63/Sub:"鏡面"
どこか呆然とした様子のエリサ。ユーリはそんな彼女の様子を黙って見ていた。彼女の瞳は、空の色を写してより青々としているように見える。だがその表情には、困惑の色が浮かんでいるのが彼にもはっきりと感じ取れた。
まぁ、予想はできたさ。
ユーリは自身も窓に触れる。窓ガラスは冷えていて、成層圏の冷たさを感じる。だがそれは彼が空を飛んでいるときに感じるそれとは、なんだか違う気がした。ダークブルーだってそうだ。彼が空を飛んでいるときに見る群青と、こうして地面に足を付けてみる群青、どうも違う気がした。科学的には同じ周波数の電磁波であるはずなのに、見ている時の立ち位置でこうも変わる。ユーリには、それが随分と奇妙で、新鮮に思えた。
「妙な気分だ」
ユーリは、思わず呟いた。アンジェリカがですわね、と返す。
「空を飛んでいなければ、見ることのない光景。それがこうして、地に足を付けて見ることができる。奇妙と言わずに何と言いましょうか」
「飛行機のモニターでも、同じでしょうに」
アリシアが肩をすくめた。
「同じ光景でも、こうも変わるものですわね」
アンジェリカは期待外れ、というよりはどこか知っていたような口ぶりでつぶやいた。
「何度も見てきたものではないのですか?」
エリサが彼女に言う。
「来るたびに、違う色が広がっているように見えますわ。わたくしには」
「ボクにとっては、ユーリ兄さんがいるかいないかで、だと思うな」
そう言ってアリアンナはユーリに後ろから抱き着く。少し頬を染めたユーリが、後ろから回された彼女の手に触れた。
「鏡のようですわね」エリサはどこか呆れたように呟く。「見る人の立ち位置や状況、心境によって映るものが変わる鏡……」
エリサは視線をゆっくり、ダークブルーの空から地上へと移す。45,000フィートという高さは高所の恐怖とかそういったものを通り越し、現実感を無くならせている。角度の問題もあるのか、キリスィマスィの島の輪郭は伺うことはできなかった。
彼女は、途端に足元がおぼつかないような感覚を覚えた。どちらが地面で、どちらが空なのか。自分は今床に立っているのか、天井からぶら下がっているのか。眩暈にも似た感覚で、思わずよろけてユーリの腕を反射的に掴む。
「大丈夫?」
「す、少し立ち眩みが」
「高山病かもしれない。アンジー、ベンチに座って休んでるよ」
「分かりましたわ。わたくし達は、少しこの辺りを見ていますわ」
「了解」
ユーリはエリサの腕を取ると歩き出す。先ほどの部屋から出て通路を進む。減圧対策なのか、通路には隔壁が時折見受けられた。再び部屋に出る。少し窓から離れたところに、簡素なベンチがあった。二人はそこに腰を下ろす。
「気分はどう?」
「多少は、よくなりましたわ」
エリサはふぅ、と小さく息をついた。窓から、空から離れて椅子に腰を下ろすと、それだけでだいぶ気分が良くなった。
「頭が痛いとかはない?」
「ありませんわ。ただ……こう、少し眩暈がしたのです」
「バーティゴ、だね。まさに」
ユーリがそう言うと、エリサは少しどきりとした。彼の言葉に深い意味があるかどうか、勘ぐるがユーリはそんなことをつゆ知らず、離れた窓の外のダークブルーに目を向けている。
「存外、つまらないものだったでしょ」
唐突にユーリが呟いた。エリサは目を丸くしてユーリの方を見る。外に向けられていたはずの彼の金色の瞳は、いつの間にかエリサの方を向いていた。エリサは一瞬瞳を気まずそうにそらすと、そのまま小さくうなずいた。
「やっぱり。そんな気がしたんだ」ユーリは、可笑しそうにくすくすと笑った。「僕も、人のことをちゃんと見れるようになってきたかな」
「あ、あの……その、申し訳ありませんわ」
「何がだい?」
「ここまで連れてきていただいたのに、この様に平凡な感想しか出せなくて」
ユーリは、少し驚いたような表情を浮かべ、それから小さく微笑んだ。
「別に。どうってことないさ。僕だって、こうして立って窓の外に見る空の色は、いつもと違うと感じる」
「ユーリさんも、ですか?」
「正直なところ、空の色に意味なんてない。その人がどう捉えるかでしかないさ」
「あなたの口から、そのような言葉が出るとは思いませんでしたわ」
エリサは驚きの表情を浮かべる。
「窒素と酸素と水蒸気、そしていくらかの二酸化炭素が吸収・散乱した可視域の電磁波、それが空の色の正体だ。大気の窓ってやつだ」
「でもそれが、貴方が目指す空の色なのでしょう?」
「重要なのは何色かじゃない。その色にその人が何を見出すか、だ」
だから、とユーリはエリサに言う。
「さぁこれが空の色だ、っていきなり見せても、必ずしも視野が広がったり、何かに気付いたりするわけじゃない。そう言う意味では、エリサさんの反応はある意味正常な反応と言える」
