47/Sub:"空気"
「いただきます」
四人がいただきますを言うのに、困惑から抜け出せないまま遅れてエリサもいただきますを言った。パキリと割り箸を割り、恐る恐る蕎麦を取って麺つゆにつけ、啜る。
「……」
蕎麦であった。言い訳のできない程度には蕎麦だった。冷凍ものなのではない、しっかりと茹でたばかりであろう蕎麦。山葵を溶かすと、完全にそこは日本と化した。
「はい、飲み物」
ユーリがエリサに、開けた緑茶の缶を渡してくる。栄養表記などは流石に英語になっているが、日本でよく見かける緑茶のブランド。
「……ありがとうございますわ」
緑茶で一旦口直しをして、寿司を取る。はまちを取って、小さなカップの中の醤油につけて食べると、しっかりとしたネタの旨味を感じた。ネタもシャリも乾いていないし、新鮮だ。
「納得いきませんわ……」
確かに。確かにアンジェリカの言う通り美味しい。せめてもの抵抗に、謎の糸のような海藻をめんつゆにつけて蕎麦と一緒に食べてみるが、シャキシャキとした食感がアクセントとなって美味しい。そこには異国情緒はなく、間違いなく『日本』があった。
「認めなさいな。これがハワイですわ」
「いや、それは言い過ぎだと思いますわ」
器用に箸を使い、ずるずると音を立てて蕎麦を啜るアンジェリカに、思わずエリサがツッコミを入れる。アンジェリカの見た目は日本人らしからぬ見た目をしているのに、その所作はどこまでも日本人のそれであった。
エリサは海老の握りを食べる。サビが程よく効いていて、それだけでこの寿司が練度の高い料理人に握られたのを実感させられた。
「ほら、これはハワイよ、あーん」
アリシアがポキ丼を差し出してくる。スパイシーな醤油ベースのソースを絡め、マヨネーズをかけたマグロが載った、海苔とご飯。観念して口に入れると、口の中にようやくハワイが広がった。少し辛くて、思わず緑茶を飲む。
「異国に来ても変わらない物、変化を受け入れるもの。どちらもあるということですわ」
アンジェリカが稲荷寿司をほおばる。エリサは小さくため息をついて、同じように稲荷寿司をほおばった。甘くて、ジューシー。日本の味。
「ここの、好きなんだ」
ユーリが蕎麦を啜りながら言う。彼も日本人――というか、縦長の瞳孔と言い、白銀の髪といい人間らしからぬ見た目をしているのに、とても器用に箸を使って食事をする彼を、エリサはどこか不思議そうな見た目で見ていた。その視線にユーリが気づく。
「どうしたの?」
「い、いえ。随分器用に箸をお使いになるのかしら、と思いまして」
そうエリサが言うと、ユーリはきょとん、とした表情を浮かべる。
「僕、産まれも育ちも日本だよ?」
「……もう考えないことにしますわ」
「言っておきますけれど、貴女も大概ですわよ」
ため息をつくエリサに、アンジェリカが突っ込む。顔立ちや目尻などにアジア系の血は感じられるものの、青い瞳に金髪と、エリサの姿も日本人に見えない姿であった。
「私はお婆様がイギリスの旧家の令嬢でしてよ。家柄、なのですわ」
「あら? それを言うならユーリはブルガリアの神竜と、龍神の末裔のサラブレッドでしてよ」
「大袈裟だよ」
唐突にユーリに舵を切ってきたアンジェリカの発言に、彼はため息をつきながら蕎麦を啜る。アリシアがそう言えばそうだったわねこいつ、とケラケラと笑った。
「ユーリ、実家やたら大きいもんね」
「言っておくけど、あれは賃貸みたいなものだからね? ユニオンの」
そこまで言ったところで、エリサは小さく目を見開いた。
「ユーリさんのご両親は、ユニオン関係者ですの?」
ユーリはしばし、言葉を詰まらせた後、瞳だけ動かして周囲を確認し、それからため息とともに頷いた。
