73/Sub:"さざなみ"
「アンジェリカ。こんばんは」
ユーリが言うと、向こうからため息が帰ってくる音が聞こえた。
『こちらは今一八時ですわよ? そろそろディナーにエリサと行くところでしたのに』
「エリサと? 意外だ。存外、すぐに仲良くなったな」
『そんなこと、思ってもいなかったくせに。彼女は今、シャワーを浴びていますわ』
それにしても、とアンジェリカは続ける。
『ユーリにしては、よく考え付きましたわね。軌道エレベーターの直通回線と、専用IPを使った秘密会議なんて』
「こういう入れ知恵は、君に教わったよ」
ユーリがそう言うと、通話の向こう側でむっ、とアンジェリカが抗議の声を漏らす。
『失礼ですわね。まるでわたくしが悪知恵ばかり働かせるようではありませんか』
「それ、エリサさんにも同じこと言ってみなよ」
ユーリは苦笑いを浮かべながら言う。
『帰ったら覚悟しておきなさい』
「うん、帰ったら、ね」
ユーリの声が1トーン落ちる。
ユーリの身体が淡く輝いた。同時に青白いドラゴンブレスが球殻状に彼の周囲を覆い、空気分子の運動エネルギーをシャットアウトする。即席の防音室だ。通話の向こうのアンジェリカには、急にユーリの声が少しくぐもったように感じた。どこか広い所に出たような、そんな音の変化。
『話を聞きますわ』
「うん。前、日食を追いかけた時の事、覚えてる?」
『ええ、昨日のことのように』
「なら、話は早い」
ユーリはそう言って、端末を操作して一つのコードを送る。
「ウェイポイント『サザナミ』。そこを、指定する時刻に通過してくれさえすればいい」
アンジェリカは送られてきたコードを解読し、その中の座標を確認する。
『ここは、レーダーの外ですわ』
「そう。レーダーの外で、なおかつそっちがハイパークルーズから減速しなくちゃいけない、インターセプトするなら丁度そこになるエリア。衛星通信も、ESMで妨害できる」
『わたくし達がこのウェイポイントを通過するようにフライトを組めば、必然的にここで相手が釣れる、と』
ですが、とアンジェリカは続ける。
「この日時は何ですの? 一体、何の根拠でこの日時を? 天気は特に荒れる日でもないでしょうに。それに一体、何をするおつもりで?」
アンジェリカの問いに、ユーリは黙る。それに彼女は違和感を覚えた。
『ユーリ』アンジェリカは、感情を殺した声で言う。『話しなさい』
「拒否、させてもらうよ」
はっきりとしたユーリからの否定。アンジェリカの吐息に、いら立ちが混じった。
『パイロットの命令、でしてよ?』
「それでも、だ。この計画はもうとっくに綱渡りだ。状況を最善にするために、不確定要素になりうるものは排除しておきたい」
『信頼していない、と?』
「とんでもないさ」
すぐにユーリは返す。これは、紛れもないユーリの本心だった。
「これほどないまでに信頼しているさ。君は納得せずとも、この判断についてきてくれて、この日時にここに飛んできてくれる。そう信じている」
ユーリのその言葉から、長い沈黙が降りる。アンジェリカは決めあぐねている、と言うのはユーリにも伝わってきた。
でも、だからこそ、ここで乗ってもらわないと困る。
『……』
しばしの沈黙。ドラゴンブレスのフィールド内に、静寂が満ちた。それを破ったのは、通話の向こうからの声だった。
『呆れた。いいですわ、乗ってあげましょう』
「ありがとう。アンジェリカ」
ですが、とアンジェリカは続けた。
『――あなたが傷つく案であるというなら、途中下車させていただきますわよ』
そう言って、通話は一方的に切られた。
アンジェリカとの通話が切れた画面。表示されているのは、通話が終了したことを示す画面と、最小化されているのは、ユーリのスケジュール表。
「……大丈夫。大丈夫さ」
ユーリは一人、ベッドに寝転がったまま呟く。その呟きは、誰にも聞かれることなくドラゴンブレスの中に消えていった。
