52/Sub:"ゲスト"
「泳ぎに行きますわよ!」
翌朝、布団で寝ていたエリサを叩き起こしたのはアンジェリカの声だった。昨日の晩は『頭の悪そうなディナー』で夜通し騒いでいたような、そんな覚えがある。寝たのは随分と遅くなったので、エリサはまだ眠かった。
「まだ朝早いですわ……」
「もう朝九時ですわよ! ユーリが朝ごはんを作ってくれていますわ! 食べていないのはエリサだけですわよ!」
アンジェリカはそう言ってエリサを布団から引きずり出す。
「……って、なんですの! その恰好は!」
エリサが目を見開く。眠気は一瞬で吹き飛んだ。
アンジェリカの恰好は、赤地に白でハイビスカスの模様が入った赤のビキニ。腰にパレを巻き、薄手のラッシュガードを羽織っている。しかし、何より異様だったのはその下に着ている、全身をぴっちりと覆う黒いタイツ。表面はシルクのように滑らかな素材なのか、やや光沢が見られるがその下の肌の質感がわかる程度に薄い。よく見ると薄くダマスク風の模様が入っているが、見たこともない素材だ。
「これですの? わたくしのお気に入りの水着ですわ!」
「違いますわ! その黒いインナーの事ですわ!」
寝起きで壮絶なツッコミを強いられるエリサの脳は処理限界寸前であった。
「ああ、これですの? いくら日の光を浴びて灰にならないとは言え、日焼けはしたくはない質でしてよ。単分子膜の層状構造の間に、紫外線吸収塗料を注入した繊維のプロトタイプですわ」
「もう何があっても驚きませんわよ……」
げんなりしながら起き上がる。どんな奇想天外なものがこれから出てくるか、想像がつかなかった。十字架のアクセサリーをつけ、ニンニクを丸かじりしたアンジェリカを想像して、それが容易に想像できてしまうことにエリサは自分も毒されてきていることを実感する。
「ほら、とっととシャワーを浴びて水着に着替えなさいな!」
「び、ビーチの更衣室で着替えますわ!」
「そんなものありませんわよ! それにビーチはすぐ近所でしてよ!」
どうやら、この別荘は意外と海のそばにあるらしい。エリサはそこで、でも、と頬を赤く染めた。
「覚悟を決めなさいな! ユーリに見せたくてあの水着を買ったのでしょうが!」
「ゆ、ユーリさんは関係ないでしょう!」
エリサが頬を赤く染めながらアンジェリカに言い返す。そうしているうちにエリサは風呂場にまで引きずられていき、寝間着をはぎ取られてシャワーに叩き込まれる。諦めた彼女がシャワーで寝汗を流して出ると、寝間着はなく、丁寧に畳まれたタオルと、その上にエリサが選んだ青いビキニが置いてあった。これ以外に、着るものはない。結局、彼女は裸にタオルを巻いただけの状況をユーリに見られるより、水着を着ることを選んだ。着替え、髪を頭の上で適当に結ぼうとしたところで、待ち構えていたかのようにアリシアが風呂場に入ってくる。彼女はフリル付きの赤いワンピースタイプの水着の下に、アンジェリカのよりは少し色の黒い無地の全身タイツを着ている。彼女の手にはすっかり見慣れたヘアアイロンと櫛が握られていた。
風呂場からヘアアイロンの動作音が響く。しばしののち、出てきたエリサは見事な縦ロールヘアになっていた。
「あ、姉さんにエリサさん、おはよう」
リビングでソファーに座ってテレビを見ていたアリアンナが二人に気付いて声をかけてくる。彼女は赤いモノキニに、同じような全身タイツ。皆着ているということはそれなりに紫外線防護作用があるのだろうか。本当に効果があるなら一着欲しいとも、エリサは思った。
「おはようございますわ」
