69/Sub:"もつれ"
「この後、すぐに帰国するのでしょう?」
「いいや、エリサに顔を見せてからにするよ」
ユーリはポキ丼の最後の一掬いを口に入れた。口の中にスパイシーな味わいが広がって、消えた。食べ終わった容器を袋に詰め込みながら、ユーリはテキパキと準備を整える。出発の準備は既に済ませていた。アンジェリカは、それをロコモコをゆっくりと食べながら見ていた。
ユーリは、アメニティのメモ帳にさらさらと何かを書くと、紙を破り取って折りたたんだ。
「もう少し、ゆっくりできればよかったですわね」
「仕方ないさ。こんなことになったんだ」
残念そうにユーリは言う。まだやりたいこともあったが、こんな状況だ。バカンスは切上げて、退屈な日常に戻るしかない。
リュックを背負い、スポーツバッグを左肩に担ぐ。スポーツ用のサングラスをかけて、靴を履く。
「ユーリ」アンジェリカが席を立ち、ユーリの背中に手を回す。「また、後ほど」
「ああ。また後で」
ユーリはアンジェリカの唇に、そっとキスをした。柔らかい、触れるようなキス。彼女の熱を一瞬だけ感じ、離れた。折りたたんだメモをアンジェリカに渡すと、彼は静かに部屋を後にする。
部屋に残されたアンジェリカは、自分の唇にそっと手を当てた。そこには、先ほどまでの感触がまだ残っているような錯覚。
「……また、後で。ユーリ」
部屋の空気を小さく震えさせた彼女の言葉は、ベランダに展開されている減衰フィールドに吸収されて、すぐに消える。アンジェリカはしばし誰もいなくなった部屋で一人佇んでいたが、しばらくしてメモをそっとバッグにしまい込むと、席に着いて熱を失い始めた残りのロコモコを食べ始めた。
ユーリはホテルを後にする。再び外に出ると熱気が彼を包んだ。薄く纏ったドラゴンブレスが空気を冷却し、ユーリが淡く薄い、白煙のヴェールをたなびかせる。
ポケットから端末を取り出して行先を調べる。警察署までは遠い。おとなしく公共交通機関か、タクシーを使うべきだろう。
ふと、監視としてついてきている刑事に声をかければ警察署まで送ってくれたりはしないだろうか、というアイデアが浮かんだが、すぐに消した。業務の邪魔になるだけだろう。おとなしく、タクシーを使うことにした。アプリで配車するまでもなく、ホテル街にはタクシーが並んでいた。
「ホノルル警察署まで」
有人のタクシーに乗り込み、行先を告げる。タクシーの運転手は黙って車を走らせた。ユーリも、その方が余計なことを考えずに済んだ。
車で一〇分も走らないうちに、あっという間に警察署に到着する。電子マネーでタクシー代を決裁して外に降りると、威圧感のある建物が目の前に広がった。ユーリは正面ゲートから中に入る。武装した警備員にIDカードを見せて中に入り、受付で面会の手続きを済ませる。生憎、既に話はつけてあるので、手続き自体はすぐに済んだ。荷物を全て預け、刑事と思われる女性二人につきそわれて、警察署の中を歩いた。
警察署の奥の方、キーカードと電子キーを入れてようやく入れる部屋。警官二人は入口で待機するようだが、ドアは開けっ放しとのことだ。
重い扉を開けて中に入ると、中は一般的なビジネスホテルの一室のような、簡素な部屋だった。だが、ひときわ違和感を覚えるのは、生活感がある、と表現するにはあまりにも無機質過ぎる点だった。やや灰色がかった白一色の室内。装飾は一切ない、工業製品じみたベッドにテーブル、椅子、照明、床と言った内装の数々。ただひたすらに人間の理論的な快適性を求め、そこに感情的な要素を一切入れなかったような、そんな無機質な有機空間ともいえるべき部屋。『収容施設』を最大限のオブラートに包んだような空間。
「エリサ」
