56/Sub:"非線形”
”三体”の影響で各話タイトルが凝り出す
ぼんやりとした暑さと明るさで、ユーリは目が覚めた。意識がはっきりしてくると、自分がソファーの上で寝ていることに気付く。
全身が痛む。ちゃんとした姿勢で寝ていなかった影響か、いくつかの筋肉がこわばっているような気がした。首を動かそうとして、痛むことに気付いた。何とか視線を動かして時計を確認すると、時刻は朝の九時半。いつもに比べて大分寝坊してしまった。朝のランニングには少々厳しい時間だ。起き上がろうとして、太ももに違和感を覚える。そうして段々と昨晩の記憶がはっきりしてきて、ユーリの太ももから下腹部にかけてを枕にしているエリサの存在を思い出した。右肩にはアンジェリカがもたれかかり、ソファーではアリアンナがソファーのアームのクッションを枕代わりにしてすぅすぅと寝息を立て、カーペットではアリシアが大の字になって、時折静かにいびきを立てていた。
「……」
動けない。完全に両サイドをロックされている。起こすのも何だか忍びなく、仕方なく現状維持に留める。正面のテレビの画面は黒々としていて、どうやら完全に寝落ちする前に電源を落としたらしい。せめて音を小さくして何か見るかな、と思いつつ手元を探るが、リモコンの感触はない。何とか首を巡らせると、カーペットで寝ているアリシアの左手に力なく握られていた。とてもではないが、届かない距離だ。
小さく心の中でため息をつくと、ぼんやりと考え事をする。思えば、キリスィマスィに来る前からイベントが目白押しだった。ゆっくりとする時間が、そろそろほしくなってきたころ合いである。そう考えてみると、こうして寝坊して時間をただ浪費するのも、何だか悪くないように思えてくる。
ぼんやりと、昔のことを思い出す。アリアンナの事、咲江の事、アンジェリカの事。もっと昔の事を思い出して、ただストラトポーズの黒と輝く地球の白で頭が一杯になる。
ユーリはキリスィマスィに来てから、脳の片隅でそれを意識し続けていた。それは、軌道エレベーターというまさに『ストラトポーズの向こう側に行く存在』が近くにあり続ける場所に身を置いているからだということは、何となく理解していた。この島での生活では、どこに至って軌道エレベーターが関わってくる。直接その存在が見えるのは勿論だが、通信と生活のインフラも、軌道エレベーターで賄っている。更に言えば、この島の経済発展そのものが、軌道エレベーターがもたらしたもの、と言っても過言ではないだろう。いわば、『空と共に生きる島』なのだ。ここは。
遠くで飛行機のエンジン音がする。夜間は離着陸規制がかかるため、日中にひっきりなしに飛んでくる飛行機は、どれも物資を満載している。それは生活物資だったり、観光客だったり、技術者だったり、経営者だったり、宇宙に上げる物資であったり、宇宙飛行士そのものであったりもする。
そんな喧噪から離れ、ここは静かな住宅街だ。大戦前からあった別荘地だったが、こんな僻地の島に、誘致しようとしたものでもあったのだろうか? いくつかの宇宙機関が開発拠点や通信センターを置いていたのは知っているが、それ以外は海とラグーン内の塩湖で採れる塩くらいしかないような島だった筈だ。そんな土地を、アンジェリカの両親は何を思って買ったのだろうか。
ユーリは天井を静かに見上げる。白い、無地の天井には電灯付きのシーリングファンが付けられている。まっすぐではなく、奇妙な形に波打ち湾曲したプロペラブレードは、送風の高効率化を図った試作モデルだろうか。先日大学で教授から教わった、ナビエ・ストークス方程式のことをふと思い出した。流体の挙動を表現する数式。もしもこの世界のどこかにあるという一般解が見つけられたら、ユーリの境界層制御にも影響が出てくるはずだ。ひょっとしたら、ユーリの飛行術式や、なんならユーリの論理領域も更新する必要があるかも知れない。
