53/Sub:"相対性"
全員は浜辺を歩くと、適当な場所を探す。生憎、ビーチはガラガラで選ぶ場所には困らなかった。半分木陰になっている箇所があったので、ユーリはそこに開いていたパラソルを突き刺した。先端が金属の石突になっていて、パラソルはたやすく砂浜に突き刺さる。
皆、持ってきたバッグを地面に下ろす。ユーリはバッグの中から袋を取り出すと、その中にはピンとロープ、フックが入っていて、それをテントのリグの様に周囲の砂浜に突き刺す。これで風が吹いても容易には倒れたり飛ばされたりすることはない、という寸法だ。アウトドア用のしっかりとしたモデルのパラソルは、取り回しが良かった。
「じゃあ、ボクは早速泳ぎに行こうかな」
「うん、準備運動はしっかりね」
「大丈夫! さっきガレージでしておいたさ、念入りにね!」
麦わら帽子を脱いで少し興奮気味にアリアンナが言う。彼女が半ば投げ出すようにして置いたビーチチェアと茣蓙を広げながら、ユーリは苦笑いを浮かべた。
「行こう、アリシア姉さん。ゲームする気だったのはバレてるからね?」
「ちょ、待っ」
早速、茣蓙に腰を下ろしかけたアリシアの腕をアリアンナが引き、強引に海に向かって連れ出す。こういうところは年相応なんだから、とサンダルを履いたまま海へ駆けていくアリアンナの背を見送った。砂浜をずんずんと引きずられていく途中で、とうとうアリシアはアリアンナに両脇から持ち上げられているような形になり、やがて海へと投げ込まれていた。ずぶぬれになったアリシアが起き上がると、怒りの形相でアリアンナに水をぶちまける。アリアンナは楽しそうに笑った。
「お二人とも、どうぞ」
「ええ、ユーリ、ありがとう」
「あ、ありがとうございますわ」
アンジェリカがビーチチェアに寝ころび、エリサが茣蓙に腰を下ろす。ユーリはその横でテキパキと荷物の整理を続けた。
ユーリは、無造作に砂浜に置かれたアリシアのバッグを開く。中には携帯ゲーム機と、充電にでも使うつもりだったのか、折りたたみ式のソーラーパネルが入っていた。せっかくなので、精々利用させてもらおう。ユーリはソーラーパネルを引っ張り出して広げ、パラソルの上に引っ掛けると、ユーリのバッグに入れていた小型の卓上扇風機――PCにもつなげられるやつだ――からUSBコードを伸ばしてパネルのアダプタに挿す。テーブル代わりにビーチチェアと茣蓙の間に置いたクーラーボックスの上に置いてスイッチを入れると、生暖かい風を送り始めた。
これでひとまずは展開完了かな、とユーリは満足げに『拠点』を眺める。
「さて、僕もひと泳ぎしてこようかな」
「ユーリ」アンジェリカは、ユーリに声をかける。「エリサに、『日焼け止め』を」
「おっと、忘れるところだった」
ユーリはそう言うと、エリサの手を取る。途端に、エリサにはユーリの手が急に冷たくなったように感じた。だが、ひどく冷たい物体に触れた時のような痛みはなく、感覚では冷たくないのに、意識はそれを冷たいと感じているような、そんな気分。同時に、どこか周囲がほんの少しだけ明るくなったような、そんな錯覚を覚える。
「はい、これで良し」
ユーリが手を放す。手には、まだじんわりと冷気が残っているような気配がした。
「今のは、一体」
エリサはユーリに握られた手を閉じたり開いたりする。まだ彼の感触が残っているような気がした。エリサの疑問に、ビーチチェアに横たわったアンジェリカが答える。
「ざっくり言うと、ユーリのドラゴンブレスを『塗りたくった』のですわ」
「冷気と、紫外線に、一体何の関係が?」
純然たる疑問を返すと、ユーリが説明に困ったように返す。
「『相対的エネルギー減衰場』とでも言うべきらしい。僕のドラゴンブレスは」ユーリは内容をかみ砕いているようだった。「それが、紫外線より波長の短い……エネルギーの高い電磁波を、可視光域にまで赤方偏移させるんだ」
説明は受け売りだけどね、とユーリは苦笑いを浮かべる。エリサは、一旦考えることをやめることにした。
「小麦色になりたかったのだったら、余計なお世話かしら?」
「ユーリさん。ありがとうございますわ」
