54/Sub:"相互作用”
「貴女は、どうなのかしら、エリサ」
「……思えば、私は、貴方ほど逆風にさらされた人生ではありません」
エリサは、ゆっくりと語り出す。
「物心ついた頃に両親は事故で無くなり、祖父と祖母に育てられ……その祖母も、私が中学に上がる頃に亡くなりました」
エリサは、過去をゆっくりと反芻する。そこには、楽しかった記憶が、古ぼけたアルバムのように広がっていた。
「それからは、お爺様は皐月院家の事を何よりも優先するようになり……私は、ただそれの言いなりとなって過ごしてきました」
「いつだって、翼は向かい風を受けて空に舞い上がるものですわ」
「ええ、本当に」エリサは、海辺で遊んでいるユーリ達を見つめた。「貴女は、ずっと高く飛んでいた」
エリサは、そっと自分の手を軌道エレベーターにかざす。その頂点は遠く、空の上に続いていて、パラソルの上に隠れて届かない。
「私は、アンジェリカ、貴女が羨ましかった」伸ばした手を下ろして、どこか憑き物が取れたような笑顔を浮かべる。「ユーリさんと、その翼で高く飛ぶ貴女に、憧れていた」
そのエリサの告白にアンジェリカは、予想はしていたが、それでも驚愕の表情を隠せなかった。それから少しして、ため息をつく。
「結局、ユーリの言うことは正しかったということですわね」
「ユーリさんが?」
「ええ」
アンジェリカは、ため息をついた。
「貴女が、わたくしの事を羨んでいる、嫉妬していると、そう認識していたようですわ」
エリサはそれに、目をぱちくりと見開くと、それから少し自罰的に笑った。
「なんだ、ユーリさんの方が、私の事を私より分かっていらしたのね」
「『鼻の下を自分で見ることはできない』という言葉がありますわ。気にする必要ありません」
アンジェリカが言うと、エリサはくすくすと、どこか力なく笑う。
「珍しい慣用句ですわね」
「ルーマニアの慣用句ですわ。『灯台元暗し』といい、世界どこに行っても似たような言い回しがあるのだから、自分の事がわからない事なんて、ずっと昔から皆を悩ませていた問題でしょうに」
アンジェリカは、そこで、少し安心したような表情を浮かべた。
「でも、良かったですわ。ユーリの目に狂いが無いようで。空を飛ぶ者が、目が悪くては話になりませんもの」
エリサは、そこでアンジェリカの様子に違和感を覚える。何か、重要なことを忘れているような、そんな気分。そこで彼女はそれに思い至り、頬を小さく染めた。
言うべきか。しかし、このような状況では、おそらくそれも知るに至っているだろう。エリサは意を決し、アンジェリカに尋ねる。
「ゆー、ユーリさんは」心臓が、急に拍動を増した。「私の、ユーリさんに向ける感情については、気づいてらしたの?」
「ええ。好きなのでしょう? ユーリの事が」
想定外、であった。アンジェリカはあっけらかんと応え、へ、とエリサの口から間抜けな声が漏れた。その反応をよそに、アンジェリカは腕を組んでどこか自慢げに、納得したように頷く。
「流石わたくしのユーリですわね。わたくしが見込んだだけありますわ」
「そうではなくて!」
思わず声を荒げる。アンジェリカは不思議そうな表情でエリサを見返した。
「自分の婚約者が、他の女に好かれていることに、何も思わないのですか!?」
「構いませんわ。だって、ユーリはわたくしの隣に必ず戻ってきますもの」
あっけらかんとアンジェリカが言い、それに絵理沙が呆然と口を開ける。それに、とアンジェリカが続けた。
「わたくし、少々欲張りでして。宙を目指すのに、誰も置いて行くつもりはありませんの」もちろん、とアンジェリカは釘を刺す。「空の向こう側を目指す意思があるのならば、の話ですけれど」
