42/Sub:"関係性"
テレビでも見ていて、と言われたがさすがにこの状況でテレビを付けようと思うほどエリサは図々しくはなかった。だからと言ってすることもなく、仕方なしにエリサは荷解きにいそしむユーリ達を横から観察するしかやることがなかった。
換気が進んで、先ほどまでの部屋の冷気の名残はすっかりなくなっていた。赤道直下にあるとはいえ、海も近い影響なのか、そこまで過度に暑くはないが、代わりに湿度が高い。エリサの首筋にうっすら汗が浮かんできたところで、ごうん、と小さく低い音が鳴った。ユーリが古びた扇風機をもってきて通路で回し始めると、すぐに涼しげな空気が吹いてきた。
「暑くない?」
「大丈夫ですわ、お気遣いなく」
ユーリが全身からうっすらと白煙を出しながら言うのに、エリサは丁寧に返す。きっと彼のドラゴンブレスで周囲の空気を冷却しているのだろうが、そこまでの気遣いはさすがに不要だ。
そしてさっきから、やけに嗅覚が鮮明になっているような、そんな気がする。扇風機の風に乗って、ユーリの匂いがやたら鼻につく。臭いには気を使っているのだろうが、それでも漂ってくる、彼の匂い。
「エリサちゃん?」
アリシアに話しかけられて、エリサは唐突に我に返った。目の前では怪訝な表情をした、髪をほどいたアリシアがエリサをのぞき込んでいた。
「し、失礼いたしましたわ」
「急に眷属にしたものだから、体調に何かあったらすぐに言って頂戴ね」
あの女、とエリサはアンジェリカに再び怒りを抱いた。思えば、今回の騒動に至るまでの道程、全てアンジェリカの介入によるところが大きい気がする。生徒会長に落選したことも、ユーリに恥ずかしいところを見られたのも、いきなり血を吸われたのも、紐一本で空中散歩する羽目になったのも、南国に急に拉致されたのも全て、だ。
深く、深いため息をエリサはついた。どこか居心地悪げな表情でアリシアが頬をかく。
「姉さん、お風呂の準備できたよー……って、どうしたの」
ユーリが戻ってくると、気まずい雰囲気になっているエリサとアリシアの姿。状況が良く分からないが、何となくエリサが不機嫌という事だけはユーリにも分かった。ユーリがちらり、とアリシアの方を見ると、彼女は肩をすくめた。
「あー、エリサさん。シャワーの用意ができたよ。一番風呂、どうぞ」
「……そうさせて、いただきますわ」
エリサが立ち上がる。すたすたとシャワールームに入る彼女を見送りながら、今度はユーリが頬をかく番だった。
「エリサさんに関して、上手くいくと良いね」
「あんたが乗り気なのは、正直驚いたわよ」
アリシアがソファーに半ば倒れこむようにして座る。ぼふりと柔らかい音を立てた。
「もう少し、外の世界に目を向けた結果さ」
ユーリは先ほどまでエリサが座っていた場所へ、何の気なしに座った。テーブルの上のコップの中身は、空だった。
「……ま、どうなるかはあたしも分からないけどさ」
アリシアは横に倒れると、そのまま頭をユーリの太ももに載せる。膝枕の体制に。
「『責任を取る』ことも、考慮した方がいいかもしれないわよ?」
意地悪そうに笑うアリシア。それに対してユーリは、きょとんとした表情を浮かべた。その反応に、思わずアリシアは眉を顰める。
「あのさぁ」アリシアが手を伸ばしてユーリの鼻をつまんだ。「この朴念仁。そういうケがあることくらい、気づきなさいよ」
「いや待て」そこでようやくユーリがアリシアの発言の意図に気付いた。「エリサさんが、僕を?」
「あら? 少なくとも私には、あの娘とアンジェリカがあんたに向ける目、似たようなものだと思ったけどね」
アリシアはそこでまぁ、と一旦区切る。
「彼女がその感情に気付いているかまでは、分からないけどね」
ユーリはぐぅ、と唸った。仮に『そう』であったとして、アンジェリカ以外にアリアンナと咲江という、良く言えばハーレム、悪く言えば公認浮気をしている状況で、エリサをここに含ませないというのは『筋が通っていない』とも思えるからだ。
じゃあ自分は? エリサの気持ちがそうであったとして、応えることはできるのだろうか? と言うか自分はエリサのことをどう思っているのだろうか。少なくとも嫌いではない、と言うのははっきりと分かった。アンジェリカに似ているから、とは違う、彼女なりの意地というか、矜持の様なものをユーリは感じてはいた。
