58/Sub:"過積載”
「それで」アンジェリカは淡々とエリサに尋ねる。「具体的に何をするか、は決まっているようですわね」
「家の実権を、私が握ります」エリサは低く呟く。「……そこに至るまでの過程は、まだ思いついていないですけれど」
彼女が絞り出すように言うと、アンジェリカはあっけらかんと返す。
「それを考えるのが、わたくしの仕事ですわ」
「信頼していますわよ」
エリサが言うと、アンジェリカは少し意外そうな表情を浮かべるものの、すぐにええ、とうなずいた。
「先に出ていますわ」
着替えを着て、アンジェリカは洗面所を後にした。
洗面所を出てリビングへ向かうと、そこにはソファーの上でぐったりしているアリシアが目に飛び込んできた。ジャージはどこか乱れていて、髪もぼさぼさだ。
「先ほどはどうしましたの? 何やら悲鳴が聞こえてきたのですが」
アンジェリカが何ともなさげに尋ねると、ソファーの上のアリシアがゆっくりと彼女の方を向いた。
「……アンジーは、飼い犬の動画を見たことはある?」
「ありませんわ」
即答する。ソファーの上のアリシアは空虚な笑いを浮かべた。
「大型犬にとびかかられて、じゃれつかれる飼い主の動画を、いくつも見たのよ。それでそんなのにちょっと憧れてた」
アリシアは、へへ、と乾いた笑いを漏らす。
「でも、違った。寝ているときに、突然ユーリに飛びつかれるまでは」
「……申し訳ありませんわ」
「ふ、ふふ。お姉ちゃん、昔のことを思い出しちゃった」
アリシアが言うには、ユーリは寝ている彼女に飛びつき、その腹をクッションか何かと言わんばかりに顔をこすりつけたようだ。そうして彼女の幼児体系を存分に味わってようやく、正気に戻ったらしい。なお、ユーリが暴走する原因を作ったのはアンジェリカ達であるということは、アンジェリカは黙っていた。
「それで、ユーリは?」
「頭ぐりぐりしてやったらやっと正気に戻って、それで今はベッドでダウンしてるわ」
ユーリには悪いことをしたかもしれない、とアンジェリカは心の中で静かに思う。詫びに朝食は自分が作ろう、と彼女は思った。ユーリの様に上手くは料理できないので、精々目玉焼きとパン程度になるだろう。
アンジェリカが台所にたどり着くと、意外にもそこではアリアンナが料理をしていた。ユーリが使っていたエプロンを付けて、鍋を火にかけている。
「アリアンナ」
「あ、姉さん。待ってて、今作ってるから」
そう言う彼女の手には白く細長い乾麺。ヒロのスーパーマーケットで買った素麺だ、とアンジェリカが思いだすと、アリアンナは沸騰する鍋に素麺を放り込み、箸でかき混ぜる。硬かった素麺は一瞬で湯を吸い、鍋の中に花開いていたのは沸騰する湯の中に巻き込まれていった。アリアンナが卓上に置いた携帯端末の、表示されたストップウォッチのボタンを押す。
「素麺ですか。いい考えですわね」
「最近重い食事が続いているし、さっぱりしたものも良いかな、と思ったのさ」
朝から食べるには、少々違和感があるけどね。そう言ってアリアンナは冷凍庫から刻みネギの入ったタッパーを取り出す。先日ユーリが刻んで冷凍していたものだ。
「氷代わりでいいよね」
「構いませんわ」
チューブのショウガ、めんつゆなどを冷蔵庫から取り出す。アンジェリカは適当な皿と器を棚から出す。スマホのアラームは、すぐに鳴った。
「熱いのいくよ」
アリアンナがそう言って鍋を持つと、流しにセットしてあったざるに流し込み、すぐに水道で冷水をかけて冷ましていく。ちゃっちゃっと水を切ると、彼女は手早くそれを大皿の上に並べていく。ちょうど一口分ずつとりわけ、とぐろを巻くようにして盛っていく。手慣れた作業だった。
「皆を呼んで来ますわ」
「お願い」
テーブルに皿を並べ終えたアンジェリカはリビングから洗面所へ向かう。洗面所のドアをノックして朝食ができたことをエリサに伝えると、中からドライヤーの音と共に返事が返ってきた。アンジェリカはそのまま寝室へ向かう。ベッドには、うつ伏せで突っ伏すユーリの姿。
「ユーリ、朝ごはんですわよ」
ユーリはピクリとも動かない。すぅ、すぅ、と息をしているのは分かるが寝ているにしては早く、浅い。狸寝入りですわね、とアンジェリカはすぐに気付くと、ベッドに腰掛ける。試しに彼の引き締まった臀部を撫でてみると、ユーリは小さくピクリと体を震わせた。
「ユーリ、起きないともっとすごいことしちゃいますわよ」
一瞬だった。ごろりとアンジェリカから離れる方向に寝返りを打ち、そのまま上体を跳ね上げる。その表情は悟でも開いたかのように虚無であった。
「アンジー、僕はね」ユーリは無表情のまま言う。「確かに、皆を背負って飛んでいくつもりだ」
「ええ」
「だけど、早速自信がなくなってきたよ」
そう言う彼の目は、どこか虚ろであった。
「そうなれば、尻を叩くのはわたくしの仕事ですわ」
「僕を馬か何かと?」
ユーリが苦笑いを浮かべる。アンジェリカはその上に跨り、彼を見下ろした。その顔には、妖艶な悦びが浮かんでいる。
「ユーリは、そちらが好みではなくて?」
「……黙秘させてもらう」
もぞもぞとユーリが動いてアンジェリカの下から這い出すと、どこか疲れた風にベッドから降りる。
