45/Sub:"南国"
「朝ごはんできたよー!」
ちょうど、朝食を作り終えたユーリが皆に呼びかけた。アンジェリカはエリサと顔を見合わせると、小さく肩をすくめて、ソファーから立ってダイニングへと向かった。
昨日使うことのなかったダイニングはシンプルだった。白い長テーブルに、左右三席、端にそれぞれ一席ずつの計八席の、背もたれが高い椅子が置かれている。床はカーペットではなく、滑らかな木だった。テーブルの上には朝食が並んでいる。金属製の、五つに区分けがされたプレート皿に、サラダと、カットフルーツ、漬物、そしてグリルした魚がカットされてそれぞれ並べられていた。横に置いてあるのは、みそ汁の入った椀。アオサが浮いて、上品な香りが漂っている。
エプロン姿のユーリがキッチンから出てきた。トレーに乗った、湯気のあがる白米を盛った椀を並べ始める。
「アンジー、納豆は?」
「いただきますわ」
「エリサさんは?」
「え、ええ。お願いします」
ユーリが空になったトレーを抱えてキッチンに戻っていく。冷蔵庫を開けて、紙カップの納豆を三つ、プレート皿の一つだけ空いていた区画に置いていった。
「おはよぉ、ユーリ兄さん」
ようやく起きてきたアリアンナが、あくびをしながら器用に挨拶をしてくる。髪はまだ整えていないのか、寝癖が付いてところどころ乱れている。
「アンナ、顔だけは洗ってきなさいな。目やにが付いてましてよ」
「ふぁい」
アリアンナはふたたびあくびをしながら洗面所へと引き返していった。入れ替わりでアリシアがダイニングに来る。
「おー、朝からマグロとは、豪華ねえ」
アリシアが皿の上に乗った朝食を見ながら言った。キッチンからユーリが納豆いる? と尋ねるのに、アリシアがアンナも含めて二つ、と答えた。キッチンから、片手に納豆を二カップと、もう片手に緑茶の入ったピッチャーを器用に持ったユーリが出てくる。
「朝ランニングついでに、魚市場に寄ってきたんだ。そうしたらキハダマグロが水揚げされてて、思わず買っちゃった」
「それでマグロの……タタキ、とでも言えばいいのかしら、これは」
「グリルで良いと思いますわ」
アリシアが立ち上る香ばしい香りに鼻をすんすんと鳴らす。食欲を誘う匂い。
「お待たせぇ」
さっと顔だけ洗ってきたのだろうか、アリアンナがすぐに戻ってきた。全員で席に着くと、ユーリと姉妹は手を合わせる。思わずエリサも手を合わせた。
「いただきます」
「……いただきます」
やはり慣れない、と思いながらエリサは言った。炊き立てだろうか、白米は美味しそうな匂いを漂わせている。ふと横を見ると、慣れた手つきでアンジェリカがカップの納豆をかき混ぜていた。
「あ、お醤油頂戴」
アリシアが言うと、ユーリは自分が使っていた醤油のミニボトルを彼女に差し出す。
「山葵は?」
「いらないわ」
アリシアは数滴、マグロのグリルの上に醤油を垂らしてご飯の上に乗せ、白米と一緒に頬張る。
「あ、美味しいわね。これ」
「良かった。朝から刺身、って言うのもなんだか妙だから、少し捻ってみたんだ」
エリサも醤油をもらい、プレートの端に出す。蓮の葉の上の雨粒のようになっているそれに切り身をそっと漬けて食べると、なるほど香ばしくて美味しい。
「ユーリさん」
エリサがユーリに尋ねる。彼は納豆の蓋を開けながら何? と不思議そうな表情でエリサを見返してきた。
「ご飯は、いつも貴方が?」
「あー。僕が多いけど、アンナ――アリアンナが、作ってくれることもある」
アリアンナは、味噌汁を飲みながら器用にピースサインをしてくる。
「ところで、アンジェリカは?」
「あー、アンジーは……」
二人でアンジェリカの方を見る。アンジェリカは、ふん、と鼻を鳴らした。