「正常ですか、私は」
エリサは思わず出た言葉にハッとして口を抑えた。ユーリは一瞬きょとんとした表情を浮かべるが、優し気に微笑む。
「意外だったな、エリサさんからそんな言葉が出るなんて」
「意趣返しのつもりですの?」
「まさか」
ユーリは視線を再び窓の外に向ける。彼の金色に輝く竜の瞳には、昏いダークブルーが映り込んでいた。
「エリサさんは、空に上がりたいの?」
ユーリがぽつり、とエリサに尋ねる。
「……正直、決めあぐねています。なにせ」エリサは、口をつぐんだ。自分らしからぬ弱音。「今までずっと、祖父の言うことに従って、生きてきましたから」
「自分で道を定めることは、確かに自由だ。だけど自由には責任が伴う。航路は、誰も教えてくれない。それは、とても恐ろしいことだ。月明りのない夜間飛行の様なものだ」
「でも、貴方はそれをすると決めたのでしょう?」
エリサはユーリに尋ねる。今度は、ユーリが沈黙する番だった。
二人の間に静けさが満ちる。遠くで、観光客だろうか、楽しそうな声が遠くからかすかに聞こえてくる以外は無音の世界。エリサは、自分の息遣いがやたらとはっきりと感じられることに気付く。隣のユーリの、深くゆっくりとした呼吸音も。
「エリサさん、僕はね」ユーリはぽつりとこぼした。「地上から、逃げようとした人間だ」
エリサはきょとんとした表情を浮かべる。それを見てユーリは、父さんの『処置』は効いているんだな、と彼女にはよくわからないことを呟いた。
「何もかも嫌になって、それで地上を捨てて、空に上がろうとした。どこまでも上昇して、それで空の色がどんどん暗くなっていって――飛べなくなった」
「それは」
「『立ち入る資格がない』って、言われた気分だった。それ以来、僕はあのストラトポーズを超えられずにいる。いつも、超えようとするたびに、翼があの時の恐怖を覚えている」
「……」
エリサは、言葉が出なかった。無限と思っていた彼の翼にあった、『性能限界』。それを告白された。だけど、不思議と失望はなく、どこか安堵すら覚えている自分に気付く。それに気づいて、自己嫌悪する。
「でも、そこを超えたいと願う人がいた。だから、僕はあそこを超えて見せる。そうやって、道を示してもらったから」
エリサには、その人物が誰なのかは、言わずとも分かった。脳裏に鮮烈な赤色が浮かぶ。
「だから、エリサさんも、一人で悩まなくていいんじゃないかな……空は、一人で飛ぶには少々広すぎる」
その言葉には、ユーリが感じたダークブルーの意味が、込められているようだった。
「私が目指す、空の色……」
エリサは、ぽつりと呟く。
しばし、二人で空を眺める。少し離れた窓の外に見える空は、スカイブルーとダークブルーのグラデーションを切り抜かれていて、エリサ達の座っている所から見るとまるで一枚の絵画のようにも見えた。エリサはユーリの方を、ゆっくりと向く。
「ねぇ、ユーリさん」
「なに?」
「もしも私が自分で空に道を定めるのなら、貴方は私の翼になってくれますか?」
ユーリは、少し恥ずかしそうに、空を見つめたまま呟く。
「エリサさんなら、喜んで」
エリサは、ぞく、と、自分の背筋が一気に引き締まる感触を覚える。同時に身体を揺らす、振動の様な震え。興奮交じりのそれは、恐怖と言うより――。
「……そう言ってもらえるなら、とても心強いですわ」
――武者震いだろう。
ユーリがエリサの方を向くと、彼女の表情に一瞬驚いたような表情を浮かべるも、すぐに可笑しそうに微笑んだ。
「今のエリサさんの顔、アンジーみたいだった」
「すぐにアンジェリカの方が『エリサみたいだった』と言わせて見せますわ」
それは頼もしいやら、苦労が倍になりそうやら。ユーリはただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「少し、元気が出ましたわ」
エリサは立ち上がると、窓際へ歩いていく。冷たい窓に触れて見る高度45,000フィートの空は、相変わらずそこにただ広がっているが、さっきよりもなんだか色合いが増したような、そんな気がした。もちろん空の色は何も変わっていないので、目が慣れたとか、心境の変化とか、そうして受け取る側のエリサの方が変化しただけのはずだ。隣に、ユーリが歩いてくる。
「やはり、鏡ですわね」
「君は、そう思うかい?」
「ええ。見る者の心持ちで変わる景色など、鏡と言わずしてなんと言いましょう」
「鏡、か」
見えない境界に阻まれて、空へ飛び出せない自分。鏡面のように、ユーリを阻むそれ。鏡とは、確かに言い得て妙だ、とユーリは思った。同時に、超えてしまえば、案外あっけないものかもしれない、とも。
「どうするんだい?」
「まずは、話をしてみたいと思いますわ」
エリサの瞳には、硬い決意が宿っていた。