そして、そんな白に圧迫された部屋の真ん中を、唯一違う色彩が彩っている。
「ユーリさん!」
簡素な椅子に座って、テーブルの上の本を読んでいたエリサは、ユーリが入室してきたことに気付くとぱあっと顔を輝かせた。読んでいた本を閉じ、ユーリの方に歩いてきた。彼女は最近見慣れた縦ロールではなく、頭の後ろで髪をシニョンにまとめていた。
「エリサ。元気そうで何より」
ユーリは両腕を広げる。エリサを抱きしめると、彼女の柔らかい感触と温もりが伝わってくる。しばしお互い抱きしめ合って、それから彼女が顔を上げた。
「ホテルとまではいかないけれど、ここも過ごしやすいですわ」
「食事は? 外出できないなら、厳しいだろう」
「デリバリーなら、自由に頼めるようですわ。私、ハンバーガーを初めて食べましたの」
そういってくすくすと愉快そうに笑うエリサ。どこか名残惜し気に離れてからユーリはエリサを見て見ると、確かに思ったよりも元気そうだ。だが目元から疲れがまだ抜けていないような気配も同時にする。流石にストレスもあるようだ。
「明日には、ここを出られそうですわ」
「それは、予定通り、だね」
ユーリはポケットの中からカードキーを取り出す。アンジェリカとユーリの部屋のカードキーだった。
「話はつけてある。ここを出たら、これを使って」
「……アンジェリカと相部屋になるのは、まぁ良いでしょう」
エリサは苦笑いを浮かべると、カードキーを受け取った。
「少なくとも、あそこは安全だ。警察の監視もあるし、それにアンジーがいる」
「一番腹立たしい要素と、一番安心できる要素は共存できるのですわね」
ホテルの名前と、部屋番号が描かれた簡素なカードキーを、エリサは室内照明で照らした。
「日本に帰ってからも、取り調べが待っていますわ」彼女はどこかうんざりしたような声色で言う。「話すことは、こちらで話したことと何も変わらないのですけれど」
「形式的なものが必要なんだろう。それに、エリサを保護するため、というのもありそうだ」
「でしょうね。ずっと目の上の瘤だった皐月院を排除するのに、ちょうどいい機会だとも」
エリサはため息をつき、そしてどこか皮肉げに笑う。
「これが終わったら、私、いよいよ社会で生きていけなさそうですわね」
「僕が、なんとかする」
すぐにユーリが返してくる。それにエリサは一瞬きょとんとした顔を浮かべるが、それからおかしそうにくすくすと、どこか力なく笑った。
「ええ、頼りにさせてもらいますわ」
「本気だよ、僕は」
ユーリは真っすぐな瞳でエリサを見つめる。エリサは、少し困ったような顔で照れ、思わず目を逸らした。
「困りますわ、ユーリさん」
「アンジェリカが今回の事に責任を取るなら、これは僕が責任を取るべき事項だ」
エリサは、ユーリのその言葉に、彼を毅然と見返した。
「ユーリさん。今回の事件は、皐月院の不徳が起こしたこと。貴方が取るべき責任なんて、ありません」
ただ、とエリサは一息飲み込む。
「ずっと、見ないふりをして、未来に押し付け続けた歪み。それを清算する日が来たのですわ」
「君は、関係ないだろう……」
「家を背負う、と言うことですわ」
そう言って、どこか優し気な笑みを浮かべるエリサ。
「大丈夫ですわ。アンジェリカも、貴方も守ってくれる。それだけで、私はそれで十分ですわ」
その言葉に、ユーリは何も言うことはできなかった。
それからは、他愛もない話をした。初めて食べたハンバーガーの味。初めて乗った極超音速機の感想、そしてダークブルーの記憶。
「ようやくわかりましたわ」エリサは、どこか熱に浮かされたように言う。「あれが、ユーリさんの見ていた景色でしたのね」
「……多分、いや、きっとそうだ」
ユーリはうつむいたまま呟く。
