65/Sub:"メーデー"
「エリサ!? エリサ!」
気密が破れてから、一瞬で隔壁が作動した。風は収まり、白濁は収まるが、先程までエリサが立っていた場所に彼女の姿は無い。ユーリは思わず叫ぶ。
「エリサ! 何処だ!? エリサっ!」
薄い空気が儚く震える中、ユーリはぞっとする可能性に気付いた。割れた窓に駆け寄ると、空を見渡す。まだ遠くまで行っていないはず! 何処だ、どこだ、どこだ!
見つけた。
深く、昏い空の中を落ちて行く、宝石のようなスカイブルー。キラキラと光って、地面に吸いこまれていくようで。
「っ!」
ユーリは一瞬で自分の腕に電子航空免許を巻き付ける。術式を展開し、強引に電子航空免許のアビオニクスに接続。視界に水平指示器が直接描画された。
次の瞬間、光が彼のシャツを突き破って、彼から翼と尾が生えた。噴き出た霊力でユーリの頭上にホロウ・ニンバスが瞬き、周囲が白く霜に覆われる。頭部からは角が生え、両手両足が竜のそれに変わる。一瞬で、空を飛ぶ姿に。破孔に、足をかけた。
――一瞬、視界の端に床に倒れた男の姿が映った。
ユーリは、空へ飛び出した。
ダークブルーの中へ飛び込んでいく。対流圏の上の上、稀薄な大気。翼を光が覆い、飛行術式が起動して甲高い音が薄い大気に響き渡った。翼から噴射光が伸び、弾かれたようにユーリは加速。一八〇度ロールし、推力を強引に曲げて急激にピッチアップ。全身をすさまじいGが襲うが、強引にほぼ直角に向きを変える。推力を維持してパワーダイブ。翼が減圧で白煙を纏い、翼端から白い飛行機雲を空に描く。
「エリサっ!」
思わずユーリは叫ぶ。高高度の薄い空気。大気の抵抗は一気圧のそれよりもはるかに小さい。ユーリが飛びだした一瞬の間に、大きく距離が離れていた。地上に落着する前に、なんとしても。
「はやくっ……!」
より高く、より速く、より鋭く。
飛行術式に強引に霊力を流し込むだけではだめだ。足りないのは推力だけじゃない。精密さも。そのためには、両翼の二基じゃ足りない。
足りないのなら。
「速くっ……!」
なら、増やすだけだ。
イメージするのは、自分を墜とした『最強』。空を舞う黒いフクロウ。
「もっと、速く!」
飛行術式、再構築。一番から六番まで展開。並列稼働開始。脳に叩き込まれる強烈な負荷は、アドレナリンが誤魔化す。金色の竜の瞳が輝き、白目が一瞬で真っ赤に濡れて目尻から赤い雫が空に散った。
変化は、唐突に表れた。
ユーリの両角の後ろと、両脚の脇。飛行術式の光が瞬き、膨れ上がり、伸び、翼の形を成した。六枚の光の翼が青く輝き、噴射光がユーリの両足裏からダイヤモンドコーンを描いて大きく伸びる。頭上のホロウ・ニンバスが不安定に揺らめいた。
「もっと、速くっ!」
次の瞬間、ユーリは銀色の彗星となって空を貫いた。
身体を覆うベイパーコーン。音の壁を破り、ソニックブームが希薄な大気を揺らし、軌道エレベーターの風防を叩いた。地上に向けて落ちて行く、淡い星のような青色との距離が、一瞬で殺される。進路ベクトルをそのままに貫く直前、ユーリは急激にバレルロール。頭と脚の光翼が、それぞれ別方向に動き、ユーリの足から伸びる噴射光が、ねじ曲がった。エリサの周囲を、鋭く螺旋を描いて急旋回。減圧で白煙がユーリを包む。バレルロールを終えた時点で相対速度はほぼ一致し、ユーリの目の前にはエリサの姿。意識を失っているのか、頭を下にして背中から落ちる彼女。翼を絞り、揚力を殺して距離を詰める。終端速度を一致。
「エリサっ!」
ユーリの伸ばした手。爪先が彼女の髪を掴みかけて、すり抜けた。頭の『カナード』と、足の『尾翼』を広げ、かすかに空力を調整。細かく動く光の翼。もう一度手を伸ばす。ユーリの手が、エリサの手を掴んだ。そのまま強く抱き寄せる。強引に割り込んだ電子航空免許内の気圧高度計が叫ぶ。20,000フィート。
翼を大きく広げる。両足の噴射光が大きく瞬き、ユーリは急降下をつづけた。高度が急激に下がっていく。15,000、14,000、13,000。そこからゆっくりとピッチアップしていく。高度10,000フィート。安全高度に到達。
ユーリはエリサをしっかりと抱きかかえたまま、電子航空免許に叫ぶ。リンク3、ブルー。トランスポンダのスコークを7700に設定。
「メーデー、メーデー、メーデー! こちら日本国籍のドラゴン、ユーリィ・穂高! 現在高度10,000! 軌道エレベーターから人が落ちた、現在回収して飛行中! メーデー、メーデー、メーデー!」
返答は一瞬だった。リンク3、ブルーに通信。キリスィマスィ管制から通信が入る。
『そこの飛行物体、直ちに――メーデー確認! こちらキリスィマスィ・コントロール。滑走路を開ける』
「こちらユーリィ、エプロンに直接降りる! 救急を要請、急減圧に晒された人がいる!」
『了解。救急隊を手配する。進入はクリア。クリアトゥランド。風は方位1―2―0、5ノット。どこでもいい、早く着陸してくれ!』
ユーリは左右に視線を動かし、目視でキリスィマスィ空港を確認する。右にロールし、急旋回。翼端から飛行機雲を引きながら、空港の上空に向けてアプローチ。徐々に旋回半径を縮めながら、真っすぐ空港の直上を目指していく。それから右旋回し、らせん状に降下。速度と高度を、同時に殺していく。