アンジェリカの皮肉を無視して、エリサはユーリの気遣いに感謝する。どういたしまして、とユーリは返すと、設営作業に戻った。エリサとしては日焼け止めを塗る気でいたが、その手間が省けただけ良かった。そこで彼女は、ふと、ユーリが自分に日焼け止めを塗りたくる妄想をして、頬を赤く染めた。エリサは『そっちの方が良かった』なんて、断じて思っていない、と自分に心の中で何度も言い聞かせる。
「二人は泳がないの? 泳ぐなら僕が荷物番しておくよ?」
日向で、ユーリが上に羽織っていたジャケットを脱ぐ。彼の細みで、筋肉質な肌が太陽に照らされていた。
「わたくしはしばらく、景色を眺めて休むことにいたしますわ」ちらり、とアンジェリカは横のエリサを見やる。「エリサも、疲れが溜まっているようですし」
エリサは、こちらを見ているアンジェリカの瞳に気付いて、小さくうなずいた。
「ええ。ユーリさん、しばらく静かに、南国を楽しんでいますわ」
ユーリは、二人の顔を交互に見ながら、そこでどこか理解したように、わかった、とだけ言うと、脱いだジャケットを軽く畳んでバッグに入れて、海へ駆けて行った。
太陽の下、煌めく空色の海、その向こうには空へ向かってそびえる白磁の軌道エレベーターの風防塔。そしてその先からストラトポーズの向こう側へと延びる一筋のロープ。水遊びをするユーリ達の声や、波の音、風で木立がざわめく音が静かに空間を満たす。
「この海岸」沈黙に小さな針を突き立てるように、アンジェリカがつぶやいた。「島のラグーンに面しているから、水深が浅くて海が水色なのですわ」
「波も、穏やかですわね」
エリサが言葉を選ぶようにして返す。再び、二人の間に沈黙が流れた。
「わたくしに聞きたいことがあるのでしょう?」
アンジェリカのつぶやきに、エリサは沈黙で返す。それから、ぽつぽつと、つぶやくようにしてエリサは言葉を発した。
「私は、アンジェリカ」エリサの声は、どこか縋るような気配を漂わせていた。「貴女の、貴族としての責務を知りたい」
パラソルの下の日陰で、二人の間に沈黙が流れる。二人の正面の先では、太陽の下ユーリ達が戯れていた。
「――昔話を、しましょうか」
アンジェリカがぽつり、とつぶやく。その声色は郷愁とも、後悔とも、諦観ともとれるような、乾いたものだった。
「わたくしが、まだ幼かったころ。ユーリの、翼の、その価値にすら気付かなかった頃。空の青さを、何も知らなかった頃の話」
ぽつりぽつりと、漏らすようにアンジェリカは語りだす。
「東欧の小さな国で、わたくしは何も知らずに生きていましたわ。自らの運命も、可能性も、ただ知らぬ無垢な幼子として。ユーリとの婚約話だって、初めはただの親からの言いつけで、気に入らないものだった。でも、その後彼を見直す機会を得て、純粋な恋心を抱けていた」
どこか、懐かしそうに語るアンジェリカ。その声色は、どこか弾んでいるようでもあった。エリサは、そのアンジェリカの物言いに、少し驚いたような声色で返す。
「意外ですわね、貴女にそんなころがあったなんて」
「わたくしにも、幼い頃があった、それだけの事ですわ」
逆に、とアンジェリカはエリサに尋ね返す。
「意外と、わたくしの事を買ってくれているのね、エリサ」
「……少なくとも、私の婚約破棄、サタカ重工の商談を成功させたことに関しては、まぎれもない事実ですから」
少しだけ憎まれ口を叩きつつも、エリサはつぶやく。アンジェリカはただ、小さく肩をすくめた。そうして、またぽつりぽつりと、語り出す。
「幼い頃の、何も不安を感じずに、ただ夢だけ見れていた時代――でも、それは薄氷でしかなかった」
少し、アンジェリカの言葉が詰まる。
彼女は、言うべき言葉を選んでいるようであった。二人の間に静かな沈黙がしばし流れる。エリサは、ただ黙って、アンジェリカが語りだすのを待ち続ける。しばらくして、言葉を丁寧に拾うようにして、彼女は再び語りだした。
「……『彼等』が何を目的としていたのかは、結局分かりませんでしたわ。ただ分かっているのは、『彼等』が、ゲルラホフスカ家の、大戦からの復興支援の資金を流用していたということ。『彼等』がその資金を用いて、旧ロシア連邦の核兵器を、戦後の混乱の最中手に入れていたこと。そして、彼らに中途半端な原子核物理の知識が、あった事」
核。その単語が出てきた瞬間、エリサの背筋に冷たい何かが走った。