エリサは、開いた口がふさがらなかった。震える唇で、アンジェリカに尋ねる。
「い、今のところ、『何人』、いますの?」
「わたくし達姉妹に」アンジェリカは、自信気な笑顔の口元をひくひくと震えさせて、苦々し気に言った。「咲江」
「吾妻先生!?」
思わずエリサは大声を出した。なんということだ。よもや教え子に手を出すような人だったとは。いや、今はもう先生ではないのだから、両親の許可があれば問題ないのか? ぐるぐるとめまいがし、頭が痛くなってくる気分だった。
「そして、貴女」
その言葉にエリサがぴくり、と固まる。
「貴女は、どうしたいの?」
「……」
エリサは、口を閉じる。彼女を、アンジェリカの赤い瞳が真っすぐ見据えていた。エリサは、まだ答えを決めあぐねているようだった。自分の気持ちに折り合いが付いていないようでもあった。アンジェリカは、まぁ良いでしょう、とどこか優し気につぶやくと、ビーチチェアに寝転ぶ。
「時間は無限にあるわけではありませんが、そう焦るようなものでもありませんわ」
「申し訳、ありませんわ」
「謝るようなことではありませんわ」
アンジェリカはクーラーボックスを片手間に開けると、中からドリンクを取り出す。缶の、アップルサイダー。二つ取り出して、片手で器用に開けると、エリサに渡す。
「ではまずは、私たちの未来に、乾杯」
「……ええ。乾杯」
缶同士が打ち鳴らされる。グラスの様な甲高い音ではなく、鈍い音が小さく響いた。エリサが一気にぐい、と飲み干すと、甘酸っぱく、冷たい液体が喉を刺激と共に流れ落ちて行った。どこまでも爽やかなその味は、突き抜けるように広がる空のようにエリサの口の中を洗い流していった。
「おーい」
声がかかる。ユーリの声だ、とそちらを向くと、ユーリがアリシアとアリアンナと共にこちらに向かって砂浜を踏みしめ、歩いてきていた。ぽたぽたと海水が滴り、渇いた砂浜を濡らす。
「お帰りなさいませ。休憩かしら?」
「うん。そろそろ、一旦水分を取りたいや」
どうやら、そこそこの時間が既に経過していたらしい。
「あら、随分話し込んでしまったかしら」
アンジェリカが鞄から自分の端末を取り出して時間を見ると、確かに一休憩入れるにはちょうどいいほどの時間が過ぎている。アリシアはぐったりとしてアリアンナに抱えられていた。
「喉乾いた~」
アリシアが言うと、アンジェリカはおもむろに缶を飲み干す。すっとビーチチェアから降りて、日向に踊り出た。羽織っていたパレオを脱ぎ捨てると、エリサの手を取る。
「泳ぎますわよ!」
「え、ええ!?」
そう言って無理矢理エリサをパラソルの下から引きずり出す。彼女が落としそうになったアップルサイダーの缶を、ユーリが器用にキャッチした。
「エリサさん! ジュース、冷やしとくね!」
「の、飲んでいいですわ!」
そうユーリが言った時、エリサは本能的にそう答えた。ユーリがえっと口を開ける中、エリサはアンジェリカに半ば引きずられて海へと砂浜を駆けていく。
残されたユーリ。手元にはシュワシュワと小さく音を立てるアップルサイダーの缶。
「飲みなよ、気が抜けたら、美味しくないだろう?」
アリアンナがクーラーボックスを漁り、自分のサイダー缶を取り出して開ける。プシュッと軽快な音が響いた。アンジェリカとエリサ、二人が駆けていった海では、エリサがアンジェリカによって海に投げ込まれている。透明な水しぶきが舞い、キラキラと太陽の光を浴びて煌めいた。水面から顔を出した絵理沙が、どこか楽し気な怒りの声を上げ、アンジェリカを同じように水に投げ込もうとして、はしゃぐ。
ユーリはしばらく手元と、エリサの背中を交互に眺めると、ままよ、と缶を煽る。