実際のところ、ユーリの現在の飛行術式は、既存の物を飛ばしながらユーリに合わせて感覚で調整していたものに過ぎない。いわば、シミュレーションで作り上げたモデルを実験に合わせて随時調整しているようなものだ。それがもし、前提理論が確立されたのなら、予想外の要素が出てくることだってあり得るはずだ。
「未知、か」
決まった解が存在せず、演算による近似予測しかできない事象。ユーリやアンジェリカが歩まんとしている未来は、まさにそれだ。
未知と未来、両方とも『未』の漢字を使っているな、とユーリは何となく気付く。いまだ、とも読めるその漢字だが、『不』や『非』ではない。いまだ、という言葉に何となく、『今はそうではないが、いずれそうなる』というニュアンスを覚えた。『未来』なんてまさにそうだ。時間は動くことをやめないし、そうなればいずれ未来は現在になる。そうなってくると、なんだか『未知』という言葉も、いずれ知られるような、そんな気がしてくる。少なくとも未来における未知は、その典型例だろう。だが、未来に限りがない様に、未知にも、きっと終わりはないだろう。未知を超えても、その先には新たな未知が、暗い夜の空の様に広がっているはず。
だからこそ、そこに灯火を掲げるような、そんな存在がいるのだろうか。暗闇に立って道を照らす、そんな存在が。
そこでユーリは、自分にもたれかかるアンジェリカのことを強く意識した。彼女の体温が伝わってくる。暗い夜空でも、確かに感じられる温かな熱。ユーリは、やはり自分はアンジェリカのことを、単なる恋人や婚約者に留まらない、もっと特別な存在と感じているのを改めて自覚する。そして、その熱に、アリアンナやアリシア、咲江、そしてエリサが加わっている感触を想像している自分にも。
浮気性なのかな、僕は。
そう思うと何だか急に自己嫌悪感が湧いてくる。いけない事をしているような、アンジェリカを裏切っているような。だが同時に、咲江やアリアンナ、エリサが喪失の涙を流しているのを見たくない、という思いも同時に存在した。アンジェリカがユーリの背中を押した、という事実と共に。
ひょっとして、試されているのか、自分は。
唐突にそんな考えがユーリの頭をよぎった。全員を背負って飛べるかどうか、試されている。誰に?
アンジェリカに?
それとも自分自身に?
運命に?
答えは出ない。とりとめのない思考を繰り返しているうちに、ユーリはふとアンジェリカの寝息が浅く、早いことに気付く。睡眠時のそれにしては早く、この呼吸はむしろ。
「アンジー」ユーリは、膝の上で寝ているエリサを起こさないように小声でつぶやく。「おはよう」
返事はない。狸寝入りだな、と思ってゆっくり首を動かすといつの間にか彼女は顔をこちらに向け、小さく唇を突き出していた。眠り姫が目覚めのキスをねだってくるなんて前代未聞であるが、ユーリはそれに応えることにした。無意識に目を閉じる。唇に感じる、甘く、温かく、柔らかい感触。ゆっくりと名残惜し気に唇を離して目を開けると、どこか妖艶に開いた真紅の瞳と目が合った。
「おはようございますわ。ユーリ」
「うん、おはよう」
満足げにほほ笑むアンジェリカ。つられて、ユーリも笑顔になった。
「いつから起きてたの?」
「ユーリが何やら独り言をつぶやいていたあたりから、でしょうか」
うぅん、とソファーで寝ているアリアンナが小さくうめいた。彼女の眠りも随分浅くなってきているらしい。
「すっかり寝坊だ」
「こういう日も、悪くはないですわ」
