55/Sub:"対称性の破れ”
「ふーっ、ふーっ、ふーっ!」
「落ち着きなさいエリサ! 今吸ったら止まれませんわ!」
アンジェリカが思わずベッドから降りかけている所に、ぎょろりとエリサの瞳が動いた。その眼が真っすぐ貫くのは、ユーリ。思わずひゅっ、とひきつった声をユーリが漏らす。
「うがあっ!」
ユーリにとびかかるエリサ。一瞬で反応したアンジェリカがエリサを抑えるが、思ったより力が強い。予想外の膂力に、思わずよろめいた。
「ユーリ! 絶対に吸わせてはなりませんわ!」
「ん、んんん!」
ユーリの両肩はアリシアとアリアンナが咄嗟に止血して舐めたおかげで血はわずかについているだけだが、口の中にはアンジェリカの『飲み残し』がまだ残っている。これでエリサに飲まれでもして、彼女が一気に吸血鬼側に振れれば、いよいよもって彼女はユーリの首筋に噛みつくだろう。そうなったらいよいよもって吸血鬼エリサ嬢の完成だ。
「アンナ! 私は左を、アンタは足を押さえて!」
「応っ!」
そう言ってアリシアとアリアンナがベッドからエリサにとびかかる。流石に三人の吸血鬼に抑え込まれたら、吸血鬼のなりかけはひとたまりもなく、床に押し倒された。
「いいですわっ! ユーリ、このままドラゴンブレスを流し込んで、頭を冷やして差し上げなさい!」
「んんん!」
ユーリが口を閉じながらベッドから転げ落ちる。両目を金色に輝かせ、両手にドラゴンブレスを淡く纏い、うっすらと輝かせる。これを流し込んでしまえば、こっちのものだ――そうなるはず、だった。
「うがあっ!」
「えっ」
エリサの目がぐりん、と、左腕を押さえていたアンジェリカの方を向いた。正確には、まだ飲みかけのユーリの血で真っ赤な、彼女の口元に。一瞬の急激な膂力の増大に、右腕を押さえていたアリアンナから上半身を引っこ抜く勢いで拘束から抜け出し。
「んぐぐうっぅ!?」
エリサはアンジェリカの口に、吸いついたのだった。
「お、おごっ! んごぉっ」
じゅるじゅると、凄まじいバキューム音を立てながらアンジェリカの口をむさぼるエリサと、とてもじゃないが淑女がしてはいけない悲鳴を上げるアンジェリカ。その光景を見たアリアンナは、顔を青くして床にへたり込んだ。床に不自然な体勢で転げ落ちたユーリが、起き上がって目に飛び込んできた光景は彼をフリーズさせるには十分だった。エリサの足元にいまだにしがみついているアリシアは、状況も解らないまま無我夢中で彼女の脚にしがみつづけている。
アンジェリカは一瞬の混乱から回復し、なんとかエリサを引きはがそうとするが、まるで万力のようにアンジェリカの頭を抱きかかえて離さないエリサ。舌に噛みついてやろうともしたが、自分の舌と絡んで上手く噛めない。そうしているうちに、エリサはアンジェリカの口の中を蹂躙し、“ユーリの血生絞り:アンジェリカの唾液割”を飲み干していく。
「こ、のおっ!」
アンジェリカは、咄嗟にエリサを『吸った』。彼女の存在がアンジェリカに引っ張られ、エリサの魂がアンジェリカのそれに触れる。さながらロッシュ半径からはみ出た連星系が相手のガスを重力で引きはがすように、エリサの魂を吸い上げる。つぷ、と、虚脱に陥ったエリサがどこかうっとりとした瞳でアンジェリカから口を放した。二人の舌の間に赤い唾液のアーチができた。
「ユーリっ! 今っ!」
「っ!」
凄惨な光景に思わず呆然としていたユーリが、アンジェリカの一言で正気に戻った。エリサを後ろから抱きかかえてそのまま後ろに倒れ込んだ。足元でアリシアが小さく悲鳴を上げた。部屋が一瞬で、白い靄に満たされた。ユーリの腕の中でエリサが力を喪う。
「か、換気を」