アリアンナに返す。アリアンナが見ていたテレビでは、飛行種族が谷間を飛び抜ける映像が流れていた。その後に他の者が続いているのを見るに、どうやらレースの様子らしい。字幕と映っている映像から察するに、ヨーロッパの方らしい。気になってエリサもテレビを見るが、なるほど、上手く飛ぶものだ。しかしエリサはそこで、なんだか物足りない様な、歯がゆい様な感覚を覚える。その感覚を後頭部に抱えながら画面から目を離せないでいると、先頭の飛行種族の選手が谷を急旋回する。その瞬間、その姿がユーリと重なった。
ユーリさんなら、もっと鋭く、もっと速く、もっと高く。
「あ、おはよう、エリサさん」
「――っ!」
背中から声をかけられて、エリサは一瞬で『戻ってきた』。慌てて振り向くと、そこには群青色のサーフパンツを履き、白いシャツを羽織ったユーリがいた。閉じていないボタン。開けられたシャツの下からは引き締まった腹部が覗く。
「お、おはようございますわ。ユーリさん」
「エリサさん。その髪型と、水着。とても似合ってるよ」
混じりけのない言葉でユーリが言ってくる。エリサは頬を赤く染めて、思わず胸を隠した。豊かな彼女の胸部が押し上げられる形に。ユーリは、慌てて目を逸らした。
「ユーリぃ?」
「おぉふ」
いつのまにいたのだろうか、ユーリの背中に回っていたアンジェリカがユーリに後ろから抱き着く。彼は悲鳴ともつかない情けない声を出した。
「婚約者たるわたくしが居ようものを、他の女に目移りするなど、これはお仕置きが執拗ですわねぇ?」
「あ、貴女が私に水着を着せたんでしょう!?」
思わずユーリを庇うエリサ。アンジェリカは無表情で片手をユーリの胸元に突っ込んで撫でまわす。
「それにしても」アンジェリカがエリサの水着姿を下から上に、嘗め回すようにして眺める。「意外と、無難な水着ですわね。てっきり金ビキニでも着るのかと思いましたわ」
「あら? プライドだけは余計に高い貴女も、てっきり俗っぽくぎらぎらしい水着化と思っていましたわ」
皮肉気な笑顔をお互い向け合う。静かにお互いの間で見えない火花が散る中、アンジェリカに胸を撫でまわされるユーリが時折びくりと身体を震えさせた。
「冗談ですわ」
「その手つきは冗談とは言っていませんが?」
気が済んだのか、アンジェリカはユーリから離れる。去り際に、ユーリの耳を小さく甘噛みしていった。ユーリがプルプルと足を震わせながら、エリサに力なく笑う。
「あ、朝ごはん用意できてるよ」
「え、ええ」
そう言って、ユーリはエリサにさっと背を向けるとダイニングに向かう。その背はどこか前かがみであった。
ダイニングのテーブルの上には簡単なおにぎりが二つと漬物、味噌汁が並んでいた。相変わらず見た目と食生活が一致しない一家だ、とエリサは席に着く。ユーリが冷えた麦茶の入ったグラスを置く。
「ありがとうございますわ」
「ゆっくり食べて。急ぐほどではないから」
「お気遣い、ありがとうございますわ。いただきます」
ユーリはダイニングからキッチンへと出ていった。エリサが一人、ダイニングに残される。
とはいっても待たせているのも事実なので、礼を言ってから味噌汁に口をつける。温かい。市販のだしパックを使ったとはいえ、豆腐もワカメも入っているしっかりとした味噌汁が、昨晩の重い夕飯で疲れた胃腸に優しく染みわたる。漬物は野沢菜らしい。水分を吸って柔らかくなった海苔で巻かれた、まだ十分に熱の残るおにぎりにかぶりつくと、口いっぱいに米の旨味が広がる。今回、こうして食事を共にして気付いたが随分と良い米を食べているらしい。どこのブランドなのかが気になった。具はシンプルに、おかかだった。ぱりぱりとした野沢菜を挟みつつ食べていくと、あっという間に完食する。ユーリの手作りだが、良い腕だとエリサは感心する。程よく麦茶を飲み、一息つく。
「ご馳走様」
「お粗末様でした」
エリサがそう言うと、後ろからぬっとユーリが現れて、食器を片付け始めた。どうやらキッチンか、リビングで待っていたらしい。申し訳ないことをした。