沈黙がアリシアとユーリの間に流れる。道路を走る車の音と、アンジェリカとアリアンナが荷ほどきをする音だけが遠くに響いていた。足音。ユーリが救いを求めるようにそちらを向くと、アンジェリカが歩いてきた。何とも不思議な空気を察した様で、怪訝な表情で二人を見つめてくる。
「一体何がありまして?」
どう説明したものか、とユーリが応えあぐねていると、アリシアがあっさりと白状した。
「エリサちゃんがユーリの事好きかもしれないけど、どうすんのって話よ」
「……今、なんと?」
アンジェリカの表情が固まる。そこでアリシアは、だーかーら、と察しの悪い妹に言い聞かせる姉のように繰り返した。
「エリサちゃんがユーリの事を好きだとして、アンタのラブラブハーレムライフに入れてあげるのかって話よ」
一瞬で、アンジェリカの顔が歪む。苦虫を百匹ほど、まとめて噛みつぶしたような強烈な表情に、ユーリは思わず小さく悲鳴を漏らした。彼女にも話の趣旨が理解できたようで、エリサの処遇について思うところはあるらしい。
「ええ……それはもちろん……」
もちろん、の先が言えないアンジェリカ。ひくひくと口元が歪んでいる。何事か、と顔を出してきたアリアンナがこちらまで来ると、アンジェリカの顔を見てうわぁ、と感想を漏らした。
「ま、まぁ、急いで決めることじゃないわよ。この旅行の間に決めなきゃいけないわけじゃあないんだし」
「え、ええ。そうですわね」
アリシアのフォローに、アンジェリカが慌てて取り繕う。ユーリもこのロックダウン状態から解放されるなら、もう何でもよかった。
「あ、そういえば、夕飯どうしようか」
アリアンナが思い出したように言う。全員で顔を見合わせると、一斉に時計を見た。食べに行くにも、買い物に出かけるにも一足遅い時刻。
「というか、さっき食べたばかりであまりお腹減ってないのよねぇ」
アリシアが自分の腹を撫でながら言った。周囲はもうすっかり日が落ちているが、日本時間で言うとまだまだ昼過ぎである。アリシアとアリアンナは空港で、遅めの朝食を食べてきたらしい。
「冷凍庫に何かないか、探しましょう。先日お父様とお母様が来ましたし、何か残しているかもしれませんわ」
「なら、ガレージの大型冷凍庫を見てくるよ。何か入っているかもしれない」
ユーリはソファーから立つと、いそいそとリビングの一角のドアに向かった。ドアを開けると、そこには暗いガレージが広がっており、中は空だった。電気を点けてサンダルを履いて、物置のように様々なものが並んでいるガレージの中を見回す。
「あ、釣り竿」
ユーリに時々貸してくれた、釣り竿。ルアーをつければ何か釣れるかもしれない。当初の目的を思い出しつつ、ユーリは業務用冷凍庫のような銀色の巨大な箱の蓋を開ける。ぶわりと中から冷気があふれ出た。
「霜取りしておかないとなぁ」
冷凍庫の壁に分厚く付着した霜は、表面がザラザラしている。帰る前に全部削り落としていくのがいいだろう。冷凍庫の中はがらんとしていて、必要最低限の物だけが入っていた。最も、その必要最低限が、今必要としているものだった。白く霜が積もったそれは、冷凍庫の隅を占拠していた。
「テレビ・ディナーか……」
積もった霜を払いのけながら、ユーリが箱を手に取る。パッケージにはプレートの上に乗った、湯気を立てるサーモンのグリルにエンドウ豆とコーンのソテー、ポテトの絵。見ると、ターキーやハンバーグなど、箱がいくつか並んでいる。
「アンジー!」
ユーリが叫ぶと、アンジェリカがひょっこりガレージに顔を出した。
「どうしましたの?」
「あったよ。これだけど」
そう言ってユーリがテレビ・ディナーの箱を見せびらかすと、アンジェリカはため息をついた。
「お父様もお母様も、忙しいからとこのような適当なものを食べるなんて」
「でもおかげで今の僕らが助かっている。結果オーライさ」
「いくつありますの?」
アンジェリカの視線が、もうもうと白煙を漂わせる冷凍庫へと移る。
「四つ、丁度四つだけある」
「まぁ、おなかもあまり減っているわけではありませんですし、それで丁度良さそうですわね。ユーリ、今夜はそれにしますわ」
どうやら、アンジェリカ側の収穫はなかったらしい。まあもっともで、長い間空けることになる別荘にそこまで食品は置きっぱなしにしないのは、ごく当然ではあった。
