59/Sub:"風防”
手早く食器を片付け、外出の支度に移る。ユーリは部屋に戻ると外着に着替え、先程アンジェリカの会話で出た身分証を集める。パスポートに、電子飛行免許端末。エリサをフルトン回収するときに持っていたものだ。念のためにバッテリーを確認する。充電は十分だ。アンジェリカの分も用意する。日本の物と、失効状態になっているルーマニア自治区の物の二つ。並べてベッドの上に置く。
「あら、ありがとう」
アンジェリカが部屋に来て、ベッドの上に綺麗に並べられたパスポートを見てつぶやいた。
「これ以外のIDは持ってきた?」
「これだけですわ。幸い、パスポートに生体IDも紐づけされていますし」
それぞれの身分証をそれぞれの鞄に詰める。アンジェリカは肩提げの小さなポーチ、ユーリは小さなメッセンジャーバッグだ。
「何か持っていく?」
「景色を楽しみたいですから、最低限でいいでしょう」
それもそうか、とユーリは思った。対流圏界面付近の空は見慣れているが、落ち着いて座って眺めていれば、また違ったものが見えてくるかもしれない。文庫本を放り込もうとした手を止める。結局、最低限の荷物になった。
準備を終えて玄関に行くと、エリサが待ちぼうけていた。どうやら支度はすぐに済んでしまったらしい。ユーリとアンジェリカの姿を見ると、少し恥ずかしそうに微笑む。
「お待たせ」
「構いませんわ。それほど待ってもいません」
そんなエリサの様子をアンジェリカはどこかしみじみとした視線で見つめる。その視線に気づいたエリサは、訝し気な表情をアンジェリカに向けた。
「なんですの」
「いえ、あの生意気高慢悪役令嬢がよくぞここまで、と。やはり恋は人を変えるものなのだと、実感しただけですわ」
ひく、とエリサの口元がひくつく。ユーリは思わず顔を青くして、フォローに入ることにした。
「そうだね。アンジーも昔に比べて大分丸くなったね」
「……ユーリぃ?」
咄嗟に言ったことで墓穴を掘ったのは、すぐに理解できた。
「今夜は覚悟しておくことですわね」
「言われてますわよ、アンジェリカ」
今度は意気揚々とエリサがアンジェリカを煽る。今度はアンジェリカの口元がひくつく番だった。
「お待たせ……って、何この空気」
準備を終えてきたアリアンナが修羅場真っただ中の玄関に来て、苦笑いを浮かべる。アンジェリカとエリサの間に挟まれたユーリはアリアンナの方を向くと助けを求める視線を送るが、彼女は興味深げに視線を三人に巡らせると、ニヤニヤと愉悦じみた笑みを浮かべて一歩離れた。見物する気だ、とユーリは恨めしげな視線を向ける。
「何やってんのよ、あんたたち」
地獄のような三体問題の時間は、アリシアが来て全員の準備が整うことで強制終了した。ユーリを挟んでアンジェリカもエリサも彼と腕を組みながら、玄関を出る。
「姉さん姉さん」
外に出てタクシーを求めて交通の多い大通りに向けて歩いている所でアリアンナがアリシアに小声で話しかける。
「何?」
「ああいうの、両手に花って言うのかな」
二人が見つめる先には、ユーリの両腕とそれぞれ腕を組み、彼を挟んで歩くアンジェリカとエリサ。ユーリを挟んでお互い睨み合っているのか、稲妻が幻視できた。
「花は花でも、両手に茨ね、ありゃ」
アリシアは苦笑いを浮かべ、呆れたように言う。
「姉さんは、薔薇は好きかい?」
「あたしはヒマワリの方が好きよ。大きいし、見ごたえがあるもの」
何ともロマンのない答えを返してくるアリシア。アリアンナはそんな彼女に、ただ小さく肩をすくめるだけだった。
大通りに出てすぐにタクシーは見つかった。大通りとはいっても片側二車線の道路で、これがこの島で最も太い道路だ。そこを走っている無人タクシーを携帯端末のアプリで呼び止める。無人タクシー乗り場の小さな標識にタクシーは滑り込むように入ってきて、ドアが自動で開いた。
「いつ見ても不思議な光景ですわね」
走り出した車内でエリサが呟く。五人と注文したので、来た無人タクシーはワゴンタイプの車両だった。最後尾の席に詰めるようにしてユーリとアンジェリカ、そしてエリサが座り、前の席にアリシアとアリアンナが座る。目的地はアプリで配車した時に入力済で、アナウンスと共に自動でドアが閉まって車が静かに走り出す。料金も、もちろん支払済だった。
「小さな島だからこそできるサービス、というのもありますわね」
アンジェリカが窓の外を眺める。街並みは軌道エレベーターと共に開発が進んだとは言え、都会とは決して言えない。せいぜい沖縄の離島のような雰囲気だ。このタクシーと同じサービスを人口が多く、密集度が高い都会でやっても上手く行かないだろう。アンジェリカとしては、この島の適度に田舎の雰囲気が好みであったので、これからもこのタクシーサービスが使えればいいと願っている。
一方、反対側に座っているエリサは窓の外に景色を向ける。その先に見えるのは、空へ向かってそびえる軌道エレベーター、その風防塔。麓から頂上部へ向けて、緩やかに曲線を描きながら建っていて、途中と、上の方にリング状の構造物が風防塔に『嵌る』様にして接続されている。それが空に向けて伸びている様子は、この島に来てからずっと感じていた違和感だった。何もない平野に、突然絶壁の山がそびえているようなものだ。軌道エレベーターは、車が進路をそちらに向けるにつれてだんだんと見えなくなっていった。ユーリにもたれ掛かるようにしてフロントガラスの方を除くと、かすかに根元の部分だけが見ることができる。
「遠近感が狂いそうですわ」
