68/Sub:"ブラインドエリア"
ホノルルの蒸し暑い空気が、ユーリを包む。
空を覆いつくす高層ビル群が、青空を切り取っている。道行く人々の群れの中を、かき分けるようにして歩く。手に持つ紙袋の重量を感じながら、思わずドラゴンブレスが漏れ出た。わずかにユーリの表面に浮かぶ白煙。ドライアイスのそれのように漂う白煙は肌を伝って流れ落ち、地面に触れて消えた。ユーリとすれ違った人が、一瞬驚いたような顔を浮かべた。
ユーリは紙袋を手下げたまま、目当てのホテルに入る。ホテル街の一角の、なんの変哲もないホテル。受付はハワイ風を意識したのか、エスニックな装飾がされていた。紙袋を持ってフロントの前を通り過ぎるとき、観光客と思われる人の列を突っ切る羽目になった。
エレベーターに乗って、七階へ。人工的な芳香剤の臭いに鼻を犯されながら、エレベーターから降りて廊下を歩く。703号室。
ノックを二回。部屋の中から声が響く。
「プロトン」
ユーリは、慣れた口調で返した。
「ニュートロン」
キーカードを差し込み、部屋に滑り込む。ダブルベッドが部屋の中央に置かれた、シンプルな部屋。真ん中では、アンジェリカが腕を組んでこちらを見ていた。部屋はシアーカーテンから入った外の灯りで、薄暗くはあるが十分明るい。
「お帰りなさい。つけられていて?」
「いいや。警察の人以外はいなかったよ。挨拶もしてきた」
そう言ってユーリは紙袋を窓際のテーブルの上に置く。紙袋の中身を取り出すと、中から出てきたのは、紙製の使い捨てタッパーが大が二つに、小が一つ。
「はい、ロコモコ」
「ありがとうございますわ」
アンジェリカが蓋を開けると、中から出てきたのは薄茶色い液体がかかった、ロコモコだった。それを見てアンジェリカがおや、と呟く。
「グレイビーソースですわね」
「デミの方が良かった?」
「まさか。こちらも大好きですわ」
ユーリは自分の方の蓋を開ける。中から出てきたのは、赤と白のゴロゴロとした魚の切り身が転がるポキ丼。脇に添えられた鮮やかな海藻と合わさって、なんだかトリコロールみたいだった。
「あら、そちらの小さなものは?」
「ワンアクセント、さ」
そう言ってユーリが小さい紙タッパーを開けると、出てきたのはスパイシーな香りを漂わせるフライドポテトの小山。
「見ているだけで胃もたれしそうですわね」
「そう言うと思ったさ」
そう言って、ユーリは紙袋からペットボトルの烏龍茶を二本、取り出した。ユーリによってドラゴンブレスで冷却されていたのか、表面には大粒の結露が浮かんでいる。
「パーフェクトですわ、ユーリ」
「感謝の極み、ってね」
紙コップに二人分の茶を注いでいる間に、アンジェリカがスプーンとフォークを並べていく。食事の準備ができてから、お互い向かい合って座った。
「いただきます」
二人の声が重なった。
アンジェリカはロコモコを、ユーリはポキ丼を。時たまフライドポテトを挟んだり、お互いのものを食べさせあったりする。
「アンジー」
ユーリが尋ねると、アンジェリカは食べていた手を止めた。
「窓、開けてていいの?」
ユーリがそう言うと、アンジェリカはため息をついて、シアーカーテンを引いた。
本当だったら、かすかに海とビーチ、そしてダイヤモンドヘッドがちらりと見えたはずのベランダは、かすかに黄色がかった乳白色の壁と化していた。そしてよく見ると、それは壁ではなく、白濁した空気であった。
「こんなことまでしておいて、窓を開けるも何もないでしょう」
アンジェリカが呆れたように言う。
大量のドラゴンブレスを壁状に滞留させたこれは、空気を一瞬で絶対温度にして数十ケルビンまで冷却している。空気中の水分は一瞬で凝縮し、しかしこの領域から出ることすら叶わずにここに留まっている結果、まるで白い壁のようになっていた。
「でも、これで12.7ミリくらいなら、完全に防げるさ」
「過ぎたるは及ばざるが如し、ですわ。それに例え対物ライフルに胴体を吹き飛ばされても、わたくしが平気なことくらいご存じでしょうに」
相対性エネルギー減衰フィールド。『運動エネルギー』すら奪うこの空間は、強固な防弾防壁と化していた。
「でも、それは僕が嫌だ。たとえ再生するとはいえ、君の身体が吹き飛ぶ所なんて」
「……まぁ、良いでしょう。チェックアウトするときには片付けていきますわよ」
呆れたようにアンジェリカは言って、ロコモコを再度食べ始める。グレイビーソースは工場製の様だったが、良い味がした。ハンバーグはアメリカらしく、お手製の様だ。いくつかのスパイスと塩と、肉だけのハンバーグ。肉々しい味が口の中に広がる。
「僕は、これでも過剰じゃないと思う」
ユーリはポキ丼を食べながらつぶやく。アンジェリカは構わずポテトをつまんだ。
「エリサさんと、修也さんの話から出てきた、皐月院家と関わりの深いPMC。軌道エレベーターで事を起こそうなんて馬鹿な連中なら、ここで狙撃してきたっておかしくない」
「でも、おかげさまでホノルル空港の警備が数倍になっているそうですわね。入国管理が連日長蛇の列だそうですわよ」
アンジェリカがフォークに刺したポテトを、グレイビーソースにつける。
