64/Sub:"重力"
「なら、お誂え向きのものがあると思う」
ユーリは立ち上がると、歩き出す。エリサもその後に続いた。彼はアンジェリカの姿を探し始める。幸い、彼女はそう遠く離れていないところにいた。アリシアとアリアンナの姿も一緒だ。
「アンジー」
ユーリがアンジェリカに話しかけると、彼女はユーリと、彼の後ろのエリサの方を見て分かっていた、と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「覚悟は、決まったようですわね」
「ええ。お爺様に、電話をして、所謂――」
「宣戦布告……いえ、この場合は、独立宣言かしら?」
エリサが言おうとしたことをアンジェリカが遮る。一瞬ムッとした表情をエリサは浮かべたが、言わんとしていることは間違っていなかったので、大人しく留飲を下げる。
「ええ。意思表明は、大事でしょう?」
「なら、お誂え向きのものがありますわ」
アンジェリカが、先程のユーリと全く同じことを言う。それがなんだか妬ましい様な羨ましいような、そんな複雑な感情を誰ともなく向けた。
「で、そのお誂え向きの物とは、なんですの?」
「ついてらっしゃい」
アンジェリカがつかつかと歩き出すので、エリサとユーリのみが彼女に着いて歩き出す。アリアンナとアリシアは、ここで待って居るようだ。
広間を抜けて、人気のない通路へ。照明のない通路の外側には、エリサの身長ほどはあろう大きな窓が並んでつけられていて、そこには強化ガラスが嵌って外の光を取り込み、通路を薄く照らしていた。お目当ての物は、すぐにあった。
「……公衆電話?」
何の変哲もない公衆電話が、壁に備え付けられている。日本で見る緑色の物ではなく、海外のものである銀色の筐体に、銀色のボタン。何やら説明が公衆電話の横に書いてあるようだが、字が細かくてエリサには近づかなければ読めなかった。
「ただの公衆電話ではありませんわ」
アンジェリカが人差し指で頭上を指した。その先にあるのは、宇宙。
「この電話は、軌道エレベーターの静止軌道ステーションの通信基地と、直通していますわ」
「あの、会議をした時と同じ」
「その通り。しかも、静止軌道ステーション同士の相互ネットワークも可能。つまり、この電話は世界中どこにでも電話をかけることが可能ですわ!」
来館者特権で、無料。最後に彼女はそう付け加えた。端末を持ってこなかったエリサにとっては、ありがたい話でもある。
「宣言にこれほどピッタリな電話は無いと、そうは思いませんこと?」
アンジェリカがそう自信満々に言うのに、エリサはため息をつく。
「宣言に適しているかどうかはともかく、電話があるのはありがたいですわ」
「ならよろしい。後は、手でも握っていて差し上げましょうか?」
「結構ですわ!」
エリサがそう言うと、アンジェリカは肩をわざとらしくすくめる。
「なら――幸運を、エリサ」
そう言って、ひらひらと手を振ってアンジェリカはアリシア達の方へ戻っていった。後にはエリサとユーリが残される。
「ユーリさんも、行って構わないですわよ?」
「……いいや、付き合うよ」
ユーリはそう言って、エリサから少し離れたところの壁によりかかる。なんだか今のエリサを、一人にはしておけないと思った。お節介かもしれないが、こうして傍にいるくらいは、してもいいだろう。ユーリはそう思ってエリサに向かって親指を立てる。彼女はどこかぎこちなく笑いながら、親指を立て返してきた。
エリサは公衆電話の前に立つ。生憎番号は覚えている。受話器に手をかけると、それが鉛のように重く感じた。持ち上げられるのを拒むかのように、重量感を放つそれを握ったまま、受話器を取ることができない。低周波の振動が煩い、と思っていたら、それが自分の心音だということに気付く。