「朝ごはん、早く行こう」
「ユーリを呼びに来たのですわよ?」
アンジェリカが呆れたように言うと、ユーリはただ肩をすくめた。
リビングに戻ると、全員が席についてユーリとアンジェリカを待って居るような状態だった。待たせてごめん、とユーリが言う。
「もう少しで、伸びちゃうところだったわよ」
「ごめんごめん。さぁ、早く食べよう」
いただきます。席について全員で言う。ユーリはショウガのチューブをめんつゆに溶かし、まだ凍っている刻み葱を入れてかき混ぜると、いい塩梅に麺つゆが冷え、葱が融ける。大皿に並べられた素麺の玉を一つ取り、めんつゆに浸して啜ると、夏の味がした。
「風鈴の音でもあれば完璧ね」
アリシアがずるずると素麺を啜りながら言う。相変わらず見た目にそぐわないことを言う、とエリサは苦笑いを浮かべる。
「そういえば」アリシアが素麺を啜りながら言う。「エリサちゃん、自分でその髪型にしたのね」
ユーリは言われて気付く。アリシアによって強制的にされたのではないのに、エリサは縦ロールヘアーになっている。彼が驚いているとエリサは少し自信ありげにほほ笑んだ。
「この方が好きだと、言ってくれた殿方がいらしたものですから」
一斉に視線がユーリに刺さる。ユーリは神妙に目をつぶる。
「……ただの個人的な意見だよ」
「その個人的な意見を、嬉しい、と思うのは駄目かしら?」
ユーリは今度こそ沈黙するしかなかった。アンジェリカが意地悪そうな笑みを浮かべてユーリに言う。
「モテる男はつらいですわね」
「ほっといてくれ」
静かに、朝食の食卓は進んでいった。
あっという間に素麺を食べ終わる。腹八分目どころか五分目ほどの感覚だが、時間が遅いので昼食に響くといけない。ユーリはどこか物足りなさを覚えながらも、我慢して全員で朝食を切り上げて片付ける。アリシアには先にシャワーを使ってもらうことにした。淑女の身支度には時間がかかるのだ。
「で、今日はどうするのさ」
アリアンナが戸棚に皿を戻しながらつぶやいた。皿を洗っていたユーリはアンジェリカの方を向くが、彼女はエリサと顔を合わせていた。何か考えがあるようだ。
「少し、気分転換が必要と思いませんか?」
アンジェリカが言う。ユーリはその含みのある物言いに思わず首を傾げた。
「気分転換?」
「最近一仕事終えて、そのあと思いっきり遊んだのだから。バカンスには休憩も必要でしてよ?」
一理ある、とユーリは思った。エリサも何やら考え事があるようだし、そう考えると一度ここらで一日ゆっくりするのもいいかもしれない。
「じゃあ、どうする? お昼と夕飯の買い物、今のうちに行っておこうか?」
「いいえ。休暇はユーリ、貴方もですわ。夕飯は冷凍食品か総菜でインスタントにいきますわ」
「分かった。お昼は?」
ユーリが尋ねると、彼女はどこかその質問を待っていたかのように笑みを浮かべた。
「お出かけしますわ!」
アンジェリカが自信満々に言う。ユーリはそこで首を傾げた。同じことをアリアンナも思っていたようで、アンジェリカに尋ねる。
「でも、キリスィマスィにそんな場所あったっけ? 塩田観光でもするの?」
そう言うと違う違う、と言わんばかりに指を振るアンジェリカ。いよいよもってわからなくなってきたユーリとアリアンナ。その後ろにいるエリサも困惑気味だ。
「ずっと見えていて、ずっと存在感を放っていた場所があるでしょう?」
そこで、ようやくはっとユーリが言わんとしていることに気付いた。だが、彼が答えを言う前にアンジェリカが口に出す。
「軌道エレベーターですわ!」もっとも、とアンジェリカは続ける。「さすがに静止軌道ステーションまで行くわけにはいきませんが」
「風防塔の30,000フィート地点に観光デッキがあるから、そこに行くわけか」
ユーリは、思わず感心する。軌道エレベーター自体があまり大規模に観光業をやっていないせいもあって、すっかり存在を忘れていた。確か、展望フロアにカフェテリア、そして小さな博物館があったはずだ。
「エリサ」
アンジェリカはくるりと振り向いてエリサの方を向く。彼女はびくりと肩を震わせた。
「地上で一番高い地面からの光景、楽しむといいですわ」
エリサはただ、苦笑いを浮かべるしかなかった。彼女の悩んでいる事項について、このままいくら頭を捻っていても何も浮かんでこないのは確かに事実だ。そうなると、予想外の所から変数を代入するというのは、刺激を得るということに関しては確かに理にかなっている。だからと言って、軌道エレベーターが出てくるのは予想外、ではあった。
「ほんとうに」エリサは呆れたような笑みを浮かべてアンジェリカに語り掛ける。「退屈させてくれませんわね、貴女も、ユーリさんも」
その返答が気に入ったのか、アンジェリカは笑みを強くする。そうして満足げに頷くと、彼女は三人に良く聞こえる声で言い放つ。
「さぁ、決まったら早く支度していきますわ! 軌道エレベーターに入場するのに身分証が必要ですわよ! 忘れないように!」
「パスポートに……一応、飛行免許も持っていく?」
「念のために持っていきましょうか。損はありませんわ」
それもそうか、とユーリは頷いた。




