46/Sub:"ヒロ"
「すみません、これの試着をお願いします」
ユーリがエリサの手を引いて水着を初老の女性店員の所に持っていくと、彼女は快く引き受けてくれた。エリサは水着を持って、どこか嬉しそうに試着室に入る。
「何のつもりですの」
アンジェリカがどこか不機嫌そうにユーリに耳打ちしてくる。ユーリは小さく肩をすくめた後、彼女に耳打ち返した。
「水着だって、エリサさん持ってきてないでしょ? さすがにアンジーやアンナのものを貸すわけにはいかないだろうし」
「だからといって、至れり尽くせりにも限度はありましてよ?」
「うん。だから、これは僕のお小遣いで出すよ」まぁ、とユーリは居心地悪そうに頬を書く。「迷惑料も兼ねて、だけど」
アンジェリカはユーリの顔をじっと見つめて、それからおもむろにため息をつくと、彼の頬をつまんでぐにぐにと引っ張った。
「わたくしも半分、出しますわ。迷惑料と言うなら、これでイーブンでしょう」
「そうだね。ありがとう」
アンジェリカがもちもちとしたユーリの頬の感触を楽しんでいると、更衣室のカーテンが開いた。出てきたのは、水着姿のエリサ。スタイルがいいのもあって、水着が似合っていた。
「ど、どうかしら」
「似合ってるよ。すごく」
ユーリは即答する。彼の頬をつまむアンジェリカの手の力が強まった。
「お、おほほ。お褒めに預かり光栄ですわ」
エリサがどこか恥ずかしそうに言う。腰に手を当てると、彼女のプロポーションがより強調された。
「コホン! コホン!」
アンジェリカがわざとらしくせき込む。二人の視線が彼女に向くと、アンジェリカは呆れたような表情を浮かべる。
「用が済みましたら、とっとと買って行きますわよ。時間は無限ではありませんわ」
「あら? 買い物を楽しむ余裕もないのかしら? 優雅ではありませんわね」
二人の間の空気が冷え込みかけたのに、ユーリは思わず間に割って入る。
「エリサさんはそれが気に入ったの?」
「え、ええ。これが良い……ですわ」
どこか一瞬、悩んだような間と共にエリサは言う。ユーリはそうか、とだけ返すと、男性店員に向き直った。
「すみません、この水着も追加で」
「かしこまりました」
女性店員がエリサの水着のタグを切ってレジに持っていくと、エリサは慌てた様子でユーリに言う。
「い、いえ。私が買いますわ」
「財布も持っていないでしょうに。良いからわたくしたちにプレゼントされていなさい」
エリサをどこか呆れた様子のアンジェリカが止めて、試着室に押し戻した。カーテンを無理やり閉めると、観念したのか、中から水着を脱ぐ音が聞こえた。そうして会計が済んだころ、エリサは買った水着を大事そうに抱えて試着室から出てきた。
「……ずいぶんとお気に召したようで」
良いものではあるが、ブランド物の高級品のようなものではない。エリサの様な性格だったら、そういうことにこだわりそうなものだとばかりアンジェリカは思っていた。ところが、今のエリサはどうだ、まるで宝物のように水着を抱えている。店員がそれを紙袋に包んだあとも、両手でそれを抱えたままだった。
エリサは、すこし恥ずかしそうに、だけど言葉尻から溢れ出る嬉しさを隠さずに、言う。
「初めて」エリサの声は、端が少し震えていた。「こうして水着を買ってもらったの、初めてですわ」
アンジェリカは複雑な表情を浮かべて、天を仰ぐ。それから深い深いため息をついた。
買い物が終わって、全員で店を出る。外はまたしとしとと小雨が降り出しており、全員で軒下を歩く。紙袋に入ったエリサのスーツが濡れないように気を付けながら、軒下から軒下へと移って道を歩いて行った。そう言って、先程アリアンナとアリシアと別れた所まで戻ってきた。生憎、二人はまだ戻ってきていない。ユーリが腕時計を見ると、一一時一五分。まだ少し時間がある。
「時間が余りましたわね」
アンジェリカが軒下のベンチに腰掛けながら言った。ユーリとエリサも座る。ユーリを両側から挟むような形に。
静かな雨が道路を濡らす。霧吹きを吹きかけられているような霧雨が静かに降り続き、時折道路を通る車の音だけが、辺りに響いた。
「雨、ですわね」
エリサがぽつりとつぶやく。珍しくもないよ、とユーリが返した。
「このあたりは東風が年中卓越してるから、マウナケアとマウナロアのせいで風が遮られてヒロは雨が多いんだ」
「年に四〇〇日雨が降るとも言われていますわね」
アンジェリカが手を伸ばす。直接は当たらないが、霧のように小さな雨粒はふわりと浮かんで、アンジェリカの手をわずかに濡らす。エリサは、ふと気づいたように言った
「と言うことは、逆に――コナの方は、雨が降らないんですの?」
「ご明察。あっちの方は雨がほとんど降らないから、場所によってはステップ気候……乾燥地域だ」
「意外ですわ。スコールがあるような、熱帯雨林のイメージだったものですから」
「ビッグアイランドは、余り有名ではないですから」
アンジェリカは、静かに目を閉じる。ホノルルとは違う、静けさに満ちた街中。
ふと、遠雷の様な音が響いてくる。おや、とユーリが音の少し先の方に目線を向けると、曇天を切り裂く翼。日本の空輸会社のペイントが描かれている。フラップとスラットを大きく出し、翼端から飛行機雲を糸のようになびかせながら頭上を飛び越えていった。