「ありがとうございます。ユーリさん」
「気にしないで。僕もお茶を飲んで一息ついていたところだ」
そう言っててきぱきと食器を纏め、キッチンの流しで洗うユーリ。その背中はとても手慣れていた。せめて何か手伝いを、とエリサはキッチンの彼の隣に向かう。
「手伝いますわ」
「いや、ゲストにさせられないよ」
「ここまで来てゲスト扱いとは、一周回って殊勝どころか侮辱ですわよ?」
そうエリサが言うと、ユーリはうぐ、とうめいて彼女の提案を受け入れる。
「分かった。じゃあ、洗った皿を拭いて」
「わかりましたわ」
エリサの顔は、満足げであった。
てきぱきとユーリは皿を洗っていく。エリサはそれを皿拭きで拭いて水気を取って重ねていく。とはいっても、エリサの分だけだ。麦茶の入ったグラスを含めて四つしかない。あっという間に『家事で最も退屈なもの』は終わる。重ねられたそれを、ユーリは棚にてきぱきと戻していった。
「ありがとう、助かったよ」
「ふふ、どういたしまして」
エリサがどこか満足げにほほ笑むと、ユーリは、少し照れたように笑った。
「ユーリ! 早く行きますわよ!」
玄関の方でアンジェリカが声をあげる。エリサとユーリは、思わず顔を見合わせると、慌ててキッチンから出た。ガレージの扉からアンジェリカが顔を覗かせている。奥には、アリシアとアリアンナの姿もあった。
「ごめん、お待たせ」
「早く行きますわよ。『時は金なり』、でしてよ?」
そう言ってアンジェリカは慣れた手つきで、畳んだビーチパラソルを担ぐ。ユーリには一瞬それが霊槍『ブラッドボーン』に見えて、思わず苦笑いを浮かべた。ガレージの奥ではリュックを背負ったアリシアと、つばの広い麦わら帽子をかぶったアリアンナが居た。
「あ、ちょっと待って。忘れ物」
ユーリは唐突に思い返すと、小走りで奥に消える。すぐに戻ってきた彼の手には、つばの広い、白い帽子があった。
「はい、エリサさん」
そう言って、ユーリは帽子をそっとエリサに被せた。
「あ、ありがとうございますわ」
「意外と日が強いからね。日焼け止めもあるよ」
ガレージは第二の玄関のようになっている。鍵でガレージに繋がるドアを閉めると、リュックに入れてクーラーボックスを担ぎ、アンジェリカの持っていたビーチパラソルを受け取る。ガレージの扉を開けて外に出ると、熱帯の空気が彼等を包んだ。日向に出る前に、ユーリはビーチパラソルを、まるで傘でも差すかのように軽々と開いてみせる。
「アンジー、どうぞ」
「ええ。ありがとう」
満足げに、パラソルの日陰に入るアンジェリカ。エリサは一瞬呆けると、慌てて付いていく。全員が出たあと、後ろでガレージのドアが閉まる。
「ゆ、ユーリさん、重くはないのですの?」
「ん? 平気さ。鍛えてるし、このパラソル、実はかなり軽いんだ」
シンプルな、黄緑色のパラソル。基本的な構造は傘とそう変わらなそうに見えるが、傘の端に小さなフックがあったりとなにやら多機能そうである。これも試作品なのだろうか、とエリサは小さく苦笑いを浮かべた。
エリサたちは住宅街を歩く。日はまだ浅いままで、斜めからの日差しは日傘に入っていても足元を炙ってきた。それも、歩道の脇が熱帯の林になると気にならなくなった。ちらちらと、林の先に軌道エレベーターの風防である天を突く塔が見える。ちらほらと、歩道に白い砂が混じり始めた。
「わぁ……!」
その光景に、思わずエリサは声を上げる。
林が途切れた先。白い砂浜が左右に延々と広がり、静かな水面の水色のラグーンは遥か向こうまで広がる。そしてその先には、天まで伸びる軌道エレベーターと風防塔が、まるで巨大なモニュメントのようにそびえている。
「世界探せども、こんな海水浴場はここだけですわ」
アンジェリカは、どこか得意げな笑みを浮かべた。