かろうじてアンジェリカが言うと、顔を押さえながらアリシアがよろよろと立ち上がり、窓を開けた。冷たい部屋の空気が一気に流れ出ていき、代わりに熱帯の蒸し暑い空気が入ってきて、部屋が晴れ上がっていった。そこにあったのは、頬を紅潮させて床に仰向けに転がったアンジェリカと、青い顔で腰を抜かしたアリアンナ、エリサを仰向けに抱きかかえて床に転がるユーリに、顔に誰かの踏み跡を紅く残したアリシアだった。
「……」
部屋の中に沈黙が流れる。
沈黙を破ったのは、ぐす、ぐす、としゃくりあげる小さな嗚咽の声。ユーリは、それが、自分が抱きかかえている存在から発せられていることに気付く。だが、顔を見る気は起きなかった。
「えぐっ、えっ、えぐっ」
「泣きたいのはこっちですわぁ!」
がばっ、と上体を起こしてアンジェリカが叫ぶ。アリシアが咄嗟に窓を閉めていなかったら、隣から苦情が来てもおかしくない声量だった。
「は」エリサが嗚咽混じりにつぶやく「はじめてでしたのに……」
「わたくしだって女子と接吻するのは初めてですわ!」
「いや、そう言う問題じゃないでしょ……」
顔の踏み跡の赤みも引いてきたアリシアが呆れたように言う。刺激が強すぎたのか、アリアンナは内股で床にへたり込んで放心状態だ。エリサを後ろから抱きかかえたままのユーリは、神妙な顔で天井を見つめている。それ以外にすることがなかったようだった。
しかし、このままでも埒が明かない。アリシアがエリサに近づいて、両肩を持って彼女の上体を起こしてやると、青い瞳からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれ、鼻からは鼻水が一筋、情けなく垂れ下がっていた。口元にはまるで下手な口紅のようにユーリの血が付いたままだ。
「ほら、顔を洗いましょう。一旦落ち着きましょう、ね?」
「う、うえええええ」
「ああもう! ほら、泣かないで! 大丈夫よ、ファーストキスよりも初体験よりも前に、もっと変なことされた人だっているんだから!」
「お姉様、まさか咲江と……!?」
「アンタは黙ってなさい」
一体アリシア姉さんと咲江さんの間に何があったのか、ユーリも気になったがとてもじゃないが、そんな事を聞ける雰囲気ではなかった。アリシアは軽々と泣きじゃくるエリサを正面から抱き上げる。
「シャワー浴びさせてくるわ。アンジーはお母さんに連絡して」
「……そうですわね。こういう時なら、お母様ですわね」
自分に言い聞かせるようにアンジェリカが呟き、ふらふらと立ち上がって部屋から出ていった。
ユーリは寝転がったまま、首だけ動かしてアリアンナの方を見やった。腰が抜けて、微動だにできない、と言った風貌だった。なんとか自分の身体に活を入れ、起き上がってアリアンナに肩を貸す。
「立てる?」
「ご、ごめん。ちょっと厳しいかな……」
いつもの彼女らしからぬ、弱弱しい言葉。何とかベッドに座らせると、彼女の膝は産まれたての小鹿のように震えていた。
「怖かった」アリアンナが小さくつぶやいた。「怖かったんだ。はじめて、食べられる側の気分を実感した」
「……少なくとも、僕はアンナやアンジーにそう感じたことはないよ」
ユーリは、精一杯のフォローの言葉をかける。焼け石に水だろうが、ないよりはましである。
「ところでさ、ユーリ兄さん」アリアンナが、どこか儚い笑みを無理に浮かべながら尋ねてくる。「アリシア姉さんと咲江さんって、そう言う関係なのかい?」
「……さぁ、ね」
ユーリにも情けはあった。自らの平穏のため、アリシアの誇りのため、彼は黙秘を選択したのだった。
