48/Sub:"タクシー"
鏡の前で、エリサは自分の姿を見つめていた。
縦ロールになっていた髪は頭の上でシニョンにまとめられ、以前のようなさっぱりとした髪型に戻っている。唯一、丁寧にロールにされたサイドヘアだけが、以前とは違っていた。ヒロで買ったタイトスカートスタイルのスーツは、エリサの体系にほぼフィットし、今後も着ることを想定してか少し大きい様に感じられた。だが、見た目でそれは分からないだろう。顔には丁寧に、だが薄く必要最低限の化粧が為され、フォーマルさを意識している。
洗面所のドアがノックされた。エリサが返事をすると、スーツを着たユーリが入ってくる。彼も、普段とは違い髪をワックスでナチュラルに整えていた。
「大丈夫?」
そう聞いてくるユーリの声には、わずかに緊張が滲んでいた。今回において彼はあくまで裏方である。それでもなお、ことの重大さも含めて、彼の肩には重圧がのしかかっていた。
「問題ありませんわ。ええ」
あくまで気丈に。エリサはそう意識しながら振舞った。ユーリはそう、とだけ返すと、小さく息をついた。
「僕は大丈夫そうじゃないかも」
「貴方は裏方でしょう? 私達ほど緊張することはないでしょうに」
するとユーリは、小さく肩をすくめる。
「裏方だからって、手を抜いていいわけじゃない。表舞台の先を見越して、整える。それは裏方にしかできないことさ」
「殊勝な心掛けですわね」
こうして太平洋の孤島に拉致まがいで連れてこられて、皮肉交じりの誉め言葉を漏らす。そんな言葉に反応する余裕もないのか、それとも気にしていないのか、ユーリは壁にもたれかかり、両手で口を覆いながら天を仰いだ。ユーリも、参っているようであった。
「ユーリ、そろそろ時間ですわよ」
洗面所にアンジェリカが入ってくる。彼女はすっきりとしたパンツスーツスタイルで、活発的な印象を持たせる。エリサと同じように薄く施された化粧が、フォーマルな印象を与えていた。
「ああ、ごめん。今行くよ」
「エリサも、出ますわよ。タクシーの迎えが来ますわ」
エリサは鏡の中の自分を一瞥し、洗面所を後にした。
エリサはユーリとアンジェリカに連れられて玄関で靴を履いて、外に出る。生憎、靴はアンジェリカがサイズの合うものを二足持ってきていたので、それを借りた。かかとに貼られた滑り止めのマットが凹んでいるのを見るに、この靴を履く機会はしばしばあったようだ。
屋外に出ると、急にむわりと熱帯の空気が彼女を包み込んだ。ふと、ユーリがエリサの手を握ると暑さがかき消える。彼の方を見ると、目は薄っすらと金色に輝いていた。
「お加減は如何ですか、お嬢様」
「ええ、よろしくてよ」
ユーリが気を利かせてくれたらしい。ドラゴンブレスによる冷却。以前にエリサが炎天下の中倒れた時にも使ってくれたが、夏に便利なのは間違いなさそうだった。アンジェリカの方を見やると、彼女の周りにうっすらだが、白煙が舞っている。どうやら先に冷却しているのか、遠隔でできるらしい。
別荘の前ではアリアンナとアリシアが待っていた。それぞれパンツスーツに、タイトスカートだ。二人とも上着を脱いで、手に持っている。つばの広い帽子を被った長身のアリアンナが日傘を差していて、その日陰にちょこんとアリシアが収まっている。
二人に、アンジェリカが声をかける。
「お待たせいたしましたわ」
「そんな待ってないわ。まだタクシーも来ていないし」
やはり熱いのか、どこか気だるげにアリシアが言う。ユーリがエリサの手を引いたまま二人に近づくと、おっ、とアリアンナがつぶやく。
「ユーリ兄さんクーラーは、夏の必需品だね」
「冬はカイロにもなりますわよ?」
アンジェリカが得意げに言うと、ユーリは苦笑いを浮かべる。
炎天下の中、タクシーを待つ。ただ炎天下とはいっても、ユーリのドラゴンブレスによる冷却のおかげで暑さを感じることはない。ただ、強い日差しと照りかえす道路が、否応なしに暑さを錯覚させてくる。
「そういえば」エリサはユーリに尋ねる。「ユーリさんのその……ブレスは、冷気、ということでいいのですの?」
ユーリは、あー、と少し困ったような声を上げる。彼自身も、回答に悩んでいるようだった。口の中で言葉を反芻しながら、何とか言葉を絞り出す。
「冷気というよりは、エネルギーを奪っているというか、対消滅? させてるらしい」
「らしい、って」
「僕も、正直なことはよく分からないんだ。父さんと母さんから、そういうものだ、って教えてもらったくらいで」
つまりは、ユーリのドラゴンブレスは、『負のエネルギー』ということらしい。エリサはこの納涼が、なんだか末恐ろしいものに段々と感じられてくる。
「前から思ってたんだけどさぁ」アリシアが、どこか目を爛々と輝かせながら、ユーリに言う。「それ、『負の質量』に変換できる可能性があるってことじゃない?」
「反重力ってこと?」
「いいえ、もう少し言うなら……アルクビエレ・ドライブとか」
ユーリは、思わずハトが豆鉄砲を食らったかのような表情を浮かべる。
「僕のセオルスフィアに、一般相対論を組み込めと?」
「例えば、の話よ」
それに、とアリシアは続ける。
「量子重力理論も組み込んだ方がいいかもしれないわよ。泡表面でのカシミール効果を考慮するなら、ね」
「勘弁してよ。そこまで行くのにどこまでかかることやら」
それに、とユーリは続ける。
「まずはストラトポーズを超えるんだ。そうしないと、何も始まらない」
「……ですわね」