そう言ってアンジェリカは再び目を閉じると、ユーリの肩に再びもたれかかる。
「昨晩、さ」ユーリはアンジェリカに尋ねる。「映画、どこまで覚えてる?」
「主人公が、ただひたすら走り続けていたところ」
「僕はそこまで覚えてないや。最後に覚えているのは……軍に入ったところ」
「随分と序盤で眠ってしまったのね」
アンジェリカはくすくすと笑う。
「昨日は夜中にあれだったからね。見始めた時点でだいぶ眠かった」
「散々な夜でしたわ」
ユーリは自分の上ですうすうと寝息を立てているエリサを眺める。吸血鬼化の兆候は、一見したところない。ふと、口元がもごもごと動いているのに気づく。悪戯心か、興味本位か、ユーリは自分の左手の人差し指を近づけてみると、ちゅっ、と小さな音と共にエリサはユーリの指に吸い付いた。そのままちゅぱちゅぱと、赤子がおしゃぶりを吸うようにしてユーリの指を吸い始める。
「どうしよう」
ユーリが真剣に困った表情を浮かべる横で、アンジェリカは今にも笑い出しそうなのをこらえていた。彼女の肩がプルプルと震えている。
「笑い事じゃないよアンジー。これ、エリサさんが起きる前に何とかしないと」
「お姉様と一緒に咲江に可愛がってもらうと良いですわぁ……!」
そう言ってひーひーと心底可笑しそうに笑うアンジェリカ。助けは望めそうにない。何とか指を引き抜こうとすると、名残惜しそうに吸い付いてきて、その手をエリサの両手が寝ぼけ気味に掴んだ。ドツボに嵌る、というのはこういうことを言うのだろうかとユーリがいよいよもって危ないと感じ始めていると、もぞりと左前で何かが動く気配を感じた。咄嗟に目を向けると、アリアンナが寝ぼけ眼を擦りながら目覚めるところだった。
「ふぁーあ、おはよう」
ええい最悪のタイミングで、とユーリは心の中で毒づく。彼の懸念は正しかったのか、アリアンナの眼に状況が飛び込んでくる。ユーリの顔と、エリサの顔、視線が往復する。
「……ユーリ兄さんは、甘えるより甘えられたい派かい?」
朝っぱらからなんてことを聞いてくるんだこの義妹は、と思いつつも、ユーリはなんとかこの場を収められそうな言葉を絞り出す。
「アリアンナが望むなら、構わないさ」
「義妹には、義兄に甘える権利と義務があると思わないかい?」
そういってにじり、にじり、と起き上がってユーリにはい寄ってきて、エリサの上に覆いかぶさるような形になるアリアンナ。彼女の長い金糸の様な髪がさらさらと流れ、エリサの上に落ちる。
ユーリの視界一杯に広がるアリアンナの顔。昨日血を吸ったばかりだからだろうか、彼女の瞳はいつにもまして赤色が強い様な気がした。
ん、とアリアンナが瞳を閉じて唇を突き出す。ユーリは、肩に頭を載せたままのアンジェリカの方を向く猶予もなく、アリアンナに口づけた。相変わらずエリサはユーリの指を吸ったままであるし、状況はただひたすらに混沌であった。深いキスに移行しようとするアリアンナを制し、口を放す。
「やりすぎだよ、アンナ」
「へいへい」
そう言って名残惜しそうにソファーから降りるアリアンナ。悪戯っぽく笑うと、軽やかにシャワーへと歩いて行った。アンジェリカもユーリの肩から頭を離し、ソファーから立ち上がる。
「わたくしも、いい加減起きた方が良さそうですわね」
んん、と呟きながら彼女は伸びをする。背中が凝っているのは彼女もそうであるようだった。
「二度寝するにしたって、場所を変えようか」
「ですわね……でもまずは、空腹ですわ」
「同感」
アンジェリカは静かに寝室に向かって歩いて行った。残っているのは、ユーリの指をいまだにしゃぶり続けているエリサと、床でいびきをかき始めたアリシア。
「エリサさん」ユーリが呟く。「そろそろ、指を離してくれると助かるかな」