ダークホライゾン社。インド洋をベースに活動しているPMCで、元は大戦の後に無法地帯と化したインド洋において商船の警護をしていた企業だ。だが、ユニオンによる掃海と、アフリカ東海岸地域のアラブ連合による占拠によってインド洋の治安が回復したことにより需要が減り、会社の経営状況はあまりよくないらしい。おまけにいくつかの戦争犯罪の嫌疑をかけられている、正直言って崖っぷちと言っても過言ではない企業だった。
「今回が、最後の『大口注文』だったのかしら」
そう言って皮肉気に笑うアンジェリカ。ユーリは眉を顰めた。
「でも、意外でしたわ。貴方がそんな根回しをするなんて」
「君に習っただけだよ。修也さんに皐月院家との会談・通話記録の保存と、佐高重工側に背後関係の引き出しを迫っただけだ。エリサさんで妥協しようとしてまで欲しがった、『コネクション』とやらの情報を」
ユーリの声には、小さく怒りが滲んでいた。彼自信、エリサの扱いに納得がいっているわけではなかった。
「で、軌道エレベーターの騒ぎがあって初めて御曹司殿とわたくし達に情報がもたらされてきた、と。驕りですわね」
アンジェリカはフライドポテトを二本、まとめてフォークに突き刺す。
「僕の分も残しておいてくれ」
「あら」
アンジェリカはフライドポテトを刺したフォークをユーリに差し出してくる。ユーリは、それを口に入れた。
「思ったより辛くないな」
「そのポキが、思ったより辛かったですわ」
ユーリは、烏龍茶を口に含んだ。冷たさと共に、心地よい苦みが口を満たして、喉を流れ落ちて行く。
「でも問題は、そこだけじゃない」
ユーリは、真剣な眼差しでアンジェリカに言う。
「ダークホライゾン社の装備、JATOできる無人戦闘機に、管制用のVTOL戦闘機」
「空中で襲撃を仕掛けてくる、と?」
「馬鹿ってのは予想の斜め下の行動をとってくるってのは、軌道エレベーターで実感しただろう」
今度はアンジェリカが黙る番だった。確かに、と言えることだった。
ユーリは、スプーンを置いて、アンジェリカを真剣な眼差しで見つめる。
「警察署で、父さんに会ったよ」
アンジェリカは何も言わず、ただユーリを見つめる。
「僕を迎えに来たと、言ってた。ユニオンの規則で、こういう『越権行為』ができるのは等親的にアンジェリカまでが限界なことも」
「わたくしが、責任を取らずに逃げ帰る。そんな女に見えて?」
アンジェリカの赤い瞳が、真っすぐユーリを射抜く。彼には、彼女がこういう回答をするということは百も承知だった。それでも、提案せずにはいられなかった、
「たとえ臨界に達していた歪みがあったとしても、火をつけたのはわたくし。ならば、最後まで現場に残るのがわたくしの責任でしょう」
「狙われるのは、修也さんだよ?」
「でしょうね。わたくしならそうしますわ」
そう言って、アンジェリカはため息をつく。
「だからこそ、態度で示す必要がある。まだ戦いをやめていないと、示す必要があるのですわ」
そう言うアンジェリカの瞳には、意思があった。力があった。想いがあった。
「降伏は、わたくしの辞書にはありませんわ」
ユーリとアンジェリカ。沈黙のうちに向かい合う。黄金色の竜の瞳と、赤い鬼の瞳が交差して先に根を挙げたのは、竜の瞳だった。
「分かった。君の意思を尊重しよう」
だけど、とユーリは続ける。
「君が戦いを諦めないなら、僕も僕なりの戦いを続けさせてもらう」
「ええ。それでいいですわ」
ユーリは、低く呟く。彼の竜の瞳には、成層圏の冷たさが宿っていた。アンジェリカはその瞳に見据えられて、ぞく、と背筋が冷える感覚を覚える。
「君のビジネスジェットで日本に帰るとすると、ハイパークルーズから減速して遷音速にならなきゃいけない」
「領空上での一定高度以下でのハイパークルーズは禁止、ですわよね。知っていますわ」
「だから、狙うなら、そこだ」ユーリは人差し指でくるりと円を描いてみせた。「ターゲットが高高度極超音速から降りてきて、なおかつ地平線の丸みを超えて空自のレーダーの視界に入るまでの、数分間のブラインドゾーン」
「耐熱システムを持ったHSTでもなければ戦闘機と言えどハイパークルーズはできない。だからこそ、減速したタイミングで、仕掛けてくる、と」
「僕ならそうする」
ユーリがそう言うと、アンジェリカは神妙な面持ちを浮かべた。
「そこを乗り切れば、こちらのもの、と」
「民間機にPMCの軍用機がインターセプトしているなんて状況、レーダーで見られれば大問題だ。それこそ、戦争犯罪の疑いどころか、現行犯を取られることになる」
「インターセプトしたら進路を変えて、サイパンか不時着水かしら?」
「進退窮まったら、撃墜も視野に入っていると考えてもいいかもしれない」
アンジェリカは予想していた、と言わんばかりにため息をつく。
「ここまで具体的に想定しているということは、何か作戦を思いついているのでしょうね」
「……ああ」
ユーリは、低く呟いた。その口調にどこか危うげなものを感じながらも、アンジェリカは頷くしかなかった。
「信じていますわよ、ユーリ」
「……大丈夫さ。きっと、上手く行く」
そう言ってユーリはポキ丼を口に運ぶ。その金色の瞳に宿った剣呑な光は、消えてはいない。