「おそらくは、劣化ウラン。又は、コバルトの類。放射性降下物からは、そのように推定されました。『彼等』が核爆発の威力を増すために追加した、セカンダリデバイスを覆うダンパー。それは、弾頭の威力の増加に繋がり」アンジェリカの声は、小さく震えていた。「大量の、放射性降下物を、死の灰を、まき散らした」
そこで、エリサが前から思っていた、アンジェリカに対する違和感と、それに付随する疑問点が線で繋がっていく。エリサの明晰な思考は、いともたやすく、その答えをはじき出した、彼女の唇から、震えながら言葉が漏れる。
「ひょっとして、アンジェリカ、貴女の故郷は」
「ええ。お察しのとおり、ですわ」
アンジェリカは、エリサに微笑みかける。その笑顔はいつもの力強いそれではない、弱弱しく、儚い笑顔だった。
「ヨーロッパ連合、ルーマニア州。六年前に起こった核テロで、今なお帰れない故郷」アンジェリカは、空を見上げる。「可笑しいでしょう? 守っていた民に裏切られ、国を追われた難民が貴族気取りなんて」
エリサは、何も言うことはできなかった。普段の破天荒なアンジェリカの、焦げ付いた過去に、ただただかける言葉が見つからなかった。
「あの夜のことは、今でもはっきりと覚えていますわ。寝ていたわたくしを大急ぎで起こしに来たお父様。夜明けにはまだ早い東の空に浮かぶ、もう一つの太陽。その光景だけは、何故かはっきりと覚えていますの」
「……」
「着の身着のままで出た昔のお屋敷も、胡桃を探して駆け回った黒い森も、見慣れた街並みも、もう思い出せなくなってきたというのに」
アンジェリカはゆっくりと視線を空から、ユーリ達に向ける。ユーリはいつの間にか、竜人形態へ変化していた。背中には、一対の竜の翼。
「さっきユーリが、エリサにした『日焼け止め』。あれもユーリが、いつかわたくしが故郷に帰れるように、と、頑張って習得してくれたものですの。ドラゴンブレスに事象的な指向性を持たせて、電磁波に特に強く干渉するようにした」
「電離放射線を、遮蔽するため、ですわね」
「高高度を飛ぶためには、どのみち必要なものですけれど」
アンジェリカはどこか力なく、くすくすと笑う。エリサは、自分の手のひらを見つめた。先ほどまでユーリが握っていた手には、まだほんのり冷気の感触が残っているようで、どこか、温かくも感じた。
ふたたび、静かにアンジェリカは語りだした。
「ジュニアスクールの頃の、仲の良かった友達。あの夜以来、ずっと連絡が取れない子が、もう何人もいる。極東の異邦の地。食べるものも、空の色も、雨の匂いも、街並みも、人々が話す言葉も、何もかも違う。そんな中で、再会した時にはすっかり変わり果てたユーリだけがわたくしの心の居場所だった」
けれど、とアンジェリカはどこか力を言葉に込めて言った。
「ユーリが、ストラトポーズを超えたいと願っている。その先へ飛びたいと望んでいる。成層圏の上の方、あのダークブルーを目にし、目標としたその時にわたくしは気づいたのですわ。わたくしの、この世界での立ち位置に」
「立ち位置?」
「ねぇ、宇宙と空の境界って、どこにあると思いまして?」
そう言って、エリサを見つめるアンジェリカの真紅の瞳には、暗いダークブルーが映りこんでいた。
「わたくしは、宇宙を目指したい。故郷も、民も失った貴族。果たすべき責務。それは、『貴き者である』ということ」アンジェリカは手を伸ばす。その視線の先の、軌道エレベーターをなぞるように。「わたくしは、暗い宇宙に光と熱をもたらす、灯火になりたい。それが、わたくしの貴族としての矜持」
ふっ、とアンジェリカは自嘲気味に笑う。
「こんな大層なことを言っていますけれど、本当はただ、安心したいだけなのかもしれません。宇宙に出て、『地球が故郷』だって思えて、わたくしには帰れるところがあるんだって……ただ、そう思いたいだけなのかも」
そこでエリサは気づいた。彼女が、自ら道を切り拓こうと頑なになる理由。覇道を突き進む決意をした根源。頭の中にリフレインする、ユーリの言葉。
――何かを後ろに置いて行かなければ、前には進めない。だけど、本当に大事なものだけは、ずっと抱えていかなければいけない。それこそが、前に進むための原動力だから。
「……そういう、事でしたのね」
エリサは、この時ようやく、アンジェリカという存在を、理解できた気がした。