――四日後、太平洋上空。
「……」
キャビンの内側のモニターに表示される空を、エリサはただ静かに見つめていた。モニターに映るダークブルーが彼女のエメラルドブルーの瞳に映る。
「それで」アンジェリカが、向かいのエリサに言う。「随分熱心に、見つめてらっしゃるのね」
「軌道エレベーターの最上階で見た空、モニター越しに見る空、そして、あの時空に投げ出されてみた空の色」エリサは、見飽きたように正面のアンジェリカに向き直った。「どれも、違う空の色だな、と改めて実感しただけですわ」
「あら。どれも、波長は同じですのに」
「貴女が言えることではありませんわ。でしょう?」
そう言ってエリサは不敵にアンジェリカを見返す。その視線に、アンジェリカも不敵な笑みを同じように返す。
「信頼していますわよ、アンジェリカ」
「この場合、信頼するのはユーリの方ですわ」
呆れたようにアンジェリカは言う。
「一体、何が出てくるのやら……」
アンジェリカの声には、不安が入り混じっているようにも見えた。そんなアンジェリカに対して、エリサが呟く。
「あまり不安がると、他の方々にも不安が伝わりますわよ」
アンジェリカはちらり、とエリサの背後を見やる。行きの飛行機にそこに座っていたアリアンナ、アリシア、ユーリの姿は無く、代わりに座っているのはエリサと、捜査官の二人。彼らはエリサの監視であり、護衛だ。
「ええ。だからこそエリサ、貴女を乗せたのでしょう?」
この場合、エリサは囮であり、人質だ。少なくとも、この飛行機にエリサが乗っている限り軌道エレベーターでの時のように、殺されるということはない。場合によっては、ある程度相手の行動を制御することもできる。
「これは、私なりの責任の果たし方、ですわ」エリサはほほ笑む。「ケリを、付けるためにも」
アンジェリカは向かいに座るエリサを見つめる。ユーリの評は、案外当たっていたのだと改めて実感した。人に興味が向いてきたのまでは理解できたが、まさかここまでの観察眼だったとは。
あるいは、それほどの可能性を目の前のエリサという少女が秘めている、と言うことかもしれないが。
「いずれにせよ、ここで全てが決まりますわ」アンジェリカは、エリサの後ろに座る二人の捜査官を意識しながら言う。「貴女が、日本の捜査機関に引き渡されたら、もうあなたの祖父は罪から逃れられなくなる」
「ええ。言われなくても」
アンジェリカは、モニターで広がる空に、目を向けた。
ウェイポイントまでは残り二〇〇海里もない。ゲルラホフスカのパイロットは優秀で、ビジネスジェットをまるでゴルフのホールインワンのように指定された時刻に、指定されたウェイポイントを通過するように飛ばしていた。既に機体は極超音速域から超音速域へと移り、機体のスクラムジェットの音は小さくなり始めている。これから機体は、ゆっくりと遷音速まで減速していく。つまり、狙うならここ。
アンジェリカは、自分の心臓が高鳴っているのを感じた。緊張か、恐怖か、武者震いか。彼女は、自分の視線がキャビンの半天周モニターを自然と舐めているのに気づく。ユーリの背に乗って、咲江とドッグファイトをしている時の動き。パイロットの視線。
「貴女は」エリサは、どこか感心したようにつぶやく。「そうやって、ユーリさんの背に乗るのですね」
「マークワン・アイボールセンサーとはよく言ったものですわ」
アンジェリカは椅子に身体を預ける。瞳は、モニター越しの空を睨んでいた。
「私も、目を鍛えた方がいいのかしら」
「良い方に越したことはないですわ。少なくとも、隈を作るほど勉強したり、深夜まで本を読んでいたりするのは厳禁ですわよ」
アンジェリカがそう言うと、エリサはハッとしたような表情を浮かべると、それから少し頬を染めた。
「気づいていましたのね」
「少なくとも、人が寝ている横でこっそり本を読んでいるのに、気づかれないと思わない方がいいですわよ」