「こちらユーリィ! 救急隊が一番早く到着できる場所は!?」
『エプロンのスポット07だ! 降りられるか!?』
「こちらユーリィ! スポット07を目視、そこに降りる!」
旋回の内側、飛行機が並ぶエプロンの端。ハンガーの隣のスペース。あそこなら、十分に降りられる。
『こちらキリスィマスィ・コントロール。スポット07を確保。すぐに着陸できるぞ!』
らせん状の降下をやめ、一旦着陸スペースを離れてから急旋回。スポット07に相対。向かい風でランディングアプローチ。07と地面に大きく描かれたスポットへと真っすぐ降下。速度も高度も、高い。
「ならっ!」
ユーリは翼をすぼめ、一気に上体を起こした。急に翼から気流が剥がれ、一気に重力の鎖がユーリに絡みつく。急激に高度が落ちる。
地面に向けた、ユーリの足裏から噴き出る噴射光が輝きを増した。甲高い音が一気に大きくなる。細かく作用ベクトルを操作して、姿勢を維持。ほぼ推力で浮かんでいるような状態。50、40、30、20、10。
接地する直前、3フィート程の所で、推力を切った。水平速度を完全には殺しきれてはいなかったようで、着陸の瞬間バランスを崩した。咄嗟に翼を広げ、エリサを覆って庇う。殺しきれなかった勢いのまま、コンクリートの上を盛大に滑った。ギャリギャリと音を立てて数メートル滑り、コンクリートに傷跡を残す。頭と脚から生えていた光の翼も、掻き消えた。
ようやく止まったところで、ユーリは翼を広げた。彼の翼の上に力なくエリサが崩れ落ちる。
「くっ……エリサっ!」
なんとか起き上がってエリサをそっと地面に寝かせると、彼女の目は生気もなくぐったりと開いて、無機質に空を映していた。口からは一筋の血がだらりと垂れる。
呼吸をしていない。
「エリサ……? エリサ!?」
呼びかけに応答はない。咄嗟に鳩尾に耳を当てると、そこにあるべきビートはなかった。ユーリの頭から血の気が引く。咄嗟に、電子航空免許の通信に叫んだ。
「救急を早く! 心肺停止!」
『今向かってるっ! CPRを!』
ユーリはエリサの鳩尾の、心臓のある位置を、両手を重ねて圧迫する。心臓マッサージ。リズムは講習会のおかげで頭に叩き込まれていた。カウントする。いち、に、さん。三〇回やったところで、エリサの鼻を押さえて口から息を吹き込んだ。ゆっくりと、一回、二回。そうして、ふたたび心臓マッサージに戻る。
「ああ、頼む、頼む頼む頼む!」
誰に宛てたでもない、ただ懇願する声がユーリの口から漏れた。心臓を押すたびに、力なくがく、がく、と震えるエリサの身体。息を吹き込むも、光を喪った青い瞳は何も映さない。遠くで救急車の音が聞こえた気がした。心臓マッサージの振動のたびに、ぽた、ぽた、とユーリの瞳から赤い雫が頬を伝ってエリサの胸元に垂れ、彼女の服に赤い染みを点々と作っていく。
「帰るんだ……! 地上に、帰ってくるんだ、エリサ!」
ぼんやりと、エリサの目にマゼンタの光が宿った。
「が――げほっ!」
唐突にせき込むエリサ。口から血が飛び散り、力なく開いていた瞼は苦しそうに閉じられた。
「エリサっ!」
慌てて蘇生措置をやめる。げほ、げほ、と荒々しく呼吸を始めるエリサ。目元には苦しそうに涙がにじんだ。咄嗟にユーリはエリサを横にし、気道にあるものを吐かせた。赤黒い血がコンクリートに垂れ、それからパキパキと音を立てて崩壊していく。
「これは……」
血を吐きだし終わって、苦しそうに喉を押さえるエリサ。ゆっくりと彼女は身体を起こすと、目尻に涙を浮かべたままぼんやりとユーリの方を向いた。ユーリの頬を濡らす血の雫。エリサは指を近づけると、それを撫でる。そうして指についたそれを、ゆっくりと口に入れた。
アンジェリカの、吸血鬼の因子。
「っ!」
それがまだ、残っていた。
ユーリは、地面に座り込んだまま思わずエリサを抱きしめた。伝わってくるビートと、呼吸の振動。そしてぬくもり。エリサはまだどこかぼんやりと、ユーリの背に手を回す。ユーリは嗚咽と共に漏らす。
「ありがとう……ありがとう……!」
エリサは、ユーリの背中をただ優しく撫でた。
救急隊が駆けつけてくる。ユーリは名残惜し気にエリサから離れると、彼女は力なく担架に載せられた。だが救急隊員の言葉には、きちんと反応していた。容態は安定しているらしい。安心が濁流のように押し寄せ、ユーリの身体から張り詰めた緊張を押し流していく。
くらり、と眩暈。
「君っ! 大丈夫か!?」
救急隊員が焦った様子でユーリに話しかけてきた。ユーリが不思議そうに、え? と返すと、急に視界が歪む。空の色が極彩色に散らばって、急に意識が遠のいた。鼻の奥からツンと熱が広がって、鉄の臭いで一杯になる。起きていられなくなり、空港の地面に倒れ込んだ。後頭部を打った痛みも、鈍い。
「――手を貸してくれ、こっちも――」
救急隊員の叫びが、どこか遠くに響く。青空の真ん中でただギラギラと太陽だけが、暗くなっていく視界の中央で輝いていて。
それが、ユーリが最後に覚えていた記憶だった。