警官が、時間を告げた。ユーリは名残惜し気に立ち上がると、エリサに別れを告げる。
「じゃあ、エリサ。またね」
「……ええ。ユーリさん、また後で」
さよならは、言わない。
ユーリの後ろで、重いドアが再び閉じられる。その向こうにいるはずのエリサの気配は、それに遮断されてもう感じられなかった。
ユーリは受付に戻ってくる。速やかに荷物が返却され、半ば追い出されるような形でユーリは警察署を後にした。再び屋外に出ると、ハワイの正午の日差しがユーリを刺す。
そこには『黒』がいた。
「父さん」
「ユーリ」
白いワイシャツのスーツ姿。上着を羽織っていないが、ネクタイを緩めてラフに着崩している。普通に仕事帰りのサラリーマンの様な、違和感をあまりにも『覚えなさすぎる』恰好。ユーリは、彼の本来の仕事と今のこの姿から受ける印象に、いつも違和感を覚えていた。
「ユーリ、すまない。傍についていてやれなくて」
ユーリの父親――理人は、ユーリに近づいてくると彼を抱きしめる。ユーリも、しょうがないな、と言わんばかりに父親の背中を抱きしめ返す。
「いいよ。実際、大丈夫だったんだから」
「それでも傍にいてやるべきなのは、父親の責任だ」
「でも、父さんにはユニオン軍人としての責任もある、でしょう?」
そう言うと、理人はどこかハッとしたようにユーリを見つめてくる。そうしてしばしユーリの金色の瞳を見つめていると、どこか恥ずかしそうに笑った。
「息子に、諭される日が来るとはな」
「僕も、今回の旅でいろんなことを学んだ。それだけだよ」
二人でホノルルの街並みを歩く。炎天下の中を歩いているはずなのに、二人とも涼し気だ。
「実のところな」理人は、苦笑いを浮かべながら言う。「母さんがかなり怒ってて、そっちをなだめていたら、なんだか冷静になっちまった」
「ああ……母さんなら、そうだろうね」
つられて、ユーリも苦笑いを浮かべる。逆鱗を撫でまわされた竜など、味方であっても恐ろしいだろう。
「帰ったら、無事な姿を見せてやってくれ。きっと安心する」
「父さんも」ユーリは、ふと気になったことを呟く。「若い頃は、無茶をしたの?」
理人は、恥ずかし気に頬を掻く。そうしてどこか言葉を濁すように、懺悔するようにつぶやいた。
「少なくともユーリみたいにぶっ倒れたことなら、何回もある」
それを聞いて、今度はユーリが苦笑する番だった。
「似た者同士か、僕等」
親子なんてそんなもの、と言ってしまえば、それまでだろう。だがその繋がりが、今は何とも頼もしく感じられた。
「親子なんてそんなものさ。俺も、お袋に似てるって言われたよ」
「ああ……お祖母ちゃんか」
言われてみれば、父親は祖母に似ている気もすると、ユーリは思った。特に、一人で抱えこみがちな所とか。
二人は街中を歩いて、人通りの少ない路地に入る。なぜか見計らったように人がいない路地。ここらでいいか、と理人が呟くと、急に目の前の空間が『結晶化した』。
液体が凍っていく音か、はたまた植物の幹が軋む音か。奇妙な音を響かせながらユーリ達の目の前に縦長の菱形をした黒い空間が現れる。
いや、菱形と言うのはあくまでその瞬間にそう見えているだけで、楕円形であったり、長方形であったり、それらが同時に重なっているようだった。目の焦点を合わせるようにユーリが目を凝らして見ると、その時それぞれで違う形に変化しているように見えた。
「手続きは日本でやれる。すぐに終わるさ」
そう言うと理人が黒い空間の中に入っていく。ユーリはいつやっても慣れないこれに、若干の気後れを感じながらも、空間の中に歩みを進めた。意を決し、ユーリが入ると黒色はまるで中心に吸い込まれるようにして小さくなっていき、やがて消える。
そこに二人がいた痕は、残っていなかった。




