え……えと、ユーリ兄さん」
アリアンナは、どこか悩んでいるようだった。ユーリは、しばらくアリアンナと顔を見合わせて、それで言う。
「……ただいま。アンナ」
「……うん、おかえり」
アリアンナは、ユーリをそっと抱きしめる。彼も、彼女をそっと抱きしめた。
「兄さん。ちょっと、痩せた?」
「ずっと家に籠りっきりで、ご飯もあまり食べてなかった、からかな」
二人は顔を見合わせた。アリアンナは、どこか安心したような表情を浮かべる。
「なら、いっぱい食べなきゃね」
ユーリは彼女の恰好を見下ろす。
「ところで、どうして水着?」
ユーリがそう尋ねると、アリアンナはこれかい? と言ってエプロンをまくり上げてみせる。そこにあったのは、キリスィマスィで見た水着を着た、アリアンナの腰から下。
「少し、痩せたかい?」
「うん。兄さんがいないと、みんな食事をこだわらなくなっちゃって」あ、でも、とアリアンナは続ける。「アリシア姉さんは太ったよ」
「無慈悲だなぁ」
ユーリは苦笑いを浮かべながらアリアンナから離れる。
「みんなは?」
「裏庭で、準備をしてるよ」
「裏庭で?」
ユーリが疑問符を浮かべていると、アリアンナは歩き出す。ユーリは黙ってそれについていく。食堂を抜け、台所で買ってきたものを仕分けしている咲江の後ろを抜け、裏庭に。
「お姉様! その調子では日が暮れてしまいますわよ!」
「アンタがっ! やりなっ! さいよっ……!」
裏庭に出て、そこに広がっていたのはすっかり変わった裏庭の姿だった。前見た時には雑草が生い茂っていた裏庭は、煉瓦が敷き詰められ、石畳が綺麗に広がっていた。そしてそこにパラソルとテーブル、椅子。そしこれまたどこから引っ張り出してきたのか、大型のビニールプールを膨らませている水着姿のアリシアと、アンジェリカの姿。
「わたくしは構いませんわよ? ユーリにそのたるんだお腹を見られても構わないのならば」
「一朝一夕で痩せるわけないでしょ!」
プールを膨らませるために自転車の空気ポンプを押す水着姿のアリシア。アンジェリカは、どこから引っ張り出したかわからないコンロの準備をしている。足元には、炭の入った段ボール。
「ほら、つべこべ言わずに膨らませてくださいまし、でないとユーリがき……て……」
アンジェリカが顔を上げる。キッチンから出てきたアリアンナと、ユーリの姿にようやく気付いたようだった。
沈黙が流れる。奥ではアリシアがぜえぜえ喘ぎながら空気ポンプを押していた。
「はぁ、はぁ……だめ、ちょっと、休……憩……」
そこで、ようやくアリシアもユーリの存在に気付く。ただ向かい合うユーリとアンジェリカを交互にアリシアは見て、そっと自分の腹を両腕で隠す。アリアンナは、ユーリの横から音もなく離れるとアリシアの代わりに空気ポンプを押し始める。
「えーと」ユーリは、口火を切るように言う。「ただいま。アンジー」
「……お帰りなさい。ユーリ」
なんとなく、それ以上の言葉が出てこなくて、ユーリはそれだけ言うと、野菜を切るよ、と言って台所に入る――逃げた。
ユーリが台所に入ると、咲江が腕を組んで冷蔵庫にもたれかかり、入ってきたユーリの事を見てきた。その瞳には責めも好奇心も感じられず、ただ見守る、と言う意思だけが感じられた。
「話さなくて、良いの?」
ユーリは、どうすればいいかわかっているようだった。冷蔵庫の横にかかっている自分のエプロンを取って着ると、まな板と包丁を取り出す。
「まだ、何を話せばいいかわからないんです」
ユーリは、咲江が買ってきた野菜を取り出して洗い、切っていく。串だけは並べられていたので、それに刺していく。色とりどりの夏野菜。色合いや食べやすさにより、刺す順番を工夫する。
「アンジェリカちゃんも、自分で呼びつけておいて酷ね」
咲江は、いつの間にか冷蔵庫から炭酸飲料の缶を取り出していた。片手で器用に開けると、ぐい、と飲む。ふわりと、フルーツの匂いがユーリの所まで漂った。
「アンジーも、悩んでいるんだと思います」ユーリは、サクサクとズッキーニを切りながら言う。「いつかはしなきゃいけない。けど上手くできるかどうかは分からない。そういうことを決断できる人ですよ。アンジーは」
野菜を切る包丁は、ユーリの手によく馴染んでいて、切れ味は抜群だった。
「よくわかってるじゃない。彼女の事」
「分かっているからこそ、言葉が出てこない。そんなこともありますよ」
まだ水滴が少し付いている金属の串に野菜を通していく。
「ジレンマ、みたいね」
「何事も、ほどほどが一番いいのかもしれません」
ユーリの横に、どん、と重量物が置かれる。思わず視線を向けると、いくつもの大きな蓋留め付きビニール袋。袋の中には鶏、豚、牛肉がそれぞれ入れられ、様々なシーズニングやマリネ液に漬けられていた。
「バーベキューと言えば、忘れちゃいけない。でしょう?」
咲江が言うと、ユーリは肩をすくめた。試しにシーズニングがもみ込まれた鶏肉の袋を開く。ケイジャン風のスパイスの香りが立ち上る。ユーリが好きな味だった。
「これは?」
「アンジェリカちゃんが、昨日仕込んでたわよ。一人で、黙々と」
彼女らしい、とユーリは苦笑いを浮かべた。そうして黙々と野菜を切っている自分にも気づいて、はは、と乾いた笑いを漏らす。
「わかるわよ。そうやって作業に集中していると、余計な事を考えないで済むわよね」
「余計な事を考えずに、一旦心を整理できる。そんな気がするんです」
「禅ねぇ」
咲江は飲んでいた缶ジュースを一気に飲み干すと、空き缶をゴミ箱に放り込む。そうして手をひらひらと振って、ユーリに背を向ける。
「先に着替えてくるわ」
ユーリがきょとんとした表情を浮かべていると、不思議そうに咲江は振り返る。それから、ああ、と呟いた。
「何って、水着に着替えるのよ」
「ひょっとして、みんな水着なんですか?」
ユーリがそう言うと、それがなんだかおかしなことを尋ねたかのように、咲江は小さく笑った。
「バーベキューで、プールがあるなら、水着を着ないわけにはいかないでしょう? 着替えたら、下準備の手伝いをするわね」
「……お願いします」
咲江が台所から出ていくと、ユーリは黙々と野菜を切る。そこで、ふと咲江のあの、最早暴力的とすら呼べるスタイルの事を思い出す。そして、それが水着を着るということ。つまり。
「……」
ユーリは、黙々と野菜を切り続けた。