「貨物機か」
ユーリが呟くと、アンジェリカがそうですわね、と漏らす。
「この町も、いずれは賑やかになるのでしょうか」
「どうだろう。ホノルルの地価が高いって言うのもあるのだろうけど、コナ空港と分けて使ってるからね」
ジェットエンジンの轟音は、霧雨舞う大気に融けて、消えていく。辺りには再び静寂が戻ってきた。
「おーい。お待たせー!」
声がした方を見ると、アリアンナがこちらに手を振っていた。横にはアリシアが霧雨の降る空を見つめている。横断歩道を渡ってきて、ユーリ達が座っているベンチの前にまで歩いてくる。
「待った?」
「いいや。そこまで待ってないさ」
ユーリが立ち上がると、日が指す。濡れた道路が照らされて、煌めいた。アンジェリカは腕時計を確認すると、さて、と呟く。
「少し早いですが、お昼にしますわよ」
「賛成。お腹すいちゃった」
アリシアが腹部をさする。ユーリも、少し腹が空いてきていた。エリサは、少し楽しみな気持ちが逸る。こうして海外に来ることなど数えるほどしかないし、ましてやこのように下町を観光することなど初めてだ。どんなエキゾチックなものが食べれるのだろうか。軒下の歩道を歩いて海沿いの道路に出ると、ところどころ雲の隙間から太陽が海に差し込んでいる。ほぅ、とその光景に見惚れていると、こっちですわ、アンジェリカから声を背中にかけられる。
「今行きますわ」
そう言ってエリサが振り向くと、小さな、コンビニほどの広さのフードコートが目に入る。窓ガラスのウィンドウの中に二つほど店舗が見えて――寿司?
「え?」
「ほら入りますわよ」
フードコートの中に入る。エリサが困惑していると、その店の看板が目に入る。
『SUSHI&SOBA』
「え? え?」
「どうしますの?」
「私はポキ丼で」
「ボクは焼きそば」
「僕はスシソバセット」
なんで寿司? なんで蕎麦? エリサが困惑していると、アンジェリカが少し焦れたように聞いてきた。
「貴女はどうしますか」
「え、え」
どうしようか。というかなぜハワイで寿司と蕎麦なのか。いや、ハワイには日系人が多く移民してきた過去があるので、特段不思議なことではないのだが、達筆な筆字で描かれた看板の『SUSHI』 が余りにも違和感を覚えさせる。
「わ、私もスシソバで……」
「スシソバセット三つ、ポキ丼一つ、焼きそばを一つ、あとお茶を五缶お願いしますわ」
アンジェリカが流ちょうな英語で、手早くカウンターで注文と会計を済ませる。窓際の席に隣から椅子を一つ拝借して五人掛けにすると、そこに全員で座る。ちらりと、寿司蕎麦の店の隣にロコモコの店があるのが見えた。後悔先に立たず、であった。
「ここの蕎麦も寿司も、味は保証しますわ」
「そう言うことではありませんわ……」
カウンターの奥では日系人と思われる店員が元気よく料理を作っている。手際よく注文をさばくその姿は、ここがハワイであるというのを一瞬忘れるようで、カウンターに書かれている英語のメニューが彼女を一気に日本から引き離す。
「で、お目当ての物は買えたの?」
アリシアが尋ねてくると、アンジェリカはええ、と満足げに頷いた。
「店主のおじい様も、元気でいらっしゃいましたわ」
「のんびりしてていい街よね、ここは」
アリシアは窓の外を見やる。雨のせいもあるのか、人通りはまばらだ。晴れた休日には多少観光地のように賑わうのを、彼女は知っていた。それでもホノルルのような観光地よりは、よっぽど静かだ。
「で、この後の予定は何かあったっけ?」
アリアンナが端末を取り出しながら聞くと、アンジェリカは腕時計をふたたび見た。
「この後は、隣のマーケットで食品などを買って、それで空港に戻りますわ」
「観光している暇は、ないかぁ」
少し残念そうに言うアリアンナ。ユーリはしょうがないよ、と肩をすくめた。
テーブルの上で振動音が鳴った。呼び出しブザーが点滅しながら鳴っている。ユーリが立つと、アンジェリカが手伝いますわ、と立ち上がった。
「わ、私も手伝いますわ」
「エリサは待って居なさいな。ゲストらしく、ね」
そう言ってアンジェリカに静止されると、向かいでアリシアがエリサにウィンクをする。大人しく待って居るべき、と言うことだろうか。すぐに両手に器用にトレイを持ったユーリとアンジェリカが戻ってきて、トレイをテーブルの上に並べていく。
「……」
「わぁ、美味しそう」
エリサが沈黙しているのに、アリアンナは感嘆を漏らす。
目の前に並んでいるのは――糸のような見た目の、日本では見かけない海藻が添えられているなどの違和感はあるが――ごく普通のざるそばだった。食品用厚紙の四角い皿に盛られ、上には胡麻と青ネギがちょこんと乗っている。皿の端には、スープなどが入れられるような白い使い捨てカップに入った、めんつゆ。丁寧に練り山葵が縁に添えられている。脇には、一回り小さな四角い紙皿に乗せられた握りずしと巻きずし。ネタはマグロ、サーモン、おそらくハマチ、海老、いなり寿司が一貫ずつ。そしてこれまた日本でよく見かけるような鉄火薪が三つ、ちょこんと肩を並べている。ガリまで付いていた。
どこまでも『日本』が、テーブルの上には広がっていた。
店は私がヒロで行った実際の店がモデルです