箱を四つ、取り出して蓋を閉める。ゆっくりと白煙を漂わせる箱を持って室内に戻ると、アリアンナがバッグの中から何かを冷蔵庫に入れていた。近くに行って見ると、なるほど、ソフトドリンクの缶や紙パックを冷蔵庫に入れていたらしい。
「日本から持ってきたの?」
「うん。どうせ買い物に行く暇なんてないだろうなぁ、って思ったからね」
牛乳にソーダ、スポーツドリンクにフルーツジュース。2リットルのペットボトルから紙パックまで合わせて五本ほどを、どうやら持ってきたらしい。
「ありがとう、アンナ」
「ふふ。もっとボクを褒めてくれてもいいんだよ?」
そう言って冷蔵庫の蓋を閉じると、立ち上がってユーリの方を振り向く。アリアンナの視線がユーリの手元に移ると、うわぁ、と小さな声を漏らした。
「それかあ」
「これしかないんだ。ごめんね」
「いいや、兄さんが謝ることじゃないさ。ボクも想像はつくさ」
そういえば。そうアリアンナが続けた。
「何?」
「ボクは、エリサさんが『仲間になる』のは、賛成だよ」
ユーリは、黙って箱をテーブルに置く。ずっと冷やされていたそれは、表面に霜がすっかり生えてきていた。
「理由を聞いても?」
「ボクとしては、エリサさんが『義姉さん』になるのもやぶさかではない、と言うことさ」
「倒錯してるなあ」
ユーリが小さく肩をすくめると、アリアンナはくい、とごく自然にユーリの顎を掴んで持ち上げる。
「ブレンドしてこそ、味わい深くなる。そういうものも、あると思わないかい?」
そう言って、アリアンナはごく自然にユーリにキスをする。さも当たり前のように舌を絡ませ、口の中を吸うような、深いキス。ちゅぷん、と音を立てて口が離れると、アリアンナは妖しく微笑む。
「賑やかに越したことはない。ボクはそう思うだけさ」
「……アリアンナは、やっぱり優しい子だね」
そう言って、ユーリはそっと彼女の頭を撫でた。彼女の頬が赤く染まる。
「いけずぅ」
「どんな関係になろうが、アンナは僕の可愛い妹。それはずっと変わらないさ」
ユーリがほほ笑むと、さらにその頬を赤く染めて、彼女は小さく俯いた。にんまりとほほ笑む口元が、全てを物語っていた。
ぴくり、と二人の耳が動く。
「――もし……! ――もしもし……!」
風呂場から聞こえる。二人で顔を見合わせると、慌てて小走りで風呂場に向かう。丁度、声を聞きつけたアンジェリカとアリシアも風呂場に駆け付けた所だった。ユーリは部屋をノックする。中から返事がしたので、ドアを開けた。
「エリサさん、何かあった?」
「ああ、あの――きゃああああああああっ!」
そこにいたのは、シャワールームで全裸のまま立ち往生していたエリサだった。ユーリと、三姉妹が一斉になだれ込んできたことで思わず悲鳴を上げる。
「エリサさん? 何か問題があったの?」
「あ、あの、き、着替えが」
顔を真っ赤にしながら胸元と股間を両腕で隠すエリサ。ユーリとアンジェリカが顔を見合わせると、それもそうか、と思い至る。彼女が来ていた唯一の制服は、アンジェリカが洗濯物入れに放り込んでしまった。
「エリサ、わたくしの寝間着を貸しますわ。ユーリ。なにか拭くものを差し上げて。アンナと姉様はもう大丈夫ですわ」
アンジェリカが指示を出す。ユーリはアンジェリカの方を見ると、小さく頷いて廊下に一旦出る。廊下に設置された洗濯機の上の戸棚からバスタオルを取り出すと、再び風呂場に戻り、エリサにどこか恭しくバスタオルを差し出す。
「はい、エリサさん」
「あ、ありがとうございますわ……」
なんだか釈然としない気持ちを抱えながら、エリサは差し出されたタオルで身体を拭く。ふわふわ。
「――って、そうではなくて、どうしてここに居るのですか!」
「え、だってエリサさんが呼んで」
「あなたに居られると! 身体が拭けませんの!」
そこでユーリは、ようやく状況に理解が追いついてきたらしい。視線がエリサの顔から、やや下に向いて、そして再び戻る。
「ごごご、ごめん!」
そう言って慌てて出ていくユーリ。ドアが強引に閉じられると、エリサはバスタオルを抱えてうずくまった。
見られた。ユーリに。いや、見られて恥ずかしいような身体ではないとは思うが、それでもユーリに見られるのはやっぱり恥ずかしい。というか、どういう感想を彼は抱いたのだろうか。太っている、なんて、思われてないか――。
「エリサ、服を持ってきましたわ――って、なんですか、この状況」
アンジェリカは、呆れたようにエリサに言い放った。