アンジェリカが小さくつぶやく。
エリサが何かを言いかけようとしたところで、タクシーが来た。屋敷の前に滑り込んでくると、誰が動かしているわけでもないのにドアが開いた。無人で動くタクシー。
「さ、行きますわよ」
アンジェリカが頷くと、皆はタクシーに乗り込んだ。
タクシーに乗り込んでも気の利いたアナウンスがあるわけでもなく、タッチパネルにアンジェリカの名前と行き先が表示されていた。
『Angelica Hotaka』
「待ちなさい」
思わずエリサが言った瞬間、ドアが閉まってタクシーが滑るように走り出した。
「待ちなさい、アンジェリカ。さっきのはどういうことです!?」
「ふむ、次は『ユーリ・ゲルラホフスカ』にしますか」
「まだ入籍はしていないよ……」
ユーリは苦笑いを浮かべた。
「えー、ボクは『穂高・アリアンナ』がいいなぁ」
「どうせお互いの家の名前名乗ることになるでしょ。散々長い名前なんだし」
アリシアが呆れたようにつぶやく。
そこでエリサは、ふと『穂高絵理沙』という単語が思いついてしまい、思わずかぶりを振ってそれを頭の中から追い出した。
「どうしたの、エリサさん」
「な、何でもありませんわ」
そう頬を染めてそっぽを向くエリサを、アンジェリカはちらりと横目で見ていた。
タクシーは街中を静かに走り続ける。フレームに太陽光電池を使ったハイブリッド電源の電気自動車は静かだ。別荘街からオフィス街に出ると、車の通りが激しくなった。そのどれもが軌道エレベーターの関係者のそれだろう、というのはユーリにも想像できた。
軌道エレベーター建設前には静かな南海の孤島であったのが、軌道エレベーター建設後にはビジネスの拠点が多く建ち、それに付随して開発が進んだ。別荘街やその周囲の住宅街は静けさがまだ残っているが、喧騒は目前に迫っている。ユーリは、昨日のヒロを何となく想起した。
タクシーは大通りへ。昨日のホテルの場所へ向かう中、車内の空気はどこか張り詰めていくようにユーリは感じた。当たり前か、とも思う。アンジェリカやユーリ以上に、エリサにとっては自身の人生を決めるための会議でもあるのだ。緊張しない方がおかしいだろう。そうしてあっという間に、タクシーはホテルに到着した。観光客向け、ビジネス向け、それぞれ半分、といった雰囲気のするホテル。アメリカの系列のホテルだったか、とユーリはふと思い出した。
軽快な電子音と共に到着が知らされる。料金は事前に支払い済みだった。タクシーのドアが開き、冷房で冷えた車内に外の熱風が流れ込んできた。ぞろぞろと、全員でタクシーの外に降りた。
「場所はホテルの一八階。小会議室を借りていますわ」
アンジェリカがスタスタと歩き出すのに、全員でついていく。入口の自動ドアをくぐると、正面に大きなガラス壁と、オーシャンビューのダイニングが目に入ってきた。ブランチを取っているのだろうか、人の姿がちらほらと見えた。全員はホテルのフロントに向かうと、ユーリは抱えていたバッグの中からアンジェリカのパスポートを取り出し、彼女に差し出した。フロントで受付に向かって、にこやかな笑顔を浮かべてアンジェリカはパスポートを差し、英語で話しかけた。
「こんにちは。第四会議室を予約していました、アンジェリカ・ツァハ・ゲルラホフスカですわ」
「ミス・アンジェリカ、お待ちしておりました。こちらがキーカードになります」
そう言って会議室のカードキーを三枚、渡される。エレベーターを使うのにも必要らしい。
「ありがとう。ミスター・サタカは既に?」
「はい、お先に会議室でお待ちしております」
礼を言い、アンジェリカはユーリにパスポートと二枚のカードキーを差し出すとユーリは受け取ってバッグに戻す。
「さて、行きますわよ」
全員でエレベーターホールに向かい、エレベーターに乗る。キーカードをかざすと、エレベーターのボタンが緑色に光った。一八階を選択。
エレベーターのドアが閉まる。静かに、エレベーターが上昇していく。ユーリはわずかな気圧の変化を感じる。
ポン、と電子音が鳴った。ドアが開くと、どこか南国を思わせるカーペットの引かれた廊下が目の前に広がった。ユーリの鼻腔をくすぐる、独特な臭い。日本のホテルでは嗅がない、海外独特のこの香りの正体をユーリは結局知らなかった。洗剤か、脱臭剤の臭いだろうか。途端にどうでもいいことが気になり出しているうちに、廊下をずんずんと歩いていく。
「ここですわね」
英語で第四会議室と書いている、シンプルな扉。ドアの周りの壁がくぼんでいて、その横に金色のプレートが張り付けてあり、そこに記されていた。アンジェリカがドア横のカードリーダーにカードキーをかざすと、電子音と共に鍵が開いた。彼女は、どこか力を込めて、ドアを開いた。
「お待たせいたしましたわ」
「いいや、そこまで待って居ないさ――今日は、よろしく頼む」
部屋の中にいたのは、スーツを着た佐高修也。胸元にはサタカ工業のバッヂが小さく輝いていた。彼の婚約者は、フォーマルばワンピースタイプの服を着ていた。アンジェリカは右手を差し出すと、修也は一瞬戸惑った後、どこか理解したようにアンジェリカの差し出した手を握った。
「ええ。今日はよろしくお願いしますわ。良いビジネスの話ができますように」
アンジェリカは修也の婚約者とも握手を交わす。婚約者は、どこかぎこちなくアンジェリカの握手に応えた。ユーリは、バッグをテーブルの上で広げた。
「アンナ、姉さん。準備を始めよう」