「うん。二人とも、現役軍人だ」
ほぅ、とエリサの口から息が漏れた。その息に込められた感情は、ユーリには推察することはできなかったが、様々な感情を含んでいるというのは、彼女の表情から読んで取れた。
「別に。特筆するべきことはないよ」
ユーリは寿司を口に放り込んだ。アンジェリカはアリアンナから焼きそばを拝借し、啜る。
「家柄自慢など、する価値のない話題ですわ」
それにエリサの眉毛がピクリと動いた。ユーリは拙い、と直感で感じ取る。
「あら? 家の歴史について話す程度の事、出来ないことはないでしょう?」
「過程は関係ありません。結果がすべてですわ」
「では、その結果とやらをお聞かせしてもらいましょうか?」
そうエリサが言った途端、アンジェリカは自分の胸元に手を突っ込んだ。出てきたのは、いつぞやユーリが渡した、二つの指輪が通ったネックレス。その意味が解らないほど、エリサは愚かではなかった。彼女の顔が赤く染まる。
「ゲルラホフスカ家とヴィトシャ家。仲が良い両家で感謝させていただきますわ! おーっほほほほほ!」
アンジェリカの高笑いが、ユーリ達以外に客の居ない店内に響く。ぎりぃ、と小さく何かが軋むような音がして、何事かとユーリが音のする方を向くと、エリサがお手本のような歯軋りをしている。うわぁ、と思わずユーリが声を漏らす。
「ほ、ほら。エリサさん。早く食べないと蕎麦が伸びちゃうよ」
「え、ええ。そうですわね」
「婚期が伸びそうなご令嬢は大変そうですわぁ!」
「アンタは黙ってなさい!」
アリシアがポキの、特に赤いソースがかかっていた部分をスプーンで取るとアンジェリカの口に勢いよく突っ込んだ。おごっ、としてはいけない音を立てて、慌ててお茶を飲むアンジェリカ。ひぃ、と小さく悲鳴を漏らす。
「からいですわ!」
「自業自得だよ、姉さん」
じっとりとした目でアンジェリカを見つめるアリアンナ。アンジェリカは小さく咳をすると、いそいそとネックレスを胸元にしまい込む。それをエリサの瞳が最後まで追っていた。
「さ、早く食べちゃおう。この後買い物するんだから」
ユーリが急かすと、しぶしぶ、と言った表情で、エリサとアンジェリカは食事を再開したのだった。それを見て、アリアンナとアリシアは、静かに苦笑いを浮かべた。
食後。食料品の買い物はあっという間に終わり、空港に戻って一時間半でキリスィマスィ島に戻ってくる。同じように自動タクシーで別荘まで戻ってきて、買ってきたもので夕飯が振る舞われる。
夜。リビング。
ユーリはソファーに座りながらテレビをザッピングしている。どのニュースもあまり内容が変わらない。ヨーロッパの難民の話が放送されている。焦燥した親子の映像がどの局でも流され続けているのを見て、ユーリは気持ちがげんなりしてくるのを押さえられなかった。映像は、どれも同じ映像だった。
「ユーリさん」
声が掛けられる。そちらの方を見ると、エリサがリビングの入り口に立っていた。アリアンナから借りたのか、ゆったりとした半袖のシャツと半ズボンのジャージを、どこか居心地悪そうに着ている。
「どうしたの?」
「その……眠れなくて」
明日はいよいよ交渉の日だった。緊張して眠れないのは当たり前だろう。アンジェリカも、どこか気が立っていたのか、『瞑想しますわ』と言い、寝室にて一人でベッドの上で綺麗な正座で座している。ユーリは邪魔してはいけない、とリビングまで退避してきたという訳だ。
ユーリはエリサにソファーに座るように促す。彼女が座ると、入れ替わりにユーリは立ち上がった。
「何か、飲む?」
「水で、いいですわ」