ユーリさん。思わずそう叫びそうになって、咄嗟に彼がいる方向を見ると、ユーリはこちらが見るのを予期していたかのようにエリサの方を見ていた。彼の金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。その視線は何も言わない。
エリサは視線を受話器に戻した。一旦手を離し、後ろを振り向く。窓の外には高度15,000メートルの空。その景色はなんだか、エリサに冷静になれ、と言っているかのように、ただ冷徹に広がっていた。
ユーリの見ている世界。これからエリサが足を踏み入れようとしている世界。
深呼吸をする。新鮮な空気を肺に取り込んで見ると、なんだか急に気分が落ち着いたような、そんな気がしてきた。思えば、婚約破棄した時点でもう帰還不能点は超えているのだ。だから、これはただの意思表明でしかない。遠くから人のざわめきが聞こえる。どうやら、新しくエレベーターが到着したらしい。
振り向いて、公衆電話に向かい直す。銀色の筐体は窓から入った空の青を映して、淡く煌めいている。そこに先程まで感じていた重量感は、もうない。試しに受話器を取ってみると、驚くほどあっけなく持ち上がった。受話器を耳に当てると、ツー、という待機音が無機質に鳴っていた。エリサは脳に染み付いたその番号を押していく。国際電話のかけ方と国番号は丁寧に公衆電話の横に展示されていたので、それに従ってボタンを押していく。ピポパポ、と、ボタンを押すたびにレトロな音が鳴った。ボタンを押し終えると、小さなデジタル表示板に電話番号が淡く光って表示されている。エリサは『発信』のボタンを押した。
呼び出し音が響く。永遠にも思える時間は、5コールで終わった。
「もしもし。エリサです」
受話器の向こうからは沈黙。電話をかけ間違えたか、と思ってデジタル表示板を確認しようとした時、鼓膜を聞きなれた声が震わせた。
『そろそろかけてくる頃かと思ったぞ、エリサ』
「……お爺様」
急に、足元がふらつくような感覚。しかし、エリサは思い出す。自分の感覚が狂った時に頼りになるのは、冷徹な機器。咄嗟にデジタル表示板と、そこに表示された数字に視線を映した。無機質な、デジタル表示の数字。それだけだったが、存外に効果はあった。
「ならば、私が何を言いに来たか、もうご存知なのでしょう?」
あくまで挑発的に、脳裏に浮かぶのは、鮮烈な赤色を振りまいていた、あの女。腹立たしいが、彼女の意思を借りる。
『知らんな。興味もない』
そう、ただ無感情に返す祖父。だがエリサには、その声にどこか震えが混じっているのを理解した。それが恐れか、怒りか、その判断はまだつかないが。
「お爺様。私は婚約破棄されましたわ。既に、皐月院家の命運は尽きています」
『……たかが、一つ二つの婚約話が破断された程度で、どうにかなるものでもあるまい』
「では、教えてくださいますか? 後ろ暗い何かを使って、今度は誰を、何処を脅すのですか? いつまでも身を切り売りして、最後に何を残すおつもりなのですか?」
はじめは、理知的に話そうとしていた。だが、祖父の言葉を聞いた瞬間、そんな考えは吹き飛んだ。皐月院家という終わり切ったシステムに固執する者への、ただただ怒りだけが、こみあげてきた。
「お爺様。終わりなのです。血と縁で人を縛る時代は、もう終わっているのです。捨てなければいけない物に固執していては、いつまでも前に進めない」
エリサの、独立宣言。決別の言葉。
「私の道は、私で決めます。私が、皐月院となります」
簒奪の宣告。エリサの心の中で、明確に何かを超えたような、そんな気がした。
電話の向こうからは、長い沈黙。エリサは、心構えていた。
『――愚かな、娘だ』
なんてことはない言葉。だがエリサは、急に周囲の気温が下がったような感覚を覚える。
「愚かと言うことすらわからない者は、より愚かでしょう?」