「肉の焼き方なら、ユーリに負けるつもりは無くてよ」
「ということだ」
エリサは怪訝な視線をアンジェリカに送る。アンジェリカはどこ吹く風、と言わんばかりの表情でご飯を口に運んでいる。
「それで、アリシアさんは――」
「悪いけど、私のご飯の話はしないで」
きっぱりと言い放つアリシア。そのあまりの言いように、エリサは困惑の表情を浮かべて辺りを見回す。ユーリ、アンジェリカ、アリアンナ。皆顔を逸らす。
「え、ええ。この話は、ここまでにしましょう」
アンジェリカが話を逸らす。でかした、とユーリが視線でアンジェリカに告げると、彼女はエリサを見てそういえば、と言った。
「エリサ、今日はこの後買い物に出かけますわよ」
「買い物?」
「貴女、その服で交渉に臨むつもりかしら?」
「貴女が貸したんでしょう!? いちいち嫌味な女ですわね!」
エリサががるる、とアンジェリカに噛みつく。ユーリは思わず、えーと、と間に割って入った。
「で、でもエリサさん。その服、とても似合ってるよ」
エリサはそう、唐突にユーリに言われて急に頬を赤く染める。
「あ、ありがとうございますわ」
「どういたし……まして?」
急に礼を言われたことに疑問符を浮かべながらも返すユーリ。それを横から見ていたアンジェリカはみるみる不機嫌になる。
「ほら! 早く食べなさいな! 支度をしたらすぐに出発しますわよ!」
そう言ってもりもりと食事を進めるアンジェリカ。
エリサは考える。ここまで見てきた風景。買い物とは、いったいどこへ行くつもりなのだろうか? 少なくとも、礼服を取り扱っている所なんて、まず見なかったような。
「それで、どこへ行く気なのですか? まさかこの島にショッピングモールがあるとは言いませんわよね?」
「ないなら、あるところに行くだけですわ」
含みのある言い方をするアンジェリカに、エリサの眉間に皺が寄る。
「言っておきますが、これ以上振り回されるのは御免ですわよ」
「あら? 少しハワイに行くぐらいでしてよ」
「あら、なら安心ですわね――は?」
エリサは、思わず聞き返した。え? 今何と言ったのか?
「は?」
――二時間後。
「……」
「エリサ! 早く行きますわよ!」
涼し気な、白いシャツと赤いスカートに身を包んだアンジェリカがエリサを呼ぶ。
ハワイ島、ヒロ国際空港。朝食を終えて再び空港に行き、また飛行機に詰め込まれて一時間もしないうちに到着したのは、静かな森に囲まれた、どこかノスタルジックな雰囲気漂うヒロの街。つい先ほどまで雨が降っていたのか、アスファルトの路面は湿っている。空は灰色が混じった白い雲に覆われ、ところどころスカイブルーの空が隙間から顔を覗かせていた。
「納得いきませんわ……」
「超音速機ならキリスィマスィからヒロまで一時間もかからずに行けますわ。もっとも、半分近くは加減速の時間なのですけれど」
「距離的には東京から沖縄までとそう変わらないもんねぇ」
アンジェリカとアリアンナが、呆然としているエリサに言う。理屈では合っているのだろうが、感覚が追いつかない。唯一の救いは、時差がほぼないことであった。
「アリシア姉さんはどうする?」
「あー。折角だし、近くの博物館でも見てくるわ」
「じゃあボクも見てくるよ」
そう言ってアリシアの傍に寄るアリアンナ。
「連絡にはすぐ出れるようにしてくださいまし。あと、集合は一一時半ですわ。お忘れなく」
「はいはい、りょーかい」
そう言ってアリアンナと二人、交差点の向かいの博物館に消えていくアリシア。残されたのはアンジェリカとユーリ、そしてエリサ。
「さて、服を買いに行きますわよ」
「本当に大丈夫なのですわよね……」