ユーリは台所に向かうと、ライムの香りが付いた炭酸水をグラスに入れて持ってくる。エリサの分を入れて、ふと自分の分も入れた。二つのグラスを持ってリビングに戻ってくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
エリサがグラスを受け取ると、ユーリは自分のグラスを差し出す。エリサがきょとんとした表情を浮かべていると、ユーリは自分のグラスを軽くエリサのグラスにちん、と打ち合わせる。
「僕達の未来に」
「……私達の未来に」
エリサが、どこか弱弱しい笑顔でグラスに口をつけると、ふわりと柑橘類の香りが鼻を突き抜ける。それは、張り詰めていた彼女の気分を幾分か和らげてくれた。
「美味しいですわ」
「リラックスできるかな、と思って」
ユーリは自分のグラスをぐい、と煽った。喉を炭酸の刺激が降りていく。けぷ、と小さくげっぷをする。
「失礼」
「構いませんわ。炭酸ですもの」
そう言ってエリサもぐい、と炭酸を煽った。慣れないのか、けほ、けほ、と思わずむせた。
「炭酸をこんなに飲んだのなんて、初めてですわ」
「経験することはいいことだ。どんなものであれ、未来に進むための燃料になる」
そう言うユーリの横顔には、歳に不相応な深みが浮かんでいて、思わずエリサは息を呑む。だが直後、げぷ、とげっぷが出てきてしまった。
「失礼しましたわ」
「構わないよ。お互い様だ」
ユーリは両手で持ったグラスの中を見つめた。泡が浮かんでは弾け、そのたびにごく小さな水滴が水面で跳ねる。一つの世界のように見える光景。
「ユーリ、さんは」エリサが、ぽつりと漏らすように、言った。「家業を、継ぎはしないのですか」
ユーリは、小さく目を見開いて、それから少し恥ずかしそうにソファーに身体を預けた。
「家業、なんて大層なものじゃないさ。それに、ヴィトシャ家の従兄の方が、ずっと向いてる」
「いえ、そうではなく、ユニオンの」
エリサがそう言うと、ユーリはあー、と頬を小さく掻いた。
「ユニオンの方こそ、家業でもなんでもないさ。軍人家系で継ぐなんて、そっちの方が組織にとって不健全だ」
そこまで言って、ユーリはもちろん、と言い直すように続けた。
「背中を見て憧れた、とかなら、話は別だけれども」
エリサは、黙ったままだった。
ユーリは、静かに彼女に寄り添う。彼女の苦悩が、大気越しに伝わってくるようだった。
「アンジーに、聞いてみたい?」
ユーリがそう言うと、ハッと彼女の肩が震える。そして、しばらくしてぽつ、ぽつ、と漏れるようにして語り出す。
「……私は、彼女に聞きたいのです。未来に進むために置いて行くもの。それをどうやって選んで、どうしてそうできたのかを」
その言葉は、まぎれもない彼女の本音であった。彼女の苦悩の根源であり、アンジェリカに対する情景である。その言葉を聞いて、ユーリは静かに目を細める。
「エリサさん」ユーリは、語り出す。「僕は、全てを置いて行こうとした人間だ。それがどれほど、愚かなことかを知らずに」
懺悔するように、悔いるように、彼はつぶやく。
「それがどれだけ馬鹿なことか。この歳になってようやく理解できた竜だ。エリサさんはまだ選んでない。だからこそ、昔の僕みたいにはならないで欲しいんだ」
ユーリは、くい、と残りの炭酸水を飲み干す。げっぷは、出なかった。
「エリサさんの周りには、今沢山の人がいる。アンジーにアンナ、アリシア姉さんや、それこそ咲江先生だって。それは、きっと素晴らしいことだ」
ユーリは、エリサの方を見ずに言う。
「君は、君のペイロードを、見つけられるはず」
エリサの返答はなく、ただ炭酸がグラスの中で弾ける音だけが静かに響いていた。