ユーリはベッドから立ち上がる。アンジェリカのいるリビングに歩いて行こうとすると、手首をつかまれる。アリアンナが、潤んだ瞳でユーリの腕をつかんでいた。彼女の手を取り、二人でリビングに歩き出す。通り過ぎたシャワー室からは、シャワーの水音が響いていた。
「――はい、はい。そうですのね」
リビングの奥から声が聞こえてくる。ちらりと覗いてみると、アンジェリカが端末を耳にあてて会話しているのが見えた。アリアンナをソファーに座らせ、隣に腰かける。気分転換にテレビでもつけようと思ったが、アンジェリカの会話に音が入るだろう、と思って、やめた。
「ええ、ありがとう――おやすみなさいませ」
そう言って、アンジェリカは通話を切った。そうして、どこか焦燥した表情でユーリ達の方に向き直る。
「問題はなさそうですわ」
「詳細を求めるよ」
ユーリが尋ねると、アンジェリカはため息交じりに返した。
「なんでも、わたくしとエリサの相性が『良すぎる』のが問題だったそうですわ」
「あー、エリサがアンジェリカに寄っちゃった、と」
「ご明察」
役割、着ているもの、髪型、口調。そう言ったものを似せていくことで人はいくらでも他人に成り代わることはできる、と言うのはユーリの父親が言っていたことだった。今回の件は三段論法のように、エリサとユーリの相性が良く、アンジェリカとユーリの相性が良かった結果、アンジェリカにエリサが相似してしまったのだろう。
「ひとまずは、わたくしが余剰分を吸い上げたのと、ユーリがドラゴンブレスで対消滅を発生させたので問題はなさそうですわ」
「落ち着いていることが、その証拠、か」
ユーリはシャワールームの扉を横目に見た。
「まぁでも、一晩は面倒を見ておく必要がありそうですわね」
「後遺症は?」
「あの程度なら問題ないでしょう。せいぜい、一回死んでも大丈夫程度ですわ」
「そりゃ心強い」
ユーリは思わず皮肉る。アンジェリカも苦笑いを浮かべ、ユーリとアリアンナの間の、ユーリの隣に割り込んで腰掛ける。
「眠れませんわ」
「……何か、テレビをつけようか」
ユーリはリモコンを取って、テレビをつける。国際放送にチャンネルを合わせると、日本のテレビが映る。丁度向こうでは夕方で、ゴールデンタイムのテレビ番組が流れている。チャンネルをザッピングしていると、ロードショーがやっていた。そこで放心状態だったアリアンナがハッと気づいたようにつぶやいた。
「あ、この映画、好きな奴だ」
「丁度いいや、これを見よう」
アンジェリカは何も言わずにユーリにもたれかかる。どうやら、異論はなさそうだった。
しばらく映画を、ただ三人、ぼんやりと見つめる。いいところで入ったCMに少々苛つきつつも現実に引き戻されると、丁度シャワールームからアリシアとエリサが出てきた。
「お疲れー……って、この映画、懐かしいじゃない」
「……」
どこか虚ろな瞳でテレビ画面を見るエリサ。まるでアンデッドみたいだぁ、とユーリは妙な感想を抱く。
「眠れませんわ」
「ボクも、目が冴えちゃって」
「しゃーないわね。夜更かしと洒落込みましょうか」
そう言って、アリシアはクッションを取るとカーペットの上に寝転がった。一人、エリサだけが虚無の表情で立ち尽くしている。ユーリはポンポン、と自分の太ももを叩いた。エリサは虚ろな表情でユーリの顔と足を交互に見、そしてふらふらと吸い寄せられるようにソファーに横たわり、ユーリの膝枕に頭を載せた。ユーリの膝の熱が、香りが、ダイレクトに伝わってくる。つう、と、エリサの目尻から涙が一筋、頬を伝って落ちる。
映画を五人で黙って視聴する。視聴を楽しむというよりは、義務的に情報を視覚から取り込んでいるに近い行為。味わいよりも栄養補給を目的とする食事の様な映画鑑賞。皆が身にのしかかる倦怠感に押しつぶされながら、夜は静かに更けていった。