今の所、エリサの『もうこれ以上驚くことはないだろう』と言うラインを常にオーバーランし続けている。次に一体何が来るのか不安でしょうがなかった。
「あー。エリサさん。それに関しては心配しなくていい。僕が保証するよ」
ユーリがほほ笑みながら手を差し伸べてくる。エリサはその手とユーリの顔の間で数度、視線を行ったり来たりさせると、おずおずとユーリの手を取った。ぐい、とアンジェリカがユーリの反対の腕を取り、組む。
「あ、アンジー?」
「ほら! 早く行きますわよ!」
「ちょ、引っ張らないでくださいませ!」
ユーリがアンジェリカを押さえて、三人で横に並んで軒下の歩道を歩く。雨が多いヒロならではの光景だった。
「あそこの角ですわ。大抵、あそこに行けばどんな服でも揃いますわ」
少し歩いたところでアンジェリカが指さしたのは、ごく普通の服屋。観光客向けのそれではない、地元に住む人のためのそれとわかるような雰囲気に、思わずエリサはアンジェリカに尋ねる。
「貴女、一体どうやってこんな店をご存じになったの?」
「あら? ヒロ空港が軌道エレベーターへの物資運搬の拠点だと言えば、もうお分かりでしょう?」
「別荘に行くついでに、ここに寄ることが多いんだ」
勿体ぶった言い回しをするアンジェリカをユーリがフォローした。
店内に入る。カウンターの奥では、初老の男性がカウンターで新聞を読んでいた。エリサが日本人? と思った次の瞬間、彼はユーリとアンジェリカの姿を見ると、朗らかな笑顔を浮かべていきなり英語でしゃべり出した。
「おお、これはアンジェリカ様にユーリ様。ご来店ありがとうございます」
「ええ。お父様とお母様が先日はお世話になりましたわ」
「こんにちは。お久しぶりです」
顔なじみのように英語で会話し出す男性とユーリ、アンジェリカ。その姿にエリサが戸惑っていると、アンジェリカがエリサの腕を掴んでぐい、と男性の前に持ってくる。
「彼女の礼服を選びに来ましたわ」
「おお、お嬢様のご友人のお召物でしたか。お任せを」
婆さん。そう彼が店の奥に言うと、奥から今度は初老の女性が顔を覗かせた。彼が事情を話すと、女性が絵理沙を試着室へ案内する。あれよあれよという間に採寸される。そうして彼女が薄く透明なビニールに包まれたシャツとスーツ、タイトスカートを持ってきて、エリサは試着室の中でそれを言われるがままに着た。袖が少し余っているような気もしたが、採寸の腕がいいのか、ほぼピッタリなサイズの物を持ってきた。その様子を見たアンジェリカは腕を組みながらふむ、とどこか一人納得したような声を上げた。
「これにいたしますわ」
「袖を詰められますか?」
「ええ。お願いしますわ」
あれよあれよという間に購入が決まり、元のワンピース姿に戻りどこか置いてけぼりになっているエリサが店の隅のベンチに座っていると、ふと、並んでいる水着が目に入った。
上品にフリルの飾りが軽く付いた、水色から群青にグラデーションの入った、ビキニの水着。それがなんだかひどく気になって、それをじっと見つめてしまった。
「ん?」
ユーリがふと、静かなエリサに気が付いた。彼女の視線の先をたどると、まるで空のグラデーションの様な水着。再びエリサの表情に視線を移す。
「……」
しばし、思考。
少しの思考ののち、ユーリは意を決したようにつかつかと歩いて、エリサの視線の先の水着を手に取る。あっ、とエリサが声を上げるのに、ユーリは水着を手に取ったままエリサの下に歩いてきて、しゃがんで目線の高さを合わせた。
「エリサさん。水着、着てみる?」
エリサは頬を赤く染める。そうしてユーリの手元の水着と、彼の顔を何度か見比べて、それから小さく頷いた。