エリサが小さくつぶやく。
「人類最大の構造物、だからね」
「人の叡智の結晶ですわ」
アンジェエリカはどこか誇らしげにつぶやく。
軌道エレベーターの麓に向けてタクシーは走っていく。麓にいよいよ差し掛かろうとしたところで、車はロータリーに入り、そこで停止した。ここからは歩きだ。
タクシーを降りると、南国の暑く湿った空気がユーリの肌を包み込んだ。太陽は軌道エレベーターの風防塔に丁度隠されて、日陰になっていた。こりゃいいや、と思いつつ全員で施設に向かう道を歩く。雰囲気としてはまるで空港のエントランスで、まばらにだが観光客の姿も見える。皆、そびえる軌道エレベーターを写真に収めようとしているが、逆光で上手く取れないのか四苦八苦していた。
「ん?」
すれ違ったのは、ポロシャツを着た男性。手にはスーツケースを持っている。だが歩き方が、なんだか妙だった。エントランスからロータリーに続く道、その両脇に建てられている白いサンルーフの支柱を、掴みながら歩いている。掴んで、身体を押すようにして手放し、すぐに次の支柱を掴む。ユーリ達の脇を通り過ぎて、彼はロータリーへ向かっていった。
「アンジー」歩きながら、ユーリは隣のアンジェリカに話しかけた。「今の人、宇宙帰りかな」
「でしょうね。あの癖は」
アンジェリカも気づいていたらしい。エリサが不思議そうな表情を浮かべていたので、ユーリはあー、と言葉を選ぶ。
「宇宙だと無重量だから、移動するには手すりを伝っていくしかないんだ。地球に帰ってきてもその癖が残る人がいるんだって」
「なるほど」
エリサがその男性を見ようと思ったが、彼はタクシーに乗って行ってしまった後だった。なんだか『宇宙』という概念が漏れ出てきているような、そんなふとした感覚を彼女は覚える。
「本当に、宇宙への入り口なのですわね」
エリサが感心したように言うと、ユーリはそうだね、と返す。
「普通の人でも、少し訓練を積めば宇宙に上がれる……そんな時代が、もう来てるんだ」
「わたくしが宇宙を拓いた暁には、家族旅行を売り出しますわよ」
アンジェリカが不敵に言うと、ユーリもエリサも乾いた笑いを浮かべる。その言葉が虚言や威勢ではなく、本気で目指しているものだということは、つくづく実感していた。
ターミナルのエントランスにたどり着く。エアーカーテンの風を潜り抜けて屋内に入ると、涼し気な空気が肌を包んだ。ここの設備は観光用のそれなのか、内部はちょっとしたショッピングモールの様にも見える。観光客はハワイからの日帰りなのだろうか、ユーリが想像以上にターミナルはにぎわっていた。あくまでも想像以上に、ではあるが。日本の観光地に比べたらはるかに閑散としていて、それこそ地方中規模空港のターミナルの様だ。
「なんだか」エリサが周囲を見渡しながら言う。「イメージしていたよりも、なんというか……」
「普通?」
「ええ、そう。普通」
ユーリが言うと、エリサは頷いた。
「もっとこう、非現実的なものを想像したのですが」
「宇宙から帰ってきて、普通の光景があったら、安心するでしょう?」
アンジェリカが言う。なるほど、とエリサは思った。となると、先程すれ違った男性も、宇宙から地球に戻ってきて、『地球の普通』をここで堪能していたのかもしれない。よく見ると、観光客に混じって先程の男性と同じように手すりや柱を手でつかんでいる人影が見えた。彼等も、宇宙から帰ってきたのだろうか。
皆でターミナルの中を歩く。観光客向けのエレベーターホールの標識をたどっていくと、そこには空港の手荷物検査場の様な光景が広がっていた。観光客が列をなしている。
「なるほど、セキュリティは万全、ということですわね」
エリサは感心したように言う。軌道エレベーターはその特性上、テロや紛争の標的になりやすい目標だ。観光客用のゲートとはいえ、このようなものがあるのには納得がいく。
列に並んでセキュリティを受けると、内容はほぼ空港のそれと一緒の事にエリサは驚いた。始めに、出国検査のように受付でパスポートを見せて指紋を取ったのは面くらったが、そこから先は代わり映えしない。手荷物をトレイに乗せてX線撮影機に流し、金属探知機のゲートを通過しただけだ。アリシアから借りたバッグもすぐに戻ってきた。
「随分と、簡素ですわね。もっと仰々しいセキュリティを想像していたのですが」
エレベーターホールに向けてコンコースを歩きながらエリサが言う。アンジェリカも少々苦い顔でふむ、と呟いた。
「観光客向けと言うことで、セキュリティを緩くしたのかもしれませんわね」
「それで大丈夫なのです?」
「空港の方の水際で、怪しい人物は弾く、というつもりなのでしょう」
「航空免許、もって来損だった。セキュリティで停められそうになったよ」
前は免許も確認されたんだけどな、と呟くユーリ。その言葉に、エリサは一抹の不安を覚える。しかし周囲の観光客はそんなことは気にも留めていないようで、皆家族や仲間と和気藹々と話しながらエレベーターホールへと向かっていっている。そうしていると、なんだか心配している自分の方がおかしいような、そんな気がしてきて、どうしようもない居心地の悪さを覚えた。
「心配ないよ」アリアンナがエリサの肩を叩く。「何かあっても、ボクたちが守るよ。エリサさん」
「それに、今の貴女なら一度死んだ程度なら復活できますわよ。安心なさい」
「気味の悪いことを言わないでくださいまし……」
やっぱり付いてきたのは不正解だったかもしれない。エリサはため息をついた。