それで、とアンジェリカは続ける。
「どんな本を読んでらしたの?」
すると、エリサは少し恥ずかしそうに鞄の中から、一冊のカバーがかかった本を取り出す。電子書籍が主体となった中で、珍しい紙の本。アンジェリカが手に取って開いてみると、彼女は目を小さく見開いた。
「SFだなんて。意外ですわ」
エリサが読んでいたのは、古典SFだった。もう一〇〇年近く前に書かれた、歴史に名を遺す有名なSF。
「取り調べの時に、蔵書にあったのを読んでいたら……面白く、感じまして」
「英語でしょう? よくやりますわね」
そう言ってアンジェリカは静かに本をエリサに返した。彼女はそれを宝物のように、大事に鞄に仕舞う。
「こうして娯楽小説を読むのが、その……初めてで」
「SF。わたくしも好きですわ」
アンジェリカは小さく微笑む。向かいのエリサは意外そうな表情を浮かべた。
「人の想像力が予想を超えてくる。それにいつも驚かされますの」
「意外、ですわ。アンジェリカこそ、こういう小説を読むイメージなんてなかったのに」
そう言うと、エリサは何だか可笑しそうに微笑んだ。アンジェリカも、つられて笑う。
唐突に、シートベルトサインが鳴った。一度解除し、それから再び鳴る。緩んでいた弦が張り詰めるように、アンジェリカは周囲を見回す。空の中に、その姿を。
見つけた。
「あれは……」
モニターか、はたまたセンサーか。解像度が悪くてぼんやりとした黒い点にしか映らないそれを見て、アンジェリカは席から立ち上がると、コクピットへ踵を返す。
「来たのですわね」
「ええ。お嬢様の予想通りですよ。もっとも、向こうはとっくにこちらを抑えていたようですがね」
そう言ってパイロットはレーダー画面を見せる。民間機の、機載レーダーに微かに映る影。アンジェリカ達の乗る機体の後方に、まるで周囲から囲むようにして陣取っている。
「スコークは?」
「とっくに7500にしていますよ。ただ、先程から衛星通信とのリンクが切れています。見通し線圏外じゃ、誰も気づかない」
冷静に言うパイロット。だがその喉に冷や汗が伝っているのを、アンジェリカは見逃さなかった。
「向こうから通信は?」
「来ましたよ。こちらが気づいた直後、進路を変えてサイパンに向かえと」
「予想通り、ですわね」
唐突に、アンジェリカの視界の横を黒い何かが横切った。反射的にそれを追う。コクピットの外部映像モニターに移る影は、機体を左後方から追い越して、前を横切った。反射的にアンジェリカは身構える。直後、機体が揺さぶられた。キャビンから小さく悲鳴が聞こえる。
「MQ18とは、相手も本気モードですわね!」
「指示に、従いますか?」
「これ以上乗客を危険にさらすことはできない、と機長が判断するのなら」
「了解。信じますよ」
アンジェリカは予備のヘッドセットを頭にかけながら、目の前のモニターを見据える。ウェイポイント『サザナミ』までの距離がみるみるうちに縮まる。それが0になるまでの時間が、やけに長く感じた。
ウェイポイント・サザナミ、通過。
「……」
機内は静まり返っている。ただ、エンジンの駆動音だけが静かに響く。通信機から、しびれを切らしたかのような声が響いてきた。
『繰り返す――』
直後、強烈な雑音が通信を塗りつぶした。思わず咄嗟にインカムの音量を落とす。
「なんですの!」
苛立たし気に叫ぶと、アンジェリカはその音の違和感に気付く。雑音が、大きくなったり、小さくなったり、高くなったり、低くなったりしている。
これは、ESMじゃない。レーダー照射だ。
そう気づいた瞬間、通信に新たな声が割って入った。
『こちらユニオン空軍ステラ隊、ステラ1。貴機の状況を告げよ』
『地球の長い午後』
原題 Hothouse(温室)、アメリカではThe Long Afternoon of Earth
著:ブライアン・W・オールディス