甘酸っぱい、爽やかな味が、喉を流れ落ちて行った。
「ん……」
寝苦しくて、エリサは思わず目が覚めた。
全身を心地よい倦怠感が覆っている。しかし、エアコンがよくきいた室内は快適であるし、布団も寝心地はいい。ただ正体不明の寝苦しさだけが、彼女を覆っている。瞳を閉じて、枕に顔を押し付けてもう一度眠りの中に沈み込もうとして、失敗した。そうこうしているうちにどんどん目が冴えてきて、ついついいけないと分かっていても、とうとうエリサは上体を起こしてしまっていた。
ぐぅぅぅぅ。
起きた瞬間、空腹を知らせるメロディーが静かに響く。誰も聞いていないとは言え、このようなことになるのを普段は恥ずかしがるものだが、生憎寝起きの彼女にそれを判断する余裕はなかった。
空腹だ、それに、ひどく喉が渇いた。
みず、とエリサは布団から出る。部屋のドアを静かに開けて、足音を殺して廊下を歩く。台所にコップと水道があったはず。ここの蛇口の水は飲んでも大丈夫、ということをユーリが言っていたのを覚えていた。電気の付いていない、真夜中の暗いリビングを歩いて台所にたどり着くと、洗い場に逆さに乾かしてあったグラスに水を注いで、飲む。喉を流れ落ちて行く生ぬるい水。無味無臭。喉が渇いた。そうやって、何杯も、ごくごくと水を飲み干す。
喉が渇いた。渇きが収まらない。身体はこれ以上の水分を拒否しているのに、脳が渇きを訴えかけてくる。コップを力なくシンクに置くと、ふらふらと自分の部屋に向かって歩き出す。真っ暗な室内を、静かに歩く。開いている部屋のドアの前を通り、自分の部屋のドアノブに手をかけ――。
「あっ」
――鼻腔を、匂いが突き抜けた。
身体が、心が、魂が、この香りを欲している。全身がどくどくと脈打つような感触。胸元から下腹部にかけて、きゅうう、と甘酸っぱい感触が電流のように走り抜けた。腰が抜けそうになるのを、足に無理矢理力を入れてこらえる。はぁ、はぁ、と呼吸が激しくなる。
思わず、その匂いのもとをたどっている自分に気付いた。アリアンナとアリシアの部屋の前を通り、リビングに通じる分かれ道の前を通り、洗面所の前を通り、突き当り。アンジェリカとユーリの部屋。ドアが、かすかに開いている。
はぁ、はぁ、とあがる息を無理矢理殺す。そっとドアノブに手をかけ、ゆっくりと中の様子を覗き込んだ。
「ん……」
「ん、んああ」
そこに広がっていたのは、猟奇的で、倒錯的で、蠱惑的な光景だった。
ベッドに腰かけるユーリ。その右首すじに、アリシアが。左首筋に、アリアンナが。噛みついて、いや、吸い付いている。そしてユーリの正面。彼の腿に正面から跨り、彼に口づけをしているのは、アンジェリカだった。貪るような、顔を斜めにして行うキス。その光景から、エリサは目が釘付けになって目を離すことができなかった。動悸が早くなる。呼吸が早くなる。身体を貫く熱い感触がじくじくと熱を放つ中、ふと、ユーリとアンジェリカの唇が触れ合う隙間から、一筋の赤い筋が垂れた。暗い寝室に、それがまるで輝くように鮮やかに赤く輝いて見える。
「――っ!」
全身を炎が、電流が流れたようだった。甘く、重い炎のような獣性に理性が沈みかける。全身が叫ぶ。ドアを開け、駆け寄り、あの雫を舐めとりたい! ユーリの口に吸いつき、その甘露を吸いつくしたい!
一瞬だった。開け放たれるドア。ベッドの上の四人が、その時始めてエリサに気付いたのか、驚愕の目でドアの方を見ていた。エリサの方を一斉に向く、六つの赤い瞳と、二つの金色の瞳。
アンジェリカが、驚愕の表情でエリサを見つめる。対するエリサの瞳は――
「貴女、その眼――!」
――マゼンタに、妖しく輝いていた。