『ならお前は、それにあたる。そもそも、こうして私が何も手を打たずにお前とこうして話しているわけがないだろう』
穂高と言ったか。そう電話口の向こうのしわがれた声が言う。
『自由には、代償を伴う。それを教える時が来たようだな』
「っ! そうやって、後ろ暗い事にすぐ頼る! 人から頼られる、人に信じられる、人を導く! それが貴き者だと、『貴い』のだと、私は教わりました! 貴方からではなく、友と――」
『愚図な友だな。それが――』
「――お婆様に!」
電話口の向こうで、息を呑む声が聞こえた。エリサは無我夢中で、心の奥に封じられていた物をぶちまける。
「お爺様。貴方は変わった。変わってしまった。お婆様が亡くなられてから、ひどく」
『……お前が、あいつを語るな』
語彙に、明確な怒気が宿る。だが、エリサは明確にそれに抗う。抗うと、歩み続けると、決めたから。
「お爺様。私がお婆様から頂いたもの。それは決して、このようなものではなかった!」
『あいつは死んだ。もういない!』
「人は死んでも、生き続けます! その人が歩んだ道を誰かが歩き続ける限り!」
記憶の中で、エリサの手を握ってくれた祖母。彼女が言った言葉が、自然と口から出ていた。ぜぇぜぇと肩で息をする。受話器を握る手が震えている。
『……もういい。お前は戻ってくる。必ずな』
「いいえ。もう、戻る場所なんてありません」
そう、エリサが言った時、背筋をぞっとする感触が撫でた。誰かが、右から来ている。咄嗟に振り向くと、ユーリの向こう、通路の向こうから、誰かが歩いてきていた。何の変哲もない男性で、何の変哲もなく、鞄の中に手を突っ込んで――出てきたのは、形が妙だが、その用途は分かる。
「お爺様……!」
銃だった。
『後悔するがいい』
世界がスローモーションになった。男はごく自然と銃をユーリに向ける。ユーリも気づいて、咄嗟にエリサを庇うため割り込むように動き出した。男の姿がユーリで覆い隠されて。
「ユーリっ!」
逃げて。そう言おうとした瞬間、気の抜けたような音が響く。
「え」
甲高い音が、響いた。
その声が誰だったのか。自分の声なのか、それとも男の声なのか、だがユーリの物ではないことは確かだった。焦った様子の男。気の抜けた音が続けて響くが、そのたびに甲高い音が鳴る。床に何かが当たったのを見て、気づいた。
ユーリが、銃弾を弾いている。
「効いていな」
男が何か言いかけた。ユーリが駆けだして、男に体当たりをしようとした。
その瞬間だった。
――辺りに、シーツを思いっきり破ったような音が響いた。
エリサの右側。窓で鳴ったそれ。彼女は恐る恐る、そちらを向く。
透明だったガラス。放射状にびっしりと白い線が入り、真ん中に黒い何かがめり込んでいる。シュー、と小さな音。みし、みし、と何かがひずむ音。
ユーリが、思わず叫ぶ。
「エリ――」
次の瞬間。世界から音が消えた。
爆風の様な暴風が吹き荒れ、世界が一気に白く濁る。
エリサの身体を風が叩く。暴風の中でもみくちゃになって上下が分からなくなり、視界の中を光の線がいくつも走る。声が出ない。口から空気が勝手に抜けていく。
唐突に、視界が戻ってきた。
「――」
言葉を、失った。
底が抜けたような、青の混ざった漆黒。その中でギラギラと無機質に輝く太陽。そして空を貫く塔。自分が空に向かって落ちているのか、地面に向かって落ちているのか、わからない。そんな光景。
これが、ユーリの見ていた景色。空の向こう側。ダークブルー。
同時に、エリサは自分の運命を悟る。この高さだ、助からないだろう。最期まで、自分らしくできただろうか。アンジェリカは、ユーリは、悲しんでくれるだろうか。できれば、彼等とずっと一緒に居たかった。
背中を下にして、風が身体を叩き始める。ぐんぐんとステーションが遠ざかっていく。
銀色の流星が、空を駆けるのが見えた。




